十五
雨は夜半から嵐になった。
蘇芳自身は渋ったが、親王を下屋敷に泊めるわけにもいかず、御殿で泊まることになった。
寝所だけは離してくれという蘇芳の強硬な主張で、陽鞠から一番離れた座敷に布団が用意される。
凛としては同じ場所にいてくれた方が、護衛しやすかった。
ただ、遠回しに同じ寝所にいてくれた方が守りやすいと言った時の、刃物でも持ち出しそうな陽鞠の目に屈して、意見を控えざるをえなかった。
離れているといっても、さして広くもない御殿だ。襖何枚かの距離ではあるが、かと言ってどちらも護衛が離れていい身分ではない。
蘇芳の家司は巫女を畏れて、御殿には入らなかった。
必然的に凜と由羅が別れてそれぞれにつくことになる。
凜が陽鞠につくことになったが、実のところこれは初めてのことであった。
就寝中の番は、いつも由羅の役目だったからだ。
陽鞠の寝所の前で、凜は姿勢良く座布団に座っていた。
風がごうごうと吹き荒れ、御殿に当たって唸るような音が鳴る。
行灯の蝋燭の長さだけが、時間の経過を告げていた。
ふと、寝所の襖がわずかに開く。
凜が気づかぬふりをしていると、微かな衣擦れの音と躊躇うような気配が伝わってくる。
「寝られませんか?」
陽鞠が寝ていれば聞こえなかったであろう、密やかな凛の声。
するりと襖の奥から伸びた指が、凛の袖を摘んだ。
しかし陽鞠は寝所から出てこずに、暗がりから凜の袖を無言で引く。
軽くため息を一つついて膝立ちで寝所に踏み込んだ凜は、ぎょっとする。
陽鞠が襖の裏に布団を敷いて、その上にいたのだ。
つまり、陽鞠は襖一枚隔てた凜のすぐ後ろにずっといたということだった。
気配なんて漠然としたもので当てにはならないが、それにしてもと凜は思う。
凜は枕元に座して陽鞠と向かい合う。
襦袢一枚で髪をおろした陽鞠は、どこかあどけなかった。
「怖いのですか」
こんな嵐の夜は、里でも不安そうにする子が多かった。剣士として育てられても、少女としての感性が失われるわけではない。
「いえ、何だかそわそわしてしまって」
襖の隙間から差し込む薄明かりだけでは、お互いに表情までは判然としない。
しかし、はにかむような陽鞠の声からは、確かに恐れは感じられなかった。
「眠くなるまで、お話しましょう」
「かまいませんが、布団に入ってください。眠くならないでしょう」
一瞬、何か言いかけた陽鞠は、しかし大人しく凜の言葉に従って布団に入る。
それから掛け布団を少し持ち上げた。
「枕元に座られると気になって寝られませんので、凜様も入ってください」
「…そんなわけにはいかないでしょう」
呆れたように凜が言っても、陽鞠は布団を持ち上げたまま下ろさない。
これは抵抗しても無駄だな、と判断してせめてもの妥協として布団に入らないように畳に横になる。
「これでいいでしょう」
「…意地悪」
拗ねたように言って、陽鞠は頭から布団にくるまってしまう。
「話さないなら、私は戻りますよ」
「駄目! 意地悪意地悪っ」
慌てて布団から顔を出す陽鞠に、凜は呆れる。
「子どもですか」
頬を膨らませた陽鞠は、布団から片手を出して凜の手を握った。
「凜様の子どものころの話を聞かせてください」
「私の? 大した話はありませんよ」
「何でもいいのです」
そう言われて、凜は何を話すか考える。
本当に話して面白いようなことは何もなかった。
「…剣の里は五歳くらいの孤児を引き取って剣士として育てているのですが、私は赤子の時に引き取られたので、親の顔も知りません」
「え…」
陽鞠の反応は驚いたと言うより、完全に想定しないことを言われたようであった。
「何ですか?」
「だって…いえ、何でもありません」
陽鞠の反応を訝しみながら、凜は話を続ける。
「ですので、今回、里を出るまでは、外の世界と言うものをまったく知りませんでした」
「少し、私と似ていますね」
