十九
その離邸は天守閣の裏手の林の中に、隠されるようにひっそりと建っていた。
場所を聞いた時点で陽鞠は案内の者を帰して、今は凜と二人だった。城でつないだ手を陽鞠は離していなかった。
手をつなぐのが好きなのだろうかと、凜は思う。それとも一度つないだ手を離すのが嫌なのだろうか。
天守閣以外の城郭内の建物が王国式になっている中で、その離邸だけは時間に取り残されたように古い山祇様式の屋敷だった。
二人が玄関をくぐると、上がり框のすぐ向こうに一人の女中が立っていた。
年嵩の四十は超えていると思しき女だが、小柄で愛嬌がある。紬の着物も派手ではないが、絣柄の鮮やかな藍色が洒落ていた。
「お帰りなさいませ、姫様」
「ただいま戻りました、
親愛の情が感じられる女の言葉に答える陽鞠の声は、作った巫女のものであった。
女の目が、陽鞠と手を繋いだ凜に移り、その顔を認識するとさっと青ざめた。
「…華陽、様?」
「凜と申します。華陽は里の長で、剣の師ではありますが」
「り、ん?」
女の顔がさらに青ざめ、もはや凜を見る目は怪物であるかのようだった。
「妙さん、その話は後にしましょう」
まるでその反応を予測していたように、すっと陽鞠が間に入る。
「凜様、幼い頃から面倒を見てくれた乳母の妙さんです」
「ああ、もしかして新しいもの好きの?」
「…まあ姫様、そのようにおっしゃられたのですか」
気を取り直したのか、妙はまだぎこちないが笑みを見せた。
「こちらは凜様。私の守り手になっていただく方です」
候補とすら言わなかったことに、凜はぎょっとする。
言い間違いだろうかと、その顔を見ると城でも見た熱の籠った目で見上げられた。
私はもう答えを出している。その目がそう言っているように凜には感じられた。
しかし、凜はその目を受け止めることができず、つと逸らしてしまった。陽鞠はことさらに追及はせずに、妙に目を戻す。
「妙さん、お母様に挨拶したいのですけれど」
「はい。そのままにしてあります」
ようやく手を離した陽鞠が、屋敷に上がりながら言う。
凜も陽鞠に続いて屋敷に上がり、先を歩く妙に従った。
「この屋敷は何も変わっていないのですね」
廊下を歩きながら、陽鞠は屋敷の中を懐かし気に見回して独り言のように漏らす。
「陽鞠様が皇都に移られてからは、誰も立ち入っておりません」
「そうですか…」
話の流れから、陽鞠が幼い頃にこの屋敷に住んでいたということが凜にも分かった。そして、この城の人間からは忌避されているということも。
陽鞠が住んでいたということは、つまり陽鞠の母親である先代の巫女が住んでいたということなのだろう。
巫女が住む屋敷としてはこじんまりとしていて寂しい。城に住まわせなかったという時点で、その難しい立場を凜は考えさせられた。
妙に連れられて、二人は奥まった座敷に入る。
ほとんど何もない座敷の角には天井近くに神棚が設置されていて、その下に祖霊舎が置かれていた。
陽鞠は神棚に拝してから、祖霊舎の前に座る。
「凜様もこちらに」
廊下で控える凜に、振り向いた陽鞠が声をかける。
逡巡するものがないわけではなかったが、凜は黙って座敷に入り陽鞠の隣に座った。
凜にかすかな微笑みを見せてから、陽鞠は祖霊舎に向き直る。
陽鞠の指が伸ばされて、祖霊舎の外扉が開けられた。
中には鏡錦で覆われた霊璽が一つ祀られていた。
「お母様、ただいま戻りました」
凜は陽鞠の横顔を盗み見た。
穏やかな表情からは何の感情も読み取れない。
先代の巫女である陽鞠の母親は、九年前に病死したと聞いている。
陽鞠の母親が原因で、夕月家に不和が生じたのは先ほどの城内の出来事からも凜にも分かった。
しかし、それだけだ。護法山で陽鞠から聞いた話を合わせても詳しいことは何も分からない。
それでも、あんな憐みと憎しみの目の中で育ち、わずか五歳で捨てられるように皇都に追いやられた陽鞠が、母親と同じになりたくはないと思うのは理解できた。
陽鞠にとっての母親はどういう存在だったのだろうか。
凜から見て、複雑な感情はあっても嫌っているようには思えなかった。
「お母様、私の守り手の凜様です」
