十
渡り廊下の端を行ったり来たりしながら、陽鞠は顔に不機嫌さを滲ませていた。
大きな手拭いを胸元に抱えながら、何度も下屋敷につながる方に目を向ける。
やがて蘇芳を見送った凜が由羅とともに姿を現すと、陽鞠は小走りに駆け寄った。
そのまま、濡れそぼった凜に頭から手拭いを被せる。
「もう。こんなに濡れてしまって」
優しい手つきで凜を拭く陽鞠。
「大丈夫ですから。それよりも、先ほどのことでお話があります」
「私にはありません」
凜の言葉をにべもなく切り捨てて、陽鞠は拭くのを続ける。
もちろん凜の言いたいことは分かっていたが、それについて語る気もなければ、省みる気持ちもなかった。
「お風呂にも入ってください」
「ですが護衛が…」
「由羅様もいるので大丈夫です」
一通り水気を拭うと、陽鞠は凜の背中を押すように急き立てる。
不満げに凜が去っていくと、陽鞠と由羅が廊下に取り残された。どことなく他所他所しい空気が二人の間に流れる。
由羅に対して最初は明るい子だという印象を持っていた陽鞠だが、このひと月でその印象は変わっていた。
由羅が明るいのは、凜がいる場所でだけだ。
口調がどんなに軽くても、陽鞠と二人きりの時は冷ややかな態度をとる。それどころか、ときおり敵意に近いものを陽鞠は感じていた。
「由羅様も少し濡れています。凜様が上がったら入ってください」
穏やかだが、あくまでも巫女としての顔で言う。
「分かったー。手拭いかりてもいい?」
「え…ですが、凜様が使ってしまったので」
「別にいいよ。里ではそういうの気にしてなかったし」
おずおずと陽鞠が差し出した手拭いを由羅が受け取る。刹那にも満たない一瞬生じた引き合いに、果たして二人は気付いたかどうか。
由羅は雨に濡れた体を雑に拭く。
手を差し込んだ着物の重ねの隙間から、山祇の民と比べると明らかに白い肌が覗いた。
背丈こそ凜より低いが、体の成熟と言う意味ではよほど大人びており、その女を感じさせる色気に、陽鞠は思わず目を逸らす。
目を逸らしたのは、見てはならないものを見てしまった気分と、若干の不愉快さを感じたからだった。
「陽鞠様はさー」
体を拭きながら、由羅は何気ない口調で言う。
「凜を守り手にする気なの?」
「…より守り手として優れた方になっていただくつもりですが」
平静を装ってはいたが、陽鞠の声にはわずかに警戒が滲んでいた。
「ふーん。ずるい答えだよね」
「何がでしょうか」
もちろん陽鞠は、由羅が指摘していることに自覚的だった。それでも巫女として明言できることと、そうではないことは弁えていた。
例えそれが、周知の事実だったとしても。
「何を以て優れている、と言っているのかな」
「それは、もちろん私の身を守る人としてです」
「それって、強い方ってことでいいのかな」
「まあ、そうですね」
陽鞠の中には、求める守り手の強さの形がはっきりとあった。
それが、由羅の言う強さと似て非なるものであることも。あるいは、由羅もうっすらと理解しているのかもしれないとも思う。
「陽鞠様、賭けをしませんか」
「賭け、ですか」
意外なことを言われて、陽鞠は首を傾げた。
「そう。年の暮れまでには守り手を決めるよね」
「はい。新年のお務めには守り手も同伴してもらいますから」
「じゃあ、年の暮れに私と凜が立ち合って、勝った方を守り手にするというのはどう」
「それでかまいません」
表情を揺らすこともなく答える陽鞠に、由羅が目を細める。
「…ずいぶんあっさり聞いてくれるんだね」
守り手を選ぶ権利は巫女だけに与えられたもの。伝統的に剣の里から選ばれているものの、それすらも巫女は蹴ることができる。
どんな約束をしようとも、最終的には陽鞠の胸三寸。だから口約束でしかないことを、由羅も理解していた。
「凜にも言ったけど、私は負けないよ。ここ何年も凜に負けたことないから」
「そうですか」
「凜が勝つって信じているの?」
「なんのことでしょう。私は初めから優れた方になっていただくと申しております」
「ふぅん。まぁいいけど」
崩れない陽鞠の態度に、由羅の方が引いた。
約束は守られるのであろうという、奇妙な信頼もあった。
「由羅様こそ。守り手になりたいようには見えませんが」
「うーん。なったらなったでちゃんとやるよ」
「お務めとして、ですね」
「凜だってお務めに徹するって言ってるけど」
「そうですね」
ふと、陽鞠の顔が綻んだ。
巫女と守り手は一線を引くべきだと真面目くさって言う癖に、優しが抜けきらない凜の顔が脳裏に浮かんでいた。
由羅の目が険しくなる。
「そうはならないって確信してるみたい」
「そうでしょうか」
「ひと月くらいで、凜の何が分かるの」
もう由羅の声には、隠す気もない明確な不愉快さが宿っていた。
しかし、陽鞠は欠片もひるまずに正面から由羅を見返す。
「ひと月でも分かることだってあります」
たしかに陽鞠は、凜との付き合いは短い。それでも、由羅も知らない、陽鞠だけが知る凜とのつながりがたしかにあるのだ。
それを出会ってからの時間が短いという理由で下に見られるのは認め難かった。
しかし、認め難いのは由羅も同じだった。
「陽鞠様はさ、なんだか初めから凜が来るって分かっていたみたいだよね」
何もかも見通すような目で、由羅は陽鞠を見ていた。
微かに息を呑む。それを気付かれなかっただろうかと、陽鞠は平静を装った。
「そんなはずがないでしょう」
「そうなんだけどね。ちょっと二人ともおかしいよ」
傍から見るとそう見えるのだろうか。それとも由羅が鋭いのだろうか。いずれにしろ、少し気を付けようと陽鞠は内心で省みる。
誰に気付かれても構わない。しかし、凜にだけは気付かれたくなかった。
「定め、のようなものは感じています」
変に否定するよりは、ある程度、本心を見せた方が由羅も納得すると考え、陽鞠は言う。
由羅の態度から、凜に疑念を抱かれる方が怖かった。
しかしその言葉は、由羅の神経を逆撫でするものだった。
「それは不愉快だなぁ」
いっそ、暢気ともいえる間延びした由羅の声に、しかし、陽鞠は総毛立った。
逆鱗に触れた、と陽鞠は理解した。それでも、陽鞠にも譲れないものがある。だから、由羅の目を正面から逸らさずに受け止めた。
「不愉快だから、そんなものないって思い知らせてあげる」
それは、陽鞠と由羅の関係に埋めようのない溝が生まれた瞬間だった。
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