三章
十七
嵐の夜から五日が過ぎていた。
凜たちは蘇芳の屋敷にやっかいになっていた。
巫女の御殿は焼け落ちた。
御殿は堀に囲まれており、また大雨もあって下屋敷には延焼しなかったが、御殿は建て替えるしかない状態だった。
神祇府からは神社への避難の打診があったが、婚約者である蘇芳が庇護を申し出たため、神祇府も強くは主張してこなかった。当初、陽鞠は遠慮したが、神社などの不特定多数が出入りできる環境を凜が厭い、由羅が追従したことで折れるしかなかった。
蘇芳の住む本邸ではなく、離れを選んだのは陽鞠のせめてもの抵抗であったか。
何もかも焼けてしまった陽鞠に、大義名分のできた蘇芳はせっせと着物などを買い与えていた。凜の見たところ、それを名目に陽鞠に会いにきているだけのようであったが。
蘇芳の屋敷は巫女の屋敷よりもよほど警備が厳重で、衛士も常駐しているため、凜たちは警戒を一段落としても問題なかった。
だから里の長、華陽への報告を手紙を用いず、由羅が直接里に走った。
いま陽鞠のそばにいるのは凜だけだった。
あの日からずっと陽鞠の目が、凜の様子を窺っていた。
心配しているのもそうだが、凜の態度が少し変わったように陽鞠には感じられた。
蘇芳の用意した山祇琴を手慰みに奏でていた陽鞠は、手を止めて廊下に控える凜の隣に腰をおろした。
凜は何も言わずに、微かな笑みを見せる。
「暑くなってきましたね」
「もう文月ですから」
初夏の強い日射しを掌をかざして見上げながら、穏やかな声で凜が応える。
その穏やかさが、陽鞠の胸をざわつかせる。
「都の夏は暑いですよ。どこかに涼みに行きたいです」
「いいですね。どこに行きたいですか」
こんな思いつきのような言葉にも、小言もなく頷いてくれることを、陽鞠は単純に喜ぶことはできなかった。
その穏やかさが諦めからきているのではないかと言う疑念が、陽鞠にはあった。
「…凜様は」
言いかけて、陽鞠は口を噤んだ。
聞きたいが、聞くことで凜が抱えているものに、陽鞠にとって望ましくない方向への決断を促すことが怖かった。
「加奈のことですか」
正確に言えば陽鞠の聞きたいことはそれではなかったが、要因の一つではあるのだろう。
「仲が良かったのですか」
「そうですね。里の中では比較的、ではありますが」
「何だかおかしな言い様ですね」
「私は里では少し浮いた存在でしたので、あまり親しいものはいなかったのです」
加奈の話からずれたが、陽鞠にとっては聞き逃せない内容だった。
余計なことを言わずに、先を促す。
「それはどうしてですか」
「先日もお話した通り、私は赤子の時から里で育った人間です」
「それは他の子とそんなに違うものなのですか」
「里の子供の多くは衛士の家の出です。良家とは言えないかもしれませんが、意外と身元がしっかりしているのです。ところが私は、人別帳に名前すらありません」
人別帳は、姓名や血縁を記した言わば戸籍帳だ。これがなければ村や町で住居を手に入れることも、移動することもできない。
「因ってたつ縁をなにひとつ持たない私は、里のものから見ても異質で、あるいは人ですらないように見えたのかもしれません」
剣の里は養護施設ではない。
どんなに幼くても五歳前後の自我が確立した後の孤児しか引き取らない。
逆に言えば、里の外の世界を知っているということでもある。幼い記憶は朧気となっても、その人格を形成する根幹はすでに出来上がっているのだ。
凜にはそれがなかった。
凜の原初の記憶は、手に持った抜身の短刀だった。
「私はそうは思えません」
「何故ですか」
「だって、貴女は優しいではないですか」
巫女を守るだけの刃に、優しさなんてあるわけがない。
ふと、陽鞠は疑問を覚える。凜の話が本当であるなら、巫女と距離をおこうとする凜の態度は、里の教育ということなのだろうか。
凜を育てたものへの疑惑が、陽鞠の意識を会話から逸らした。
「そうであるなら、やはり私は失敗作だったのでしょう」
