十八

 西白州都である浪花なみわは西白州の南端にある。

 皇都が山祇の政の中心であるなら、浪花は山祇の商の中心だ。山祇の物と金はすべてこの都に流れる。


 蘇芳の屋敷を出た陽鞠は、迎えの駕籠に乗って五日かけて浪花に辿り着いた。

 当然、凜は帯同しているが、里に戻っている由羅には、蘇芳に言伝を残して行くしかなかった。


 浪花を治める大公の居城は、平野に広がる都を見下ろす小高い丘に建てられた平山城であった。

 居城とはそのままの意味で、この時代における城とは領主の住まいの役割でしかなく、行政の機能は天守閣を囲むように建てられた王国式の庁舎に移っていた。

 そのため、城内も多くの区画が封鎖され、大公の身内とその世話を行うものしかおらず、閑散としていた。


 大公への挨拶のために登城した陽鞠に付き添って、凜も城内にいた。

 本来であれば凜は登城できるような身分ではないが、陽鞠が何を言うでもなく城内に通された。大公がそのように手配したのであろうが、実のところ剣の里の女剣士はこういった城の奥御殿でこそ需要が高く、候補とはいえ守り手ともなれば登城してもおかしくないだけの地盤があった。

 裾引の打掛でいかにも姫といった様子の陽鞠に対して、小太刀こそ預けているものの、いつもの裁着袴姿の凜は浮いていたが、萎縮することのない振る舞いで好奇の目を弾き返していた。


