十一

「わぁ、奇麗ですね…」

「巫女様、足元を見て歩いてください」


 登山道の緩やかな石段を登りながら、陽鞠は立ち並ぶ桜を見上げる。

 後ろをついて歩きながら注意する凜の言葉も聞こえないように、ぽかんと口を開けたまま足を進める。


 満開の花びらが風がそよぐたびに舞い、石段を桜色に染め上げていた。

 花びらの回廊のようで趣はあったが、石段の境目が分かりにくく、陽鞠の危うい足取りに凜はハラハラとさせられる。


 案の定、石段に陽鞠がつまずいた。

 素早く腰に回された凜の手が、陽鞠を支える。


「あ…申し訳ありません」


 うっすらと頬を染めながら、陽鞠は自分を抱きかかえる腕を凝視する。

 その腕に伸ばした指が触れるよりも早く、するりと離れていく。陽鞠の目がその手を名残惜し気に追うが、凜は途中で返した掌を差し出した。


「巫女様、お手をどうぞ」


 おずおずと、差し出された手に陽鞠は手を重ねる。

 はにかむ陽鞠を直視できず、凜は前を向いてゆっくりと歩きだす。


「…散る前に雨がやんでよかったですね」

「はい。連れてきてくれて、ありがとうございます」


 約束の日から五日後、ようやく雨の切れ目が訪れ、凜は陽鞠を御殿の外に連れ出してきていた。

 巫女の御殿を麓とする護法山。山頂の天月宮に続く石段は、花見の時期であることもあって行きかう人々がちらほらと見かけられた。

 手をつないで歩く二人の少女を奇異な、しかし微笑ましい目で見ている。

 たまに陽鞠の金瞳に気付いて、不思議そうな顔をするものもいた。とはいえ、それが巫女の証だと広く知られているものではない。


 それよりは、出歩くための小袖とはいえ、藤柄の着物は上等なもので、陽鞠の美貌や身に纏う品も相まってやんごとなき姫君にしか見えない。そのうえ、連れ歩く凜も見目の整った若武者のようであるから、どうしても人目を引いてしまっていた。


