二十一
沈みかけた陽を追うように凜は歩いていた。
目的などなかった。目的などとうに見失っていた。
人の目を嫌って、隠れるように林の中に入る。
城郭の内にある林にしては管理が行き届いておらず、藪をかけ分けて進む。山間の本物の森の中にある里で育った凜にしてみれば、歩くのに難儀するほどではない。
あの場から逃げたのだという自覚が凜にはあった。
このまま里に戻ろうかとも思う。
思って里に戻ったところで、役目を放棄した者に居場所などないと気がつく。
里はけして帰る家などではなかった。
「どこへ行こうか…」
行くべき場所などどこにもなかった。
去り際に当てつけのように由羅に任せると言った時の、陽鞠の傷ついた声が耳に残っている。
「星か…」
陽鞠の言葉が思い出される。
花は食べられるか薬になるか。星は方角を見定めるもの。凜にとって自然とはそういうものでしかない。
今更のように、ゆとりが足りないと言った由羅の言葉が突き刺さる。
由羅ならば、陽鞠と花や星を楽しむこともできるのであろう。
凜の足が無自覚に林の奥に向かった。
人工の雑木林だ。さして歩かずに抜けて、広場のようになった小さな丘に出た。
緩い傾斜を登ると白詰草の花畑が広がっていた。
何となく踏み込む気にはなれず、凜は花畑の前に腰をおろした。
空を見上げると、日暮は近く薄暗いが、星が輝くほどではなかった。
手持ち無沙汰に意味もなく腰の小太刀を抜く。
樋もなく色気のない湾れの刃文の無骨な刀身。質こそ悪くないが銘もない数打ちの量産品だ。
まるで自分のようだと凜は思う。
要には足りるが、それ以外の何も持たない。
優れたものと並べれば途端に見劣りしてしまう。
剣の腕では由羅に劣り。
覚悟で陽鞠に劣り。
想いでは蘇芳に及ばない。
並の人間であれば何とでも言い訳ができる。しかし、徹底して守り手になるべく育てられた凜は、もはや生まれついての資質が足りなかったとしか言いようがない。
剣の才なく。
強い意思もなく。
情熱もない。
小太刀を鞘に納め、次の瞬間、膝立ちで抜き打つ。
柄はほとんど握らずに支えるだけで、鞘引きと鋼の重みだけで抜く。腰詰めは正面を向いたまま、手の内は鞘離れした切っ先を誘導するだけにすれば、切っ先の重みで刃は自然に加速する。
物打ちが当たる瞬間に柄を握りこめば、切っ先は流れずに正中線で止まる。
完璧に型通りの、しかしそれだけの居合。
それが正しいのかどうかすら凜は考えたことがなかった。
型は最善ではなく、次善のもの。それを知っていたはずなのに、そこから離れようとしなかった。
手の内も、腰詰めも、あらゆる体捌きに自分に合わせた工夫のしようがあった。
得物もよくない。
抜き打ちに使うにしても刃渡りが短いし、反りも少なすぎる。
気付いたすべてが、凜の怠惰の証明であった。
生まれた瞬間から刃を持ち、刃とともに育った。それだけの時間を与えられて、至れた地点があまりにも低かった。
納刀する。
抜く。
一つを工夫すれば、他に歪みが出る。
型には全て理由があった。
納刀する。
抜く。
工夫する。
何度も、何度も凜は抜き打つ。
その度に工夫の余地が見えるが、それを一つの型に落とし込むにはあまりに時間が足りなかった。
極みなど指もかからぬし、型から離れて練り上げるだけでも何年もかかるだろう。
目指すべき高みは遥か遠く、影さえ見えない。
なぜ、もっと由羅と立ち合わなかったのか。
今更のように凜は悔やむ。
手の内などとうに全て知られている。
本当は自身が劣っていることを突きつけられるのが怖かったのではないか。
別に由羅でなくてもいい。
山祇は広く、凜より腕が立つものはいくらでもいる。
狭い剣の里で学べる技などたかが知れていた。
納刀し、立ち上がり、目を閉じる。
脳裏に剣を持った由羅を思い浮かべる。
無造作に片手に剣を下げた姿。
構えないのに隙がない。
いや、構えないから隙も生まれない。
隙とは何か。
心か体の間隙だ。
どんな体勢でも自在に動く体の柔軟性。どんな時でも余裕を失わない精神性。
一つことに構えないから、由羅に隙は生まれない。
抜き打つ。
躱され、斬られる。
抜き打つ。
受け流され、斬られる。
後の先をとる。
さらに先の先をとられて斬られる。
抜く。
斬られる。
抜く。斬られる。抜く。斬られる。斬られる。斬られる。斬られる…
無数の死骸が積み重なっていく。
剣の里の技を熟知している由羅に、凜の剣はまったく通じない。
死骸が百に近くなったあたりで、凜は目を開いた。
すでに日は落ちて、夜の闇を月と星の光だけが照らしていた。
凜は鞘ごと腰から小太刀を抜いて、花畑に放り捨てた。
そのまま、大の字に倒れる。
満天の星空が瞬いていた。
それをやはり美しいとも思わない。
誰と見たところで、それが変わるとも思えなかった。
蘇芳は巫女と守り手を定めと言った。定めが先か、定めるのが先か、分からぬほどに巫女と守り手として生まれてくるのだと。
しかし、凜の中にそんな確信は欠片もなかった。
陽鞠と寄り添う心すら持てない凜は、自分が守り手ではなかったのだろうと胸に落ちた。
何だかおかしくなって、凜はうめくような笑い声を漏らした。
何と無意味で無価値な人生だったのだろう。
ひとしきり笑ってから、立ち上がり、投げ捨てた小太刀に背を向けた。
その瞬間。
丘の下から見上げる陽鞠の目に、凜は射竦められた。
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