だから、凜のその言葉があまりにも唐突で、一瞬だけ答えに詰まってしまった。
「…ちが」
その一瞬が、陽鞠から否定の言葉を発する機会を奪った。
陽鞠が何か言うよりも早く、凜が居住まいを正して首を垂れた。
廊下の端から現れた蘇芳に、陽鞠はわずかに唇を噛む。
しかし、蘇芳の方に顔を向けた時には、いつもの穏やかな微笑みを浮かべていた。
「蘇芳様。ごきげんよう」
「陽鞠様、何かご不便はありませんか」
会うたびに同じことを聞いてくる蘇芳に、陽鞠は苦笑いを浮かべる。
「よくしていただいてありがとうございます。何も困ってはおりません」
蘇芳は軽く頷いて、凜を挟んで廊下に腰を下ろす。
凜がその場を離れようと腰を浮かす動きを察して、凜の袴の蘇芳からは見えないところを陽鞠が掴んだ。
「…巫女様、私は控えていますので」
「いや、いい。そなたも聞いてくれ」
言いながら蘇芳は、懐から取り出した書状を差し出す。
間にいる凜が書状を受け取った。
「夕月大公から陽鞠様に書状が届きました」
ぴくりと陽鞠の肩が震える。
「そう、ですか…」
「おそらく、私に届いた書状と同じ内容でしょう」
陽鞠から手紙の管理をまかされている凜が、書状を開いて目を通す。
その間に陽鞠が蘇芳に問いかける。
「蘇芳様にはなんと?」
「成婚前の私の所にいつまでも預けるわけにはいかないと。御殿が再建されるまで州都で引き取るので迎えを寄越すとおっしゃられている」
陽鞠は唇を噛んでから、凜と目を合わせる。
書状の内容を流し読みした凜が、目の合った陽鞠に頷き返した。
「凡そ、蘇芳殿下がおっしゃる通りです」
俯いた陽鞠の顔から、血の気が引いているように凜には見えた。
陽鞠がすっと立ち上がった。
「済みません。少し具合が悪いので、失礼させていただきます」
「ええ。お大事にしてください」
少しばつの悪い顔をした蘇芳に頭を下げて、陽鞠は寝所に下がっていった。
取り残された二人の間に微妙な沈黙がおちる。
「気分を損ねてしまっただろうか」
「私には何とも」
「やはり夕月大公とは隔意があられるのか」
何も知らぬふりをする凜に、蘇芳は独り言のように漏らす。
蘇芳の生い立ちを陽鞠が知っていたように、陽鞠の生い立ちもまた貴人の間では周知のことなのだろうと凜は思った。
「さて、では私は戻るとしよう」
そう言って立ち上がる蘇芳の視線が、意味ありげに凜に向けられた。
「お見送りいたします」
視線に応えて立ち上がった凜は、蘇芳について歩く。
蘇芳は寝所から十分に離れた所まで無言で歩いてから立ち止まった。
「…先日の襲撃について手の者に調べさせた」
「手の者、ですか?」
成人もしていない親王である蘇芳に、そのような臣下がいることが凜には意外だった。
「東青州には私の派閥もあるのでな」
「なるほど」
次の東青州公としての立場ということだろうかと、凜は納得する。
「それで何か分かりましたか?」
「明確な証拠が出たわけではないが、刺客は東青州の衛士だった。おそらくは
「その鴇羽殿、と言うのは?」
「今の東青州公の長子、つまりは私の叔父にあたる人物だ」
それを聞いても、凜にとくに驚きも感慨もなかった。
そんなところだろう、というのが凜が思ったことだった。
「つまり、私たちはお家騒動に巻き込まれたと言うことですか」
「はっきりと言ってくれるな」
遠慮のない凜の言葉に、蘇芳は整った顔をしかめる。
「しかし、巫女様の御殿でことを起こすなど、あまりにも短慮では」
「短慮と言えばその通りであろう。しかし、おそらくは私と陽鞠様、どちらが死んでもよかったのだ」
襲撃者に陽鞠に対する殺意があったかは凜には分からない。
巫女を手にかけるというのは、山祇の民にとって強い忌避感があるはずだが、縛りでもして火に巻きこむのならその忌避感も薄らぐかもしれない。
「…巫女様がいなくなれば、殿下の婚約がなくなるからですか」
「その通りだ。陽鞠様との婚約がなくなれば、次の大公は長子である鴇羽殿になる目も出てくるであろう」
