十二
護法山を下ると道は左右に分かれる。
左に進めば巫女の屋敷にすぐにたどり着く。
当然のように左に折れようとした凜の手が引かれ、その動きが止められた。
「巫女様?」
「…まだ、お昼にもなっていませんよ」
凜はずっと手を離さず、動こうとしない陽鞠を見る。
それから空を見上げた。
たしかに朝早くに屋敷を出たので、まだ日は天頂にも登っていない。
「おみ足は痛めていませんか」
「はい!」
顔を輝かせる陽鞠。
七年も外に出ていなかった陽鞠に、はじめから無理をさせたくはなかったが、限界を知っておくのもいいかと、凜は自分を納得させる。いざとなれば自分が背負って帰ればいい。
「少し都の方を歩きましょうか」
向きを変え、右に歩き出した凜に、今度は陽鞠も黙ってついて行った。
◇◇◇
皇都は条坊制により南北と東西の街路が垂直に交わる計画都市だ。
南北に伸びる十の坊と、東西に伸びる十の条が交わる中心に、皇が座す御所があり、それを囲むように貴族の邸宅や神社が立ち並ぶ。
閑静な中心部から外れると活気のある町並みが広がっている。
巫女の屋敷は厳密には条坊の外にあり、陽鞠が都の喧騒に触れるのは初めてのことだった。
物珍しげに辺りを見回す陽鞠とはぐれないように、凜は手をしっかりと握った。
ここでも陽鞠は人目を集めていた。
しかしそれは、美しい姫君に向けられる程度のものでしかない。
凜が感じている引力のようなものを、行き交う人々が感じているようには思えなかった。
物珍しげに見回すことも、道に迷う素振りも見せずに歩く凜を、陽鞠は少し不思議そうに見る。
「凜様は都に詳しいのですか」
「いえ、然程。非番の折に、何度か見回りをした程度です」
ずっと剣の里で育った凜が、都に詳しいはずもない。それでも、有事のために大路だけは一通り見て回っているので迷うことはなかった。
都の整然とした街並みは、目印さえ定めてしまえば覚えやすい。
「凜様、あれは何ですか」
陽鞠の指が示す方を凜が目で追うと、道の端に等間隔で並ぶ、硝子の提灯が乗った金属の棒があった。
「ああ、ガス灯というらしいですよ。篝火のような物だそうです」
「あれが、そうなのですね。そういうものが都に増えているとは聞いていましたけど」
凜とて実際に灯っているのを見たことはない。まして、御殿から出ることのない陽鞠が、名前だけでも知っていることを意外に思った。
「どなたに聞かれたのですか」
「読み書きを教えて頂いた乳母が、新しいものが好きで都の流行を教えてくれました」
「その方はいまどうされているのですか」
少なくとも、凜はそれらしき人物を屋敷で見かけたことはなかった。
「衛士に先立って州都に戻りました」
「そうですか」
その人は、この方の心の隙間を少しは埋めていたのだろうかと、凜はふと考えてしまう。
それは凜の考える守り手の領分を超えているが、護法山で聞かされたことが蟠っていた。
「どんどん新しいものが増えていきますね」
「今度、汽車なる鉄の車が走るそうですよ」
「え、お馬が曳くのですか」
「さぁ?」
今上の皇は開明的で、大陸の進んだ技術を積極的に取り入れていた。
かつては武士と呼ばれていたものたちも、今は衛士と呼ばれる軍隊となり、弓や刀槍よりも鉄砲が主力になっている。
「…凜様、知っていますか」
手をつないで歩きながら、どこかぼんやりと陽鞠が言う。
「文明の進んだ大陸では、巫女は生まれなくなったそうですよ」
「そもそも、大陸にも巫女がいるのですか?」
巫女が月詠神の末裔と言うのは、よほどの田舎でもなければ頭から信じていることでは最早ないが、それでも神に近しい何かと思われているのは変わらない。
山祇国以外にも巫女がいるとは、庶民で考えているものはいないだろう。
多くの人にとって、巫女とはいまだに御簾の向こうにいる神秘の存在なのだ。
「呼び方はいろいろですが、穢れを祓う存在というのは、どの土地にもいたそうです」
「なぜ、いなくなってしまったのでしょうか」
「分かりません。ただ文明が進むと、巫女が生まれなくなるのは間違いがないようです」
陽鞠の声は平坦で、凜には感情が読み取れなかった。
道傍のガス灯に目を向けている陽鞠の顔も、凜には見えない。
「もしかすると、私が最後の巫女かもしれませんね」
その何の気もないように言われた言葉に、凜は頭を殴られたような衝撃を受けた。
巫女がいなくなるなんて、凜は考えたこともなかった。
それはとりもなおさず剣の里の存在意義が失われるということであり、凜か由羅が最後の守り手になるかもしれないということを意味していた。
「巫女様…」
「ふふ。冗談ですよ」
その言いようが、あまり良い心の有り様から出た言葉とは思えず、凜は陽鞠の表情を窺う。
しかし、凜の方を見て浮かべた陽鞠の笑みは、いつもの巫女としての微笑みでしかなかった。
ふと、陽鞠の目が宙を泳ぎ、鼻をひくつかせる。
「凜様、何かいい匂いがします」
