二十二

 楚々と立つ陽鞠の風情は、いまそこに現れたという感じではなかった。一体いつから見ていたのか、凜はまるで気付いていなかった。


 ゆっくりとした足取りで陽鞠は丘を登ってくる。


「…巫女様」


 ぽつりと漏らす凜の横を、陽鞠は無言で通り過ぎる。

 白詰草の花畑に踏み込むと、辺りを見回して凜が投げ捨てた小太刀を拾い上げた。

 小太刀を胸に抱えて、踵を返す。

 そのまま、凜の前まで戻って来ると、小太刀を差し出してきた。

 凜は受け取ることも、直視することもできずに目を逸らした。

 乱暴に、陽鞠は小太刀を凜の胸元に押し付ける。

 凜はそこから一歩下がって逃れた。

 たたらを踏んだ陽鞠は、そのまま膝をつき、小太刀を抱えて俯いてしまう。


 凜にできることは何もない。

 だから、その場を去るべきだった。

 それなのに、悄然と俯く陽鞠を置いていくこともできず、凜もその場に腰を下ろした。


「どうしてここにいると分かったのですか」

「分かったわけではありません」


 凜が問いかけると、俯いたまま陽鞠が答える。


「いてくれたらいいな、というただの願望です」


 微かに陽鞠は顔を上げ、上目遣いに凜を見てはにかんだ。


「とても嬉しいです」


 その声も。花の顔も。潤んだ瞳も。小さな桜の唇も。華奢な肢体も。小太刀を抱える仕草も。白く細い指も。

 全てが凜の本能に、この娘を守れと訴えかけてくる。

 金の瞳が、妖しく揺れる。

 はっとしたように陽鞠は顔を伏せた。


「凜様、あまり私の目を見ないでください」

「何故ですか」

「もう、お気付きでしょう。巫女は無意識下で、自分を守らせようと人を誘惑します」


 たしかに凜はそういう力を、出会ったときから陽鞠に感じてはいた。


「これが巫女の力の一部なのか、生き物としての本能なのかは分かりません。ですが、とくに目を合わせるのが危険なのです」


 だから、御殿でも衛士たちは頑なに頭を上げようとしなかったのかと、今更のように凜は納得する。

 巫女の証である星痕たる金の瞳に、もっとも強い力が顕れるのは説得力があった。


「守り手を持たない巫女はこの力を周囲に向けます。とくに巫女が庇護や好意を求める相手に、この力は強く働くのです。そのひと本来の意思を捻じ曲げるほどの力です」

「何となくそのようなものは感じていました。しかし、そこまで強い強制ではなかったように思います」


 言ってから、守り手として求められる優先度が低かったからという可能性に凜は気がつく。

 しかし、その言葉を聞いて陽鞠が浮かべた笑みは、彼女らしからぬ皮肉げなものだった。


「きっと、凜様にはこの力の恐ろしさを本当には理解できないでしょう」

「私には?」

「…母の話をしましょう」


 凜の疑問を無視して、陽鞠は関係のないような話を始める。


「私の母である先代の巫女は、慣例に従って二十歳の時にこの西白州に嫁いできました。大層美しい人でしたが、大公は正室の雪子様を愛していらっしゃったので、当初その関係は形だけのものだったようです。ところが、母が嫁いですぐに華陽様が守り手を辞してしまいました」


 陽鞠は話しながら、冷ややかな笑みを浮かべる。


「途端に大公は、母を寵愛しました。雪子様には目を向けなくなり、大公の変節に雪子様は心を病んでしまわれました。五年ほどたち、母が亡くなると大公は目が覚めました。なぜ、自分があれほど母に執着していたのか理解できなかったのです。その頃には雪子様の症状は取り返しがつかないほどに進んでいました」

