十四

 厨まで直接行っても良かったが、この時間ならと、凜は御殿の湯殿に向かう。

 御殿の湯殿は井戸水を引いて、それを釜で沸かして檜の湯船に流す仕組みになっている。

 湯を沸かすのに時間がかかるため、早い時間から準備が始められていた。


 凜が浴室の隣の土間を覗くと、加奈が薪の準備をしていた。

 洗濯や湯殿の準備を行う加奈は、屋敷の家人の中でも最も御殿にいる時間が長い。


「加奈」


 凜が声をかけると、少し肩が震えて加奈が振り向く。

 凜が来たことにまったく気付いていなかった反応だ。

 剣の才能がなくて里から出されたと言っても、素人よりはよほど使う。この距離で声をかけるまで気付かないとは、鈍りすぎではないだろうかと凜は訝しむ。


「凜ちゃん。どうしたの」

「蘇芳殿下が夕餉をこちらでとられるので、厨に伝えてもらえませんか。雨がやまないようなら泊まっていかれるかもしれないことも含めて、家司の方々にも」

「そうなの。分かった」


 頷いた加奈の顔が、少し血の気が薄いように凜には見えた。

 先ほどの反応の鈍さも合わせて、体調を崩しているのかと疑う。


「加奈、調子が悪いのでしたら代わってもらったらどうですか」

「え…」


 加奈はどこかぼんやりと、凜の顔を見つめた。


「わたし、そんなふうに見える?」

「ええ、顔色がよくないですよ」

「そっか…」


 加奈の浮かべた笑みに、凜はどこか陰を感じた。


「凜ちゃん、あのね」

「何ですか」

「…ううん、何でもない」


 何度か口ごもり、結局何も言えなかった加奈は口を閉ざす。


「何か悩みがあるなら聞きますよ」


 護衛は由羅がいるし、夕餉まではまだ時間がある。凜にさして急ぐ理由はなかった。


「凜ちゃんは昔から優しかったよね」

「そんなことはないと思いますが」


 家人の加奈に何かあれば、陽鞠が悲しむかもしれないと思っただけだ。

 陽鞠の心を曇らす外的要因をなるべく排除することも、務めの一部だと凜は思っていた。陽鞠の心の内側に踏み込むようなことなら別だが。


「あるよ。由羅ちゃんのことだってそう」

「私は別に由羅に何もしていませんが」

「そうだね。由羅ちゃんに何もせずに、友達になったのは凜ちゃんだけ」

「加奈だって何かをしたわけではないでしょう」

「わたしは怖くて見ないふりしちゃったから」


 凜は上がり框に腰を下ろして、加奈に隣に座るように促す。

 加奈は遠慮がちに、少し間を空けて座った。


「由羅のこと、後悔しているのですか」

「後悔、じゃないかな。たぶんわたしは何回繰り返しても同じことをしてしまうから」

「では、悪いと思っているのですか」

「そうだね。後ろめたいのかも」

「それが、悩みなのですか」

「ううん。ただ棘のように心に刺さってたから、凜ちゃんに聞いてほしかっただけかな」


 加奈の視線が土間に落ちる。


「由羅ちゃんはわたしのこと恨んでるかな」

「こう言うと傷つくかもしれませんが」


 言葉の割に、凜は少しも遠慮せずに言った。


「由羅は里の子を誰も恨んでいませんよ。路傍の石ほども関心がないだけで」

「ひどいっ」


 生真面目な、あまりにも遠慮のない言い様に、加奈は軽く笑ってしまう。


「後悔しているなら背負い続けるしかありませんし、そうでないなら気にしないことです」

「許されようなんて、傲慢ってこと?」

「許されたいと思うのは悪いことではありませんが、許してくださいと言うのは傲慢でしょうね」


 許しというのは求めるものではなく、与えられるものだと凜は思っている。許されたいのであれば、ひたすらに贖罪を積み重ねるしかない。


「…凜ちゃんは?」

「私ですか?」

「わたしのこと、軽蔑してる?」

「私がどうして加奈のことを」

「凜ちゃんみたいな人からしたら、見た目が違うだけで人を差別する人間なんてくだらないのかなって」

「私はそんな立派な人間ではありませんよ」


 どうにも自分を過大評価する人が多くて困ると、凜は気分が重くなった。

 あまり頭が良くない自覚があるから、余計なことを考えないようにしているのが、人には器が大きいように見えるらしい。


「人が知らないものを恐れるのは当然だと思います。私は…そうですね、たんに目指すものがあって、それ以外への関心が薄いだけかもしれません」

「守り手、だね」

「ええ」

「いいな、巫女様は」

「何がです」

「凜ちゃんがずっとそばにいて守ってくれるなんて。羨ましい」

「私などそばにいても口うるさいだけで、楽しくないと思いますけど」

「ふふ。凜ちゃんは隣に立っていてくれるだけで自慢できるから」

「人を飾り物のように」


 里で他の子たちにちやほやされることに、凜は飽き飽きしていた。男の代わりなど求められても困るだけだ。


「そう言えば、巫女様と都を歩いた時に加奈が路地裏に入るのを見かけたと言っていました」


 話題を変えようとしたわけでもないが、ふと思い出した疑問を凜は口に出していた。

 加奈の顔が、目に見えて強張る。


「え…いつの話?」

「ひと月ほど前でしたか。由羅がその路地から出てきてうやむやになってしまいましたが」

「気のせいじゃなくて?」

「さあ。私は見ていませんし」

「そうなんだ…」


 唇を軽く噛んで、加奈は俯いた。

 もともと血の気が薄かった顔が、更に青白くなったように凜には見えた。


「…大丈夫ですか?」

「うん。平気…」


 ぎこちない笑みを浮かべて、加奈は腰を上げた。

 そのまま勝手口に向かい、引き戸を開ける。


「雨、強くなってきたね」


 加奈の言葉通り、雨音は大きく、風も出てきているようだった。


「泊まりになりそうだね」

「そうですね」


 面倒なことになった、と凜は思う。

 神祇府あたりから、後で執拗に詮索されそうだ。

 巫女が身持ちを崩したなど、神祇府は看過できないだろう。


「ねぇ、巫女様と蘇芳殿下の仲って、お泊まりするくらいいいの」

「どうでしょう。今日はこの雨ですから、特別ではないですか」

「そっか」


 凜からすれば、相性の悪くない二人に見える。

 陽鞠は妻としての立場を気にしているようだが、極端なように思える。妻同士の不和など、陽鞠が巫女でなくとも起きうることだ。

 その間を取り持つのが男の器量というものだろう。それくらいの器量は期待できる人物だと、凜には思えた。


 しかし、それは凜の立場で口を出すべきことではない。

 陽鞠にはその考えを悲しがられているが、変える気はなかった。

 踏み込みすぎれば、巫女と守り手の領分を超えて惹かれてしまうであろうことを恐れてもいた。


「じゃあ、凜ちゃん。わたしそろそろ行くね」

「ええ。お願いします」


 傘を手に取り、勝手口から加奈が出て行く。


「凜ちゃん」


 立ち上がったところに声をかけられ、凜は勝手口を振り向く。


「久しぶりにお話できて嬉しかった」

「ええ。私もですよ」

「…嵐になったら夜は気を付けてね」


 傘を目深にさした加奈の顔は見えず、微かに笑みを浮かべた口もとが、凜には泣いているように見えた。

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