十六

 居合術とは屋内で、襲いくる敵を処する技。

 抜刀術とは屋外で、刀身を見せずに切る技。


 想定する状況は異なっても、技の極地としては同じだ。


 すなわち敵の起こりを察して、抜かれる前に斬る。

 だが、抜く前に斬った後で、誰が相手に殺意があったと言えるだろう。

 言ってしまえば、抜き打ちの極地とは、思い込みの極地だ。

 相手が抜くと決めつけて、抜く前に殺すという、人から外れた精神がそれを可能とする。

 自然とそれができるのは、人を糞尿の詰まった肉袋としてしか見ていない破綻者だけだろう。

 かつて武士と呼ばれたものどもはそんな破綻者だらけであったが、鉄砲が主力となり自らの手を汚す機会が減り、人の倫理観が高くなった今となってはそんな者は少ない。

 多くは、鍛錬でそれを可能とする。

 この条件なら抜く前に殺すと言う反射を、鍛錬で自分に刻み込むのだ。


 凜の一刀もまた、鍛錬が繰り出させた無慈悲な一太刀であった。

 物打ちが肉を斬り裂く、総毛立つような手応え。


 軽いな、と凜は頭の片隅で微かに思った。

 柔らかく、薄い肉だと感じた。

 人が命脈を保つのに必要な内腑を、十分に斬り裂いたと確信する。


 初めて人を斬った感慨をおぼえる暇もなかった。

 襖の隙間を縫うように、凜は控えの座敷に低い姿勢で抜け出す。

 行灯のわずかな灯りで、侵入者の姿を一瞬でとらえる。

 