「それは最早、洗脳ではありませんか」


 やにわに信じられるようなことではなかった。

 そんな力が存在すらことが信じがたかったし、そこまでの力を感じたこともなかった。

 しかし、大公やその息子の態度が、陽鞠の言葉に信憑性を持たせていた。


「だからこそ、巫女の婚約者は守り手が定まるまで、巫女に会ってはならないのです」

「親王が巫女の傀儡にならないために…。大公家はそれを知らなかったのですか」

「長らく大公家に巫女が嫁いだことはないのです。しかし、親王が一世のみと定められ、皇室の数が激減したことから、母と歳の合う親王がいませんでした」

「待ってください。巫女様はまだ正式には守り手を定めてはいません。なぜ蘇芳殿下は会いにこられたのですか」

「それが分からないから、凜様には理解できない、と申し上げたのです」

「どういう意味ですか」

「巫女の屋敷に勤めるものは、神祇府の手のものです。私が守り手を定めた、と報告したのでしょう」


 たしかに蘇芳も、加奈が神祇府の間諜だったと言っていたと凜は思い出す。


「そんなことが傍から見て分かるのですか」

「言ったでしょう。守り手のいない巫女はこの力を周囲に向けると。逆に言うと、守り手を定めた巫女はこの力を守り手にしか向けません」

「え…」

「紫鷹様が魔性を感じなくなったと言っていたでしょう」

「ですが、私は…」


 凜は出会った時から、ずっとその力と思しきものを感じている。今もなお。


「おかしな話だと思いませんか。この力はなぜか守り手になる人にはあまり通じないのです」

「通じる人を守り手に…」


 言いかけて、凜は口を閉ざす。

 巫女と守り手は定め。そう言った蘇芳の言葉が思い出される。

 きっと巫女にとって守り手とは、そんな理屈で選べるものではないのだろう。


「凜様には分からないと思いますが、巫女が守り手を見初めた時の衝動はとても強いものなのです。私はこの力を忌み嫌っているくせに、貴女に向けて何の呵責もなく使っていたのですよ」