「巫女様、候補です。御霊前に虚偽はいけません」
さすがに口を挟む凜を横目で見て、しかし陽鞠はそれを無視した。
「ここに戻ることは二度とないと思っておりましたが、思いがけずに機会を得ました」
陽鞠は静かに語りかけ続ける。
「お母様。私はお母様のようにはなりません。男に頼り、守り手に捨てられるような巫女にはけして」
静かで、そしてぞっとするほど冷たい声だった。
思わず、凜は陽鞠の顔を見てしまう。
まったく同時に凜の方を向いた陽鞠と、正面から目が合う。どこか昏い陽鞠の目に、凜は内心の動揺を隠せなかった。
城でも感じた冷や汗が背中を伝う。
その正体がようやく凜にも何となく理解できた。
陽鞠は凜に圧をかけていた。
お前が守り手になれと。その迷いを全て捨てろと。
「凜様は、私の母の名をご存知ですか」
「いえ。存じあげません」
もう、凜にも分かっていた。
陽鞠の母である先代の巫女の守り手とは、里の長である華陽のことだ。
それならば、先代巫女の名を凜が知らないのは、華陽が意図的に伝えなかったということになる。
「私の母の名は、凜音と申します」
「りん、ね…様、ですか」
「はい。お気付きだと思いますが、凜様と同じ凜の字に音と書きます」
凜の胸がざわざわと騒ぐ。
赤子の時から里で育った凜に親からもらった名はおそらくない。凜という名をつけたのは里長である華陽だろう。
どういうつもりでこの名をつけ、守り手となるためだけの刃として育てたのか。
「私が生まれた時には、すでに華陽様は守り手をやめていました」
「巫女様と同じ歳の私を赤子の時から育てているのですから、そうなのでしょうね」
「ですが、私は幼い頃に一度だけ華陽様にお会いしたことがあります」
華陽は所用で里を空けることも度々あったので、おかしいことではない。
しかし、自分が守り手をやめた巫女の娘に会いにいく理由とは何なのかと、凜は疑問に思う。
「母が亡くなってすぐ後のことでした。正直、母を捨てた人だと恨んですらいました」
そもそも何故、華陽が守り手をやめたのかすら凜は知らない。
陽鞠はそれを知っているのだろうか。
「ですが、初めてお会いしたときの衝撃は忘れられません。一振りの刃のように美しい人。恨みつらみなどどうでもよくなりました」
陽鞠は陶然とした遠い目をする。
その目は、凜を通して過去を見ていた。
「ふふ、おかしいでしょう。ただ、一目お見かけしただけなのに。その瞬間から、私はこの人に捨てられた母の方が悪いと思うようになったのです」
陽鞠の金の瞳が妖しく揺れていた。
大公の息子、紫鷹は陽鞠から魔性を感じなくなったと言っていたが、むしろ凜にとっては心が囚われる感覚が強まっていた。
「凜様にお会いした時、あの日と同じ衝撃を受けました」
いつの間にか、陽鞠の手が凜の手に重ねられていた。
今の凜にはその手が囚人を縛る手縄のようにすら感じられた。
「だから、私を守り手に望まれたのですか」
かすれた声で、凜が漏らす。
陽鞠が望んだ守り手の、華陽が育てた、その代用品である一振りの刃。
おそらくは、そのためだけに生を受けた存在。
「いいえ、違います」
ふと、陽鞠から巫女として気配が消えうせた。
「最初は母と華陽様が私のために用意してくださった、私のためだけの守り手だと思っていました」
するりと陽鞠の手が離れていく。
陽鞠が浮かべた笑みは、普段からは想像もできないほど、たどたどしくぎこちないものだった。
「ですが、貴女は頑固で優しくて、傷つきやすいただの女の子でした」
自分が失敗作であることは、陽鞠に言われるまでもないことだった。
凜はもう自分が守り手に相応しいとは思えなくなっていた。
「…でしたら、なぜ私を」
陽鞠の目が凜から離れて廊下の外に向けられる。
傾きかけた日射しが差し込む廊下に控える妙の顔は怯え切っていた。
彼女の知る陽鞠は、幼いころから巫女の鑑のような穏やかな人柄だけなのだろう。
「そのお話はまた後にしましょうか」
そう言った陽鞠の顔には、いつもの穏やかな微笑みが浮かんでいた。
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