 黒装束に頭巾を被った四人。

 凜が斬ったことに気付かず、崩れる先頭の小柄な侵入者に蹴躓いて体勢を崩す二人目。

 何が起きたかも分からないうちに、凜の小太刀に首を深々と裂かれて息絶える。

 残った二人は何事かと今更のように刀を抜くが、暗がりのなか姿勢の低い凜の姿を捉えきれていない。

 三人目の胴をすれ違い様に撫で斬る。

 流石に四人目は体を整え、その切先が完全に凜を捉える。


 真っ当な正眼の構え。

 薄暗い仕事を生業とするものではない。

 おそらくは衛士だと凜は踏んだ。


 その思考すら置き去りにして、凜は間合いを無造作に詰める。

 虚をつかれた四人目は、咄嗟に迎え撃つ。

 真っ向からの斬り下ろしを凜は半歩体をずらして躱わすとともに、小太刀を横に薙ぐ。

 四人目の、体格のいい男の間合いだった。

 凜の小太刀では三寸遠い。

 しかし、凜の小太刀は型通り正中線で止められた四人目の右の手首を断っていた。

 苦悶の声を上げる間も無く、翻った刃が首筋を斬り裂く。


 返り血を避けて後退った凜は残心を示しながら、大きく息を吐いた。

 結果ほど、余裕の勝利ではなかった。

 少なくとも四人目は、まともに立ち合えば手こずったであろう程度には手練れだった。

 そもそも囲まれていたら、相手が素人でもなければ勝ち目などない。


 暗がりの中、虚をつき、相手が対格差の手合を理解するよりも早く、それらを利用して斬った。

 凜は衛士ではない。実のところ剣士ですらない。

 剣に誇りもなければ、剣術を極めようとも思っていない。

 剣はもっとも携帯性と殺傷力を兼ね備えた殺しの道具でしかなかった。


 凜は斬った順番とは逆に、生死を念のため確認する。

 四人のうち、三人はすでに息絶えていた。


 凜にとって、初めての人殺しだった。

 刃が人の肉を斬り裂く感触はけして愉快なものではなかったが、思ったより心は平静だった。


 最初に斬った、小柄な相手だけはまだ息があった。

 凜の指が頭巾をはぎ取る。

 その素顔が、行灯の薄明りに照らし出された。


「加奈…」


 思ったよりも、凜は衝撃を受けなかった。

 まったく論理的ではないが、斬った瞬間からそんな予感があった。

 迷いなく御殿を案内できる、凜よりも小柄な人物。筋道を立てて考えても、何も意外なことはない。


 息があったのは、襖越しでやや傷が浅かったからだろう。

 とは言っても、おそらくは肺を斬っている。

 呼吸がまともにできておらず、息とともに血を吐き出す。目は虚ろで、もはや何も見えてはいないだろう。

 助かる見込みはない。とどめを刺すことだけが、凜にかけられる情けだった。


 小太刀の切っ先を心の臓に向ける。

 切っ先がぶれて定まらない。


「は…」


 凜の手が微かに震えていた。

 呼吸が浅くなっていることに、今更のように気が付く。

 奥歯を噛みしめる。

 躊躇う自分が許せなかった。巫女にすべてを捧げて、それ以外は関係ないと言った自分の言葉が何の覚悟も伴っていなかったようだった。

 切っ先が震えても、体重をかけて貫けばいいだけだ。

 なのに体は動かない。


 小太刀の柄に、凜以外の手がそっと添えられた。

 白魚のような、まるで刀にはそぐわない小さく細い指。


「巫女様…」


 血の海のなかを、まるで恐れる様子もなく凜のすぐ傍に陽鞠が立っていた。

 いや、陽鞠の指は凜よりも震えていた。

 荒事と無縁に生きてきた少女が、この惨状を恐れないはずがなかった。


「楽にしてあげましょう」


 陽鞠の言葉に、凜の心は定まった。

 まだ手の震えは止まらなかったが、少しだけ呼吸が落ち着く。


「巫女様が手を汚される必要はありません」


 凜が陽鞠の手を柄から外そうとするが、陽鞠は固く握って離さなかった。


「今回だけです」

「巫女様…」

「貴女が…守り手が誰かを殺めるときは、私が殺めたのと同じであることを、この身に刻んでおきたいのです」


 凜はもう迷わなかった。そんな時間もなかった。

 迷わなかったのは、巫女の言葉だったからではない。

 陽鞠の言葉に確かな覚悟を感じたからだった。


「どうすればいいですか」

「力を入れずに握っていてください」


 凜は小太刀の柄を陽鞠に逆手で握らせる。

 その手を包むように手を重ねて、もう片方の手を柄頭にかけて切っ先を加奈の心の臓に向ける。

 凜が小太刀に体重をかけ、切っ先は肋骨の隙間を抜けて一瞬で心臓を貫いた。


 加奈の呼吸が止まり、その目から完全に力が失われる。


「うっ…」


 小太刀から手を離した陽鞠が、口元を袖で抑えて寝所に駆け込む。

 寝所の奥から聞こえる嘔吐きを遠く感じながら、凜は加奈の亡骸から刃を引き抜いた。

 出血はそれほどでもなかった。


 凜は懐から出した手巾で小太刀の血を拭い、鞘に納める。

 虚ろに見開いたままの加奈の目に掌を当てて、瞼を閉ざす。


「加奈、どうして…」


 思わず、ぽつりと凜は言葉を落とした。

 最後に話した時の、どこか思い詰めたような加奈の顔が思い出される。

 あの時に、もっと無理矢理にでも聞き出していれば、何か変わったのだろうか。そんな考えを、凜は頭を振って追い出す。

 自分がこうしていれば、なんて考えは驕りというものだ。


 寝所の反対側の襖が静かに開く。

 咄嗟に小太刀の柄に手をかけ、凜の視線がそちらに向けられる。


「由羅…蘇芳殿下もご無事でしたか」


 由羅の後ろに、蘇芳が続いて現れる。

 どちらも怪我や汚れは見受けられなかった。


「四人…流石ね、凜」

「そちらに襲撃はなかったようですね」

「こっちは五人よ」


 凜は眉を顰めた。

 由羅の返り血ひとつ浴びていない姿を確認し、それから自分の様子に目を落とす。返り血は避けたが、それでも避けきれずに服には血が飛び散っているし、手は血にまみれている。

 由羅とて人を斬ったのは初めてのはずだ。

 何をどうすればそうなれるのか、理解の外すぎて慄然とした。

 これは差などではなく、生まれ持ってのだと言うことを思い知らされる。


「では、そちらが本命ということですね」


 内心の渦巻く感情を隠して、凜は言う。

 あるいは、こちらは脅しだけで害意はなかったのかもしれない、と凜は考える。

 囲んで動きを封じるだけの気構えだったから、あれほど容易く不意をつけたのかもしれない。

 その憶測が、余計に由羅との違いを感じさせた。


 由羅が無造作な足取りで凜に近づき、加奈の亡骸に目を落とす。


「加奈ね。内通してたってことかな」

「ええ、おそらくは」


 二人はお互いに感情のない、あるいは感じさせない言葉を交わす。


「そう。馬鹿な子」


 由羅はあっさりと視線を外して、もう関心を失ったようだった。


「凜、火がつけられている。油がまかれたみたいで回りが早い」

「そうですか。では、すぐに出ましょう」


 凜が寝所を振り向くと、陽鞠は気丈にもすでに立ち上がって、静かに佇んでいた。

 掛けてあった打掛を取り、陽鞠の頭から被せる。


「巫女様、嵐のなか申し訳ありませんが、御殿を出ねばなりません」

「それはかまいませんが、加奈はこのままにしていくのですか」

「申し訳ありませんが、里に関わりのある加奈が内通者であった証は灰にさせて頂きます」


 凜の冷たい声は、実際のところ陽鞠に向けたものではなかった。

 あんな醜態を見せたあとで、冷酷を装ったところで意味はない。

 陽鞠の目は心配そうな色を湛えており、凜の胸中は知られていることが分かった。


「蘇芳殿下も、この娘のことはお忘れください」

「あい分かった。私のことで迷惑をかけたようであるしな」


 血に塗れた凜の迫力に気圧されながら、蘇芳はたじろかずに頷いた。


「では巫女様、参りましょう」


 凜の言葉に、陽鞠はそっと凜の隣に寄り添った。

 薄い襦袢を通して触れるその温かさは、まるで凜を慰めているかのようだった。

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