「そうだったのですか…」

「それなのに、貴女には少し言うことを聞いてやろうくらいにしか通じない」


 不満げに頬を膨らませると、陽鞠は小太刀を膝に置いて白詰草を摘み始めた。

 茎を編む細い指を見ながら、凜は珍しいと思う。陽鞠は道端に咲いている花を愛でることはあっても、摘んだことはなかった。


「ですが、きっとこの力が通じない人をこそ、巫女は求めるのでしょうね。少なくとも、私はそうです」

「何故ですか」

「だって、この力が通じないのに守ってくれるなら、それは本当の想いだって信じられるではないですか」


 茎を編む手元に目を落としたまま、陽鞠は恥ずかし気に頬を染める。


「由羅は? あの子は何も感じないと言っていましたよ」

「たぶん、山祇の民にしか効果がないのでしょうね」

「由羅では駄目なのですか。私といるときよりも、自然体で話せるのではないですか」


 言ってしまってから、そのあまりにも情けない物言いに、凜は死にたくなった。


「あの人は駄目です。私は私に似たあの人のことを好きにはなれません」

「似ている?」


 山祇で最も尊ばれる巫女と、異邦の血で疎外される由羅。凜にはまるで共通点が見出せなかった。

 むしろ対極の存在なのではないだろうか。


「祀られるか貶められるか、どちらにしても輪から除かれていることに変わりはありません。疎外されてきた人間は、同じように疎外されてきた人間をこそ嫌悪します」


 陽鞠がいま何を言わんとしているか、凜は認め難いが認めざるを得なかった。


「…つまり、私はすでに守り手なのですか」


 愕然とする凜に、陽鞠は嫣然と微笑んだ。

 そんな自覚は凜に欠片もなかった。


「一体、いつから」

「貴女がいま私に抱いている感覚を覚えた時からですね」

「ほとんど出会った、その時からではないですか」


 凜は呆れてしまう。

 凜の葛藤も苦悩も茶番だったと言っているようなものだが、怒る気にはなれなかった。

 遊びや半端な気持ちでそうしたのではないことが、分かってしまったから。


「それでしたら…」


 凜は言いかけ、一度口を噤んでから、あらためて口を開く。


「私と由羅が立ち合う意味などないではありませんか」

「意味はあります。由羅様や、華陽様、みなが納得いきます。納得したという形は大事です。何より、そうでなければ凜様が納得いかないのではないですか?」

「そうかもしれませんが、私より…由羅の方が強いです」


 手を止めて、陽鞠が顔を上げる。

 なぜそんなことを凜が言うのか、理解できなさそうに陽鞠は首を傾げた。


「そうみたいですね」


 陽鞠は茎を編む手を再び動かしながら、だからどうしたと言わんばかりに軽く応じる。


「貴女が何を考えているのか、まるで分かりません。私が負けたら、守り手にはなれないのですよ」

「凜様は負けません」

「何の根拠があって」

「根拠? 不思議なことを仰るのですね。私が貴女を守り手に選んだのですから、貴女が守り手なのです。ですから、守り手を決める立ち合いに貴女が負けるはずがありません」


 そのあまりの言い様に、凜は唖然とする。

 思わず、失笑を漏らしてしまった。

 陽鞠の言うことは夢見がちで、やはり剣を持ったこともないお姫様なのだろう。

 凜と由羅の実力が急に縮まることはない。それでも、凜の中にあった自分が守り手に相応しくないのではないかという葛藤は無意味なものになった。

 当の巫女がこうまで悩んでいないのに、凜だけ悩むなんて馬鹿々々しい。


「何ですか、それは。何の理屈にもなっていませんよ」

「理屈が必要なのですか?」


 手を止めた陽鞠が、環の形まで編み込んだ白詰草を凜に見せる。


「幼い頃に作って以来だったので、不格好ですね」

「花かんむりですか」


 陽鞠は手に持った花かんむりを、そっと凜の頭に被せる。


「とってもお似合いです」

「まさか。巫女様の方が愛らしくてお似合いになりますよ」


 歯の浮くような凜の言葉に、陽鞠は軽く睨み返してから小太刀を抱え直して、そのまま仰向けに転がった。


「私が母から教わったのは花かんむりの作り方だけです」


 星空を見上げながら、陽鞠がぽつりぽつりと漏らす。


「母は愛してもいない人との子である私に興味がありませんでした」


 陽鞠の母が見ていたのは、いなくなった守り手の影だけだった。


「妙さんが親身だったのは、母と私の巫女の力に中てられていたからです」


 凜の姿と凜に対する陽鞠の態度から、妙は巫女の守り手に対する狂気に近い妄執に気付き、恐れた。


「夕月家は巫女になった私を母と同一視して疎んじています」


 紫星や紫鷹は愛するものと家庭を壊した巫女というものを疎み、あるいは憎んですらいる。


「蘇芳様は良い人ですが、親王として次期東青州公としての公人の立場を優先されるでしょう」


 立場とは責任を伴うものだ。蘇芳にとって巫女と陽鞠は不可分のもので、二つを分けて考えることはない。


 陽鞠の人生に、巫女ではない陽鞠を見てくれる人はいなかった。


「寂しい」


 星を見つめたまま瞬きもしない陽鞠の目から涙がこぼれ落ちる。


「ひとりは寂しい」


 とめどもなく涙は頬を伝っているのに、声は静かで、それだけ深い虚無に満ちていた。


「巫女になんてなりたくなかった。こんな力なんていらない。この家を壊したのは私じゃない。生まれたくて生まれたわけじゃない」


 そこにいるのは気高くも、尊くもない、ただの一人ぼっちの少女だった。

 凜は陽鞠と同じ星空を見上げる。


「せめて、せめて、ひとつだけ私が選ぶことのできる守り手だけは、私だけを見てくれる人が欲しい」


 陽鞠が見上げる星空を、凜は美しいとは思わない。

 しかし、星空を映す陽鞠の瞳は美しいと思った。それが例え、巫女の力でそう思わされただけでもかまわないと思えた。


 凜の指が伸ばされて、陽鞠の頬に涙を拭うように触れた。

 そのまま頬から首筋を伝うように指が下がって、小太刀を握る陽鞠の手を包んだ。

 指が絡まるように動いて、凜が小太刀を握り、入れ替わるように陽鞠がその手を包み込む。

 凜が小太刀を引き寄せると、それに合わせて陽鞠は身を起こす。

 小太刀を挟んで膝が触れ合うほど近くで向き合い、陽鞠は凜の目を見つめる。


「私の守り手になって」

「はい」

「私を嫌いにならないで」

「はい」

「私の傍にずっといて」

「はい」


 凜の小太刀を握っていない方の手が陽鞠の背中にそっと回される。

 触れたら壊れてしまいそうな小さな体を抱きしめる。


「私が貴女を守ります。陽鞠様」


 凜の言葉に涙が零れないように、肩越しに見上げた星空を、流れ星が一筋流れた。

 その美しい一瞬を、陽鞠は生涯忘れることはないだろうと思った。

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