「この辺りは飯屋が多いですから、その匂いでしょう」
「ご飯屋さん…」
ぴたりと足を止めた陽鞠が、凜をじっと見つめる。
二人の間の身長差が、陽鞠を上目遣いぎみにしていた。
「凜様…」
「駄目ですよ」
「まだ何も言っていません」
「どうせ、何か食べて行きたいと言うのでしょう。お屋敷でお食事が用意されていますよ」
食事が冷める問題は多少の解決をみていた。
今までは、食事が出来てからまず、御殿の入口の詰所に待機する衛士に声をかけ、呼ばれた衛士が厨まで行って毒味をし、それから御殿に運ぶという手間をかけていた。
それを直接、御殿まで運ばせるようにしたことで、冷めているから、生温かいくらいまでには改善したのだ。
「うぅ…」
さすがに用意された物を無駄にするのは悪いと思ったのか、陽鞠はしょんぼりとしながらも諦めたようだった。
「今度は厨にも、外で食べてくると言ってから来ましょう」
「本当ですかっ」
陽鞠の顔が子どものように輝いた。
「もう、やはり駄目とか聞きませんからね。嘘だったら泣きますよ。ええ、本当にわんわん泣きますから」
手をつないだ腕にぎゅうぎゅうと体を押し付けてくる陽鞠に、凜の顔が引き攣る。
「子どもですか。嘘などつきませんよ。そんなに外で食事がしたかったのですか」
「それもありますが…」
陽鞠が拗ねたように頬を膨らませる。
「先日、由羅様に凛様との付き合いが短いことを揶揄されたのが悔しくて」
「…何ですって」
「都を二人で歩いて、食事までしたことは、さすがに由羅様もないでしょうから、自慢できます」
由羅は一体何をしているのだと、凜は頭が痛くなってきた。
陽鞠にしても、蘇芳にだけではなく、由羅にも同じようなことをしているのかと、凜は呆れる。自分の知らないところで、自分を引き合いに出して争うのはやめてほしい。
「あら、加奈?」
凜が悶々としていると、隣から不思議そうな声が上がった。
「どうかしましたか」
「いえ、そこの路地裏に入って行ったのが、加奈に見えたものですから」
「加奈が?」
陽鞠が指すところに、凜も目を向ける。
街路ではなく、建物と建物の間の細い道だ。用もなく通る必要があるとは思えない。
「今日は神祇府への報告だと言っていましたが。巫女様は加奈をご存知なのですか」
巫女屋敷に勤めていても、家人がわざわざ陽鞠に名乗ったりすることはない。
「ええ。話したことはありませんが、何度か小物を持ってきてくれて…衛士に見つかって最近はほとんど顔を見ていませんが、叱られている時に名前を聞きました」
加奈は里でも年下の面倒をよく見ていたので、そういうこともあるだろうかと凜は考える。
路地の前まで来た凜は、何の気なしに暗がりを覗き込んだ。
「由羅?」
路地から今しも出てこようとした由羅に鉢合わせる。
凜に気がつくまでの一瞬、その表情がひどく酷薄なものに見えた気がした。しかし、それは凜と目が合った瞬間には完全に影を潜めていて、いつもの人懐っこい笑みに変わっていた。
「凜、こんなところでどうしたの」
「それは、私が言いたいことです。何をしているのですか」
「ん-、猫の生態模倣? 路地裏探索?」
「意味が分かりません。それより、ここに加奈がいませんでしたか」
凜は由羅の背後に目を向けるが、薄暗い路地に人の気配はない。
陽鞠の見間違いだったのだろうかと、凜は首を傾げる。
「誰も来なかったよー」
答えながら、由羅の視線が凜の隣に移った。
陽鞠の顔を見て、それからつないだ手に視線が固定される。
「で、何やっているの。護法山行くって言ってなかった」
「行きましたよ。帰りに少し散歩しているだけです」
「ふぅん」
抑揚のない声で鼻を鳴らす由羅に、凜の手を握る力が強くなった。
「よかったね、陽鞠様」
「ええ。とても楽しかったですよ」
どこか揶揄するような由羅の言葉にも臆さず、陽鞠は巫女の顔で返した。
少しだけあった凜との間が埋まり、手をつないだ腕と腕が触れ合う。
「へぇ。まぁ、いいけど」
「巫女様にその態度は何ですか」
嗜める凜に、珍しく由羅が反抗的な目を向けた。
「凜こそ、巫女様を一人で連れ歩いて、護衛としてどうなの」
「それは…確かに、浅慮でした」
いまだ正式な守り手ではない凜が、一人で決めていいことではなかったと反省する。
「凜様は私のお願いを聞いてくださっただけなので、責めないでください」
「これは護衛の問題なので、陽鞠様は口を出さないで」
「私の身辺のことなのですから、筋合いはあります」
凜が納得しているのに、なぜか陽鞠の方が由羅に噛み付く。凜としては困惑するしかなかった。
「二人ともやめてください。私が不注意だったのですから、今後は気をつけます」
凜が間に入ると、二人は視線を逸らして黙る。
それでも険のある態度をやめようとしない二人に、凜はため息をつくしかなかった。
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