「巫女様は巫女として目覚めるまでは、大公の御息女として育たれたのではないですか」
「私の話はいいのです」
表情は見えなくても、その声だけで寂しげな顔をしていることが凜には分かった。
護法山で聞いた話が凜の脳裏を過ぎる。踏み込むべき話題ではないのだろう。
「里の生活は単調でした。剣を振り、野山を駆け、学を修める。ただそれだけです」
「遊びとかなかったのですか」
「ありませんね。まあ、野山を駆け回るのが遊びと言ってもいいでしょうか」
「では、恋、とか」
「里に男はいませんよ」
凜が男という生き物を見たのは、里を出たごく最近のことだった。
筋が硬くて切りにくそうだ、と言うのが最初に見た感想だ。
「女の子が女の子に恋をしてはいけませんか」
「いけないとは思いませんが、男の代わりを求められても、と言ったところです」
凜の口ぶりに、陽鞠の眉が暗がりで顰められる。
うんざりとした口ぶりは、そういう目で見られてきた経験を物語っていた。
「男の子を見たことがほとんどない子たちが、どうして代わりを求めるのですか…」
「知識として知らないわけではありませんし」
「他の子はいいのです。凜様はいいなと思った人はいままでいなかったのですか」
凜は内心で首を傾げる。
剣の修練に明け暮れ、巫女の守り手になるためだけにある人生だった。
そうした人並みの感情が自分にあるとは、凜には思えなかった。
「いませんね。由羅には巫女様に一目惚れしたのではないかと言われましたが」
「え…」
「巫女様こそどうなのですか」
普段であれば、凜は聞かなかったであろう。
暗闇と息遣いも聞こえそうな近さが、凜に距離感を見失わせていた。
「蘇芳殿下は悪い方とは思いませんが」
「いい人だとは思います…」
「巫女様の心配も杞憂にしてくれるのでは」
「そうでしょうか…」
沈黙が落ちる。
少し踏み込みすぎただろうかと、いまさらのように凜は思う。
ただ、陽鞠からは怒っている気配も、悲しんでいる気配も感じられなかった。凜の言葉を噛み締めているような気配に、声をかけることは憚られた。
二人の密やかな声が消える。
嵐の音だけが残る。
だから、凜は気づくことができた。
寝そべって畳にほとんど頭がつくくらいに近かったことも功を奏した。
風に軋む建物の音の中に、一定の間隔で床が軋む音が混ざっていた。
それも複数。
「巫女様、侵入者です」
凜は静かに身を起こして、陽鞠の耳元で告げた。
「声を出さないでください。動かないように」
陽鞠は驚いてはいるようだが、騒ぎ立てたりはしなかった。
身を起こして、布団の上に静かに座す。
凜は畳に置いていた小太刀を取り、鞘を帯に差した。
左膝をつき、右膝を立てる。
左手がゆっくりと鞘口を握り、鯉口を切りながら、右手が柄に添えられる。
侵入者の目的を凜は考えた。
大陸の密偵なら、巫女の暗殺かもしれない。しかし、いまこの御殿には蘇芳もいた。
陽鞠から聞いた話だと微妙な立場のようだし、何らかの政争に巻き込まれてもおかしくはない。
いずれにせよ、この御殿に侵入した時点で、容赦をする気は凜になかった。
あえて考えたのは、考えた上で思考を放棄するためだった。
目的も背景も関係ない。
それを考え、調べるのは凜の務めではない。
取り調べのために生かしておくつもりもない。
巫女を守ることが凜の務めであり、それ以外の全てを思考から追いやる。
凜がいた控えの座敷に何者かが踏み込んでくる気配。
どんなに足音を消しても、人は存在するだけで空気を乱す。
四人、と凜は捉えた。
不思議と凜に恐怖はなかった。
驚くほどに心中は穏やかで、逸る気持ちもない。
神経が研ぎ澄まされ、指先まで意識が行き届いていた。
微かに開けたままの、寝所の襖に何者かが手をかけた。
瞬間、抜く手も見せぬほど滑らかに、凜の小太刀が抜き打たれていた。
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