「そもそも東青州公はどのようなおつもりなのですか」
「公は何かと朝廷と反目する今の東青州のあり様を変えたいと考えていらっしゃる。皇の子である私を跡継ぎにし、朝廷との融和を図ろうとしているのだ。しかし、鴇羽殿は武辺的な古い在り方を守ろうとされている方だ。それだけに衛士からは一定の支持を得ている」
「なるほど、そういうことですか」
理解はしたものの、凜にはさして興味はなかった。
どのような理由で巫女が狙われるかなど、すべてを知ることなどできないのだ。余計な先入観など、むしろ邪魔でしかなかった。
「それで、話はそれだけですか」
「…いや、あの娘のことだ」
「蘇芳殿下」
「内々に調べただけだ。公にはせぬから許せ」
凜の咎める目に、蘇芳は嵩高に応じるが、その顔には気まずさが滲んでいた。
だから何だ、という不愉快さを凜は消せなかった。墓を暴くようなことをしたところで、加奈の名誉を取り戻せるものでもないだろう。
「あの娘は神祇府の諜者であったようだ」
「左様ですか」
凜にさして驚きはなかった。
剣の才はなくても、里で鍛えられた身のこなし。目端が利き、警戒されない容姿。たしかに諜者としては悪くない素材なのだろう。
「陽鞠様に仕える前は東青州の動向を探っていたようだ。顔を知られたということで離れたようだが、おそらくは一度捕えられておる」
「それなら生かして返すとは思えませんが」
「殺せば足がつく。連絡が途絶えてもな。捕えずに泳がせておけばよかったものを、何かに利用しようとしたのであろう」
「どうやって。身寄りのない我らには人質も通じません」
所帯でも持っていれば話は別だが、凜の知る限り加奈にそう言う相手はいなかった。
「阿片だ」
「大陸で作られている薬でしたか」
野山で育った凜たちは薬草に関しても多少の知識がある。
「そうだ。強い依存性があり、一度使うとやめられなくなる」
「ご禁制の品でしょう。たかが諜者一人のために使うとは思えませんが」
「どうも鴇羽殿は元となる芥子の栽培に手を出しているようだ。おそらくは精製した阿片の実験台にされたのだろう」
凜は最後に話した時の、加奈の青白い顔を思い出す。
あれが薬の影響だったのだろうか。それが分かったところで、何だと言うのだろうか。
復讐でもすればいいのかと、凜は虚しい気持ちになる。
機会があればそれもいいだろう。しかし、加奈を斬ったのが凜であることは、変わりようもない事実だった。
加奈を斬らされたことに怒りを抱くほど、凜は自身の感情に価値をおいていなかった。
「それを私に伝えて、どうしようと言うのですか」
「意味はない。ただ、調べてしまったことを黙っていて、後でそなたとの関係の傷になることを厭っただけだ」
「私との? 巫女様ではなく」
「言ったであろう。巫女と守り手は定めだと。そなたとの関係を悪くすれば、必ず陽鞠様との関係も悪くなる」
「そもそも私は候補でしかありません」
凜の言葉を、蘇芳は鼻で笑った。
「言っておれ。だが、まあ今のそなたの腑抜けた姿を見ると、定めを疑うな」
揶揄する言葉にも、凜は一言も言い返さなかった。
それが不快だったのか、蘇芳はもう一度鼻を鳴らして凜に背中を向けた。
「蘇芳殿下」
呼び止める凜の声に、蘇芳は振り返らずに足を止める。
「ひとつ聞いてもよろしいですか」
「何だ」
「蘇芳殿下は大公になりたいのですか」
「今まではそれが山祇のためと思い、なるべきだと思っておった」
「今までは」
「こたびのことで思い知った。力がなければ、陽鞠様を守ることもできないのだと」
首だけわずかに振り返った蘇芳の横顔は、口元が微かに上がっているように見えた。
「だから私は、大公になると決めた。凡俗な動機であるな」
言い残し、蘇芳は凜の言葉を待たずに去っていった。
その背中を凜は、見えなくなってもじっと見つめていた。
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