 石段は勾配も緩やかだが、歩き慣れていない陽鞠は少しだけ息が乱れる。

 もともとゆっくりとしていた凜の歩みが、さらに緩やかなものとなる。


「申し訳ありません」

「謝る必要などありませんが、巫女様は山祇を旅して回ることになるのですから、もう少し普段から歩かれた方がいいかもしれません」

「凜様がお付き合いくださいますか」

「無論です」


 それが務めだからだという意味だと分かってはいるが、それでも陽鞠の心は弾む。


「…今日は、由羅様も一緒でなくてもよかったのですか」


 生真面目な凜のことだから、外出時は二人で護衛すると言うと思っていたため、朝早くから二人だけで連れ出してくれたことが、陽鞠には少し意外だった。

 もちろん、嬉しい誤算ではあったが。


「朝の方がまだ人出が少ないでしょうし、由羅には今朝の交代の際に、外出を伝えてあります」


 前を向いていた凜の視線が、一瞬だけ横に流れて陽鞠を捉える。


「それに、約束したのは私ですから」


 その言葉の意味が、陽鞠を悩ませる。

 自分が勝手にした約束だから、他人に手間をかけさせたくない、なら悲しい。でも、自分がした約束を他人に取られたくない、ならどれだけ嬉しいだろうか。


 凜の手を握る力を少しだけ強める。

 背丈の分、陽鞠よりも少し大きい。節くれだっているわけではないが、何度も潰れたのであろう剣ダコが固くなっていた。


「巫女様、先日のことですが」

「…え、あ、はい」


 掌の感触に気を取られて、陽鞠の反応が遅れる。


「蘇芳殿下のことです。あのような対応はおやめください」

「話すことはないと、申し上げたはずですが」


 思ったよりも感情的な冷たい声が出てしまったことに陽鞠自身が一番驚いた。

 はっとして凜の顔色を窺う。

 凜は黙ったまま、前を見ている。


「…怒りましたか」

「いえ。むしろ出過ぎた諫言であったかと、考えていたところです」

「そんなことはありません!」


 強すぎる否定に、凜は思わず陽鞠を見る。


「ただ、あまりその話はしたくないのです」

「やんごとなき方の事情は、私には分かりません。私は、私を引き合いに出すのをやめて頂ければ良いのですが」


 ぴたりと、陽鞠の足が止まった。

 往来の真ん中で立ち止まった二人にすれ違う人々の目が集まる。

 凜は陽鞠の手を引いて、端に避ける。


「迷惑でしたか」

「迷惑というより、必要性が理解できません。必要性が理解できないことに名を使われるのは、守り手の職分を超えている気がします」


 唇を軽く噛み、陽鞠はうつむいた。

 二人の間に気まずい沈黙が流れる。それでも陽鞠は握った手だけは離そうとしない。


「…巫女様、もうすぐ頂上です。登ってしまいませんか」


 無言で頷く陽鞠の手を引いて、凜は再び石段を登り始めた。


◇◇◇


 護法山は山とは名ばかりで、陽鞠の足でも小半刻(三十分)も歩けば頂上にたどり着く。

 山頂の天月宮は巫女の祖神と言われる月詠神を祀った社であり、その境内は一般にも開放されている。


 山門を抜けると、桜の立ち並ぶ参道になっており、桜色の洞のようであった。

 その幻想的な風景に見惚れて、陽鞠の足が止まる。


「あちらに座るところがあるようです」


 参道の脇に置かれた木の腰掛けを見つけ、凜は陽鞠の手を引いて座らせる。

 そのまま控えるために手を離そうとするが、陽鞠は握ったまま離さなかった。


「凜様も隣に座ってください。立ったままでは話しにくいです」

「それでは、失礼します」


 腰掛けの端に少し距離をおいて座ろうとするが、陽鞠が手を離そうとしないので、仕方なく肩が触れそうなくらいの近さで腰を下ろす。

 手を握る程度ならともかく、あまり腕の動きを封じられると咄嗟に抜刀しにくくて困るのだが、と凜は内心でため息をつく。


「凜様は巫女の結婚について、どこまでご存知ですか」

「どこまで、とは。二十歳になったら、親王か大公に嫁ぐのが慣わしとくらいしか」

「そうですね。それは間違っていません」


 落ち着かないのか、凜の手を握る指が力を強めたり緩めたりを繰り返していた。


「しかし、巫女の結婚は神事なのです」

「はぁ」


 陽鞠の言わんとすることが分からずに、凜は間の抜けた声を漏らす。


「俗世の結婚とは別、と言い換えた方がよろしいでしょうか」

「つまり、正室や側室といった立場におさまらないと?」

「はい。格式だけは誰よりも高い、序列におさまらない妻の存在がどのようなものかお考えください」

「それは…不和の原因になるかもしれませんね」

「ですから、歴代の巫女の中には、結婚しても一度も夫の家に寄り付かなかった方もいらっしゃいました」


 なんとなく、陽鞠の言わんとすることが凜にも分かってきた。


「火種になりたくない、と」

「はい。私もそれに倣うつもりです。ですから、蘇芳様にはなるべく嫌われていたいのです。嫌いな相手なら離れていても何とも思わないでしょう」


 もう、遅いのではないだろうかと、陽鞠に目を奪われていた蘇芳を思い出して、凜は胡乱な顔をする。

 そもそもこの人は他人に嫌われることに向いてなさすぎる。


「蘇芳殿下が他に奥方を持つとは限らないのでは?」

「それを説明するには、蘇芳様のお生まれを話さないといけません」

「それは、私に話しても問題ないのですか」


 凜にとっては興味もない話ではあったが、巫女の身辺に関わる以上、知らない方が問題あるだろう。

 しかし、やんごとなき人の出生の秘密など、いち剣客が知るべきことではない。


「とくだん、秘されている話ではありません。蘇芳様のお母さまである貴子様は、今の東青州公がお父上なのです」

「それが?」

「貴子様は皇妃であって皇后ではありませんので、蘇芳様の親王としての位は高くありません。一品の親王もいらっしゃるので、皇位が譲位されると、臣籍に下ることになるでしょう」

「巫女の夫は親王か大公が慣わしなのですから、蘇芳殿下の位は保証されるのではないですか」


 大公であれば辞することもあるが、親王とは役職ではなく立場なので、巫女の夫をそこから外すとは考え難い。


「そこなのです。朝廷としては何かと反目することの多い東青州の血が皇家に残ることは好ましくありません。だから、慣習として皇位につくことのない巫女の夫に蘇芳様を選びました。一方で、大公家においては、巫女の夫となったものは大公となるのが慣わしです」

「つまり、蘇芳殿下は次の東青州公になることが、ほぼ確定していると」

「はい。そして大公が二十歳まで正室を迎えられないことはありえません」


 次期大公ともなれば、早くから子をなすことを求められるのは当然のことであった。

 それに対して、巫女は二十歳になるまで結婚することはない。


「最初に巫女様が仰った状況になることが、目に見えているのですね」

「はい。私はそのようなものになりたくはありません」

「仰っている意味は分かりました。しかし、何故なのですか」

「何故、とは」


 凜の問いの意味が分からず、陽鞠は首を傾げる。


「筋の通った話だとは思いました。しかし、巫女様のお歳で危惧されることとは思えません」


 陽鞠の言うことは理解できるが、今の段階で対策を講じるようなことではないと凜は思った。

 まるで何が起きるかを予め知っているかのような口ぶりだ。


「何故、そのように思われるようになったのですか」


 陽鞠が唇を噛んで俯く。

 ここに触れられたくなかったから話したくなかったのだな、と凜は理解した。


「…失言でした。私ごときが口を挟むことではありませんでした」


 陽鞠は十分に筋道の通った説明をした。

 それ以上は陽鞠の内面の問題であって、踏み込むことは凜の職分を超えている。

 立ち上がった凜の手を、陽鞠は慌てて追いかけるように引いてとどめた。


「悲しいことを仰らないでください」

「巫女様…」


 陽鞠は長く息を吸い、言葉とともに吐き出した。


「何故と問われるのでしたら。私が先代巫女の子どもだからです」


 風に桜の花びらが吹雪のように舞い、陽鞠の姿は花びらとともに消え入りそうなほどに儚かった。

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