 それにしても、と凜は思う。単に好奇という以上の視線を凜は感じていた。

 特にある程度年嵩のものは、凜を見ると一様にぎょっとしたような表情を浮かべる。その後で陽鞠と見比べるような動きをして、気まずそうに目を逸らすところまで一緒だった。


 陽鞠を見る城内のものたちの目は複雑なものがあった。

 明確な悪意というようなものではない。見てはならないものを見てしまったような、憐みと恐れが混じった腫物を見る目。

 こんな目の中で育ったのかと、背筋を伸ばして歩く陽鞠の背中を見ながら凜は思う。その背筋は普段の自然体よりも無理に伸ばしているように見えた。


 案内の者に先導されて歩く廊下の先から、一人の男が姿を現した。

 案内の者が脇に寄って首を垂れる。

 まだ二十歳をいくつもでていないであろう若者だった。

 羅紗の軍服は城には不似合いだが、背が高く伶俐で端正な顔立ちの男には似合っていた。


 男は道を塞ぐように廊下の真ん中で立ち止まり、陽鞠に冷たい目を向ける。


紫鷹しおう様、お久しぶりでございます」


 丁寧に頭を下げる陽鞠に対して、男は忌々しげに鼻を鳴らした。


「戻るという話は本当であったか」

「夕月大公よりそのようにせよとの文を頂きました」

「父上も立場があるとはいえ、余計なことを」


 夕月大公を父と呼ぶこの男は、つまり陽鞠の兄なのだと凜は気がつく。おそらくは腹違いの。

 その目には他の者たちとは異なり、明確な憎悪があった。

 思わず間に立とうとする凜の動きを、陽鞠は軽い手の動きで制した。


「魔性を感じぬということは守り手を定めたか」


 凜に目を向けた紫鷹の眉が訝しげに顰められ、次第に嫌悪にその顔が歪んだ。


「何と悍ましい。それ・・は当てつけのつもりなのか」

「紫鷹様、私への無礼は何と言われようと見逃しましょう。ですが、凜様に対する無礼は巫女として許しません」

「その言いよう。母親に瓜二つだな。自分たちが被害者であったとでも言いたいか」

「何とでもおっしゃるがよろしいでしょう」


 常の陽鞠からは想像もできない棘のある物言いに、凜は目を見張る。


「夕月だけでは飽き足らず、今度は朝凪の家を壊そうと言うのか」

「私は朝凪の家に入るつもりはありません」

「母親と同じ罪は犯さぬということか。殊勝ではないか」

「母に罪がないとは申しませんが、母だけが悪かったように言うのはおやめください」

「では、父上が悪いと言うのか。それとも我が母に罪があったと言うか」

「誰が悪いという話はおやめくださいと申し上げています」


 口調こそ抑えているが、こんなに感情的な陽鞠を初めて凜は見た。

 割って入るべきではないとは思う。

 凜が差し出口したところで、陽鞠の立場を悪くするだけだ。しかし、こんな陽鞠を見ているのは辛かった。

 だから、凜は後ろからただ無言でそっと陽鞠の手を握った。

 小さな手が、冷たく強張っていた。

 はっとしたように陽鞠が口をつぐむ。

 ゆっくりと体から力が抜けていくのが、繋いだ手を通して凜に伝わった。


「…言葉が過ぎました。申し訳ございません」


 頭を下げて、陽鞠が道をあける。

 不愉快そうな顔を隠そうともせずに通り過ぎようとした紫鷹は、陽鞠と繋いだ凜の手に気づいて舌打ちを漏らした。


「貴様もこんな娘に関わらぬ方が身のためだぞ。こやつの魔性はお主から何もかも奪い去ると知れ」


 紫鷹が去り際に残した言葉に、手を握る力がわずかに強まったのを凜は感じた。

 だから、凜は同じように力を入れて握り返した。それから手を離すと、名残惜しそうに陽鞠の指が凜の掌を撫でながら離れていった。


 陽鞠は感謝の言葉を述べたりはしなかった。ただ、熱の籠った目で凜の目を覗き込んだ。

 その目はまるで、凜の覚悟を問うているかのようだった。

 それはほんの僅かな時間のことで、陽鞠は案内の者を促して足を進める。

 じわりと背中に滲む汗を感じながら、凜は陽鞠の背に従った。


 やがて、陽鞠たちは大公との謁見を行う広間ではなく、客間に通された。

 廊下に控える衛士以外には、客間にいるのは一人きりだった。畳の座敷に姿勢正しく座す、端正だが怜悧な顔立ちの男。先ほど廊下で見えた紫鷹によく似ていた。

 三十代は超えているようにも見えるが、若々しく年齢不詳だった。


 凜を廊下に残して客間に入った陽鞠は、男の対面に座す。

 入り口に対して、上も下もなく向かい合う位置が、二人の関係を現していた。


「お久しぶりでございます、夕月大公」

「巫女様もご息災でなによりです」


 ひやりとした、形式だけの挨拶だった。

 男は西白州の大公を務める夕月紫星しせい。陽鞠の父親であった。

 紫鷹と違い感情を表に出したりはしないが、その目は息子よりもよほど冷たかった。


「御殿に火を掛けられるとは、恐れ多いものがいたものです」

「蘇芳様にご迷惑をおかけして心苦しかったところです。逗留をお許しいただき、感謝にたえません」

「なに、流石に殿下のお屋敷にいつまでもいらっしゃるわけにはまいりますまい。ご自分の家と思い、ゆっくりなされよ」


 丁寧な、しかし空々しい会話。

 凜は蟠るものを感じずにはいられなかった。「自分の家と思って」とはどういうことか。ここは巫女の生家ではないか。


「ありがとうございます。年の暮れには皇都に戻らねばなりませんが、それまでやっかいになります」

「新年の祭事でいよいよ巫女としてお務めになられるのですな」


 その言葉に凜は微かに胸を痛める。

 陽鞠が正式に巫女として務める前には、守り手を決めることになるだろう。

 すでに初夏も終わろうとしている。

 その時まで、あと半年もなかった。


 蘇芳に言われた腑抜けたという言葉が、凜の頭を過ぎる。

 そうなのかもしれない。

 あの嵐の夜から、凜の中で何か大事な糸が切れてしまっていた。


「さて、巫女様のお住まいですが、城では何かと気づまりでしょう。離邸を準備しましたので、そちらにでお過ごしください」

「お気遣いありがとうございます」

「それでは、ゆるりとご滞在ください」


 席を立った大公に、陽鞠が軽く頭を下げる。


「夕月大公」


 去ろうとする大公の背に、陽鞠の静かな声がかけられた。

 かけてしまったことに、一瞬の後悔が陽鞠の顔によぎった。


「なぜ、私を呼び戻されたのですか」

「異なことをおっしゃる」


 振り向いた大公と、陽鞠の視線がぶつかる。そこに火花が散ると言うほど強い感情は、どちらにもなかった。


「巫女様とはいえ、貴女が夕月家の娘であることは変わりありません。他家のやっかいになるくらいなら、頼って頂いてよろしいのですよ」


 言葉とは裏腹に、娘どころか親類に対するほどの温かみもない声だった。


「そうですか。埒もないことを申しました」


 ついと陽鞠の視線が外され、大公もそのまま座敷を出る。

 廊下に出た大公は、顔を伏せた凜の前で立ち止まった。


「そなたが守り手の候補か」

「は…」

「名を何と申す」

「凜、でございます」


 ぴくりと大公の眉が跳ねたことに、顔を伏せた凜は気が付かなかった。

 ただ、その気配にひやりとしたものが混じったことだけを感じていた。


「どう書く」

「にすいに蔵に稲穂でございます」

「…そうか。面を上げよ」


 大公の言葉に従い、凜が顔を上げる。

 その整った顔立ちを見て、大公は忌々しそうに鼻を鳴らした。


「なるほどな。妄執はお互いであったか」


 言い捨て、あとは興味を失ったようにその場を去っていった。

 意味が分からず、去っていく背に首を傾げた凜の肩に、そっと手が置かれる。

 座敷を立った陽鞠が、いつの間にか凜のすぐ傍に立っていた。


「凜様、行きましょう」

「ええ」


 立ち上がった凜の手を、今度は陽鞠の方から握った。

 その手はどこか弱々しく、凜にすがりつくようであった。

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