二章

 鷦鷯さざき帝三十二年三月末。


 凜が巫女の護衛についてひと月が経とうとしていた。

 とくに大きな事件もなく、穏やかな日々が繰り返される。


 凜と由羅の護衛の態勢も大枠の形が出来上がってきていた。

 夜型の由羅が陽鞠の就寝中の護衛を務め、午前中は凜が護衛につく。午後は交代で護衛につき、手の空いた方は自由時間にしていた。

 この自由時間は意図的に作ったもので、行動を定型化しないためだ。下屋敷を見回ったり、当番と一緒に護衛についたりと、それぞれの裁量で動いている。


 必然的に凜と陽鞠は、一緒にいる時間が増えていた。

 とはいえ、生真面目な凜が護衛中に陽鞠に声をかけたりすることはない。

 そもそも護衛というのは、護衛対象に意識を向けるものを警戒するもので、護衛対象そのものを観察するものではない。


 ここ数日、春の開花を促すように小雨が降り続いていた。

 内庭に面した座敷で、陽鞠は琴を奏でている。

 六尺あまりの桐の胴に絹糸の六弦を張った山祇琴は、古くは神楽に用いられ、高貴な女性しか奏でることは許されなかった。

 琴軋ことさきで奏でられる独特の余韻を残す音色は優しくも、雨の微かな音と混じってどこか物悲しかった。


 廊下に控えて、凜は郷愁を感じさせる美しい音色に耳を傾けていた。

 時折、陽鞠の視線を感じる。

 今だけではない。このひと月、ずっと様子を窺うような陽鞠からの視線を、凜は感じている。


「春霖ですね」

「そうですね」


 独り言のような陽鞠の言葉に、凜も気のない返事を返す。

 陽鞠の視線に険が混じった気がして、凜は目を合わせないようにした。


「毎日雨だと気が滅入ります」

「そうですね」

「気晴らしがしたいです」

「そうですか」

「お外に出たいです」

「そうですか」

「もう七年もここから出ていません」

「そうですか…えっ」


 何の気もなく言われた陽鞠の言葉に、凜は思わず振り向いてしまう。

 悪戯っぽい笑みを浮かべた陽鞠と目が合ってしまった。


「やっとこちらを見てくれました」

「はぁ…。嘘ですか」


 咎める凜の言葉に、陽鞠は静かに首を横に振った。


「噓ではありません。この御殿に来てから、一歩も外に出ていません」

「何故ですか。誰かに禁止されているのですか」

「そういうわけではありません。衛士は西白州公の配下なので、我儘は言えませんでした。勝手に外に出ては、迷惑をかけてしまいますし」


 どこか寂し気に言う陽鞠の顔を、凜はじっと見た。

 陽鞠は夕月大公のことを、けして父親とは呼ばない。閑散としたこの屋敷の様子や、衛士の態度からも良好な親子関係が築けているとは思えなかった。

 しかし、やんごとない家の事情に踏み込むほど、凜は無謀ではなかった。それは、守り手の仕事ではない。


「私なら言ってもいいと?」


 だから、はぐらかすように凜はそう言った。


「ふふ。守り手には言ってもいいのです。聞いていただけるかは、その方次第ですけども」


 どこか楽し気な陽鞠には答えず、凜は庭の方に目を戻す。

 陽鞠も追及したりはせず、しばらく琴と雨の音だけが静かに落ちる。


「雨が止んだら…」


 庭の方を向いたままの静かな凜の声が、陽鞠の耳に心地よく響く。


「都の散策でもしますか」


 ぶっきらぼうなのに、じわりと胸が温かくなるような声だった。

 琴を弾く陽鞠の手が止まり、その手が届くはずもない凜に向かいかけ。そのまま、自分の胸を押さえる。


 琴の音が止まり、微かな雨音だけが耳を打つが、凜は振り向かない。

 振り向いて陽鞠を見てしまえば、その言葉に従いたくなってしまうと思った。だから、陽鞠を見ずに言った。それならば、先ほどの言葉はきっと、自分の心から出た言葉なのだろう。


「約束ですよ」


 背中にかけられた陽鞠の声は穏やかだが、けして違えることを許さない強さがあった。


「どこか行きたいところがあるのですか」

「私、都のこと何も知りません…」

「それでどこに行こうと?」

「別にどこだって…凜様とお出かけしたいだけですし」

「…」

「恥ずかしいから黙らないでください」


 不満そうな陽鞠の声を聞きながら、凜はため息をつきたくなっていた。

 自分の考える巫女と守り手の関係から、どんどん離れていっている気がする。その原因を他人に転嫁できないことが、凜にとって一番の問題だった。

 理性は距離を置くべきだと言っているのに、心はどうしても理性を裏切る。


「護法山の桜は名所だそうですよ」


 内心の葛藤とは裏腹に、凜の口はそんなことを言ってしまう。


「ここからでも遠目で見えます! 近くで見てみたいです!」

「天気が良くなったらですよ」


 はしゃぐ陽鞠に、言ってよかったと思ってしまった自分が、凜はどうしようもなかった。


「桜が散る前に晴れるといいですね」


 明るい声で言った陽鞠が、琴弾きを再開する。曲は変わっていないのに、その音色から物悲しさが薄れて、どこか春の陽気を感じさせるようであった。

 しばらくその音に耳を傾けてから、陽鞠を見ないまま凜は口を開く。


「…桜が散っても、どこへでも連れていきますよ」


 一瞬。

 琴の音が乱れた。

 何事もなかったかのように琴を奏でる陽鞠。しかし、その頬が微かに紅潮していた。

 陽鞠の小さく可憐な唇が何度か戦慄き、しかし何かを言うよりも早く、凜が腰を浮かせた。


「何事か」


 廊下の端から姿を現した家人に、凜が声をかける。

 家人が普段、御殿に立ち入ることはないし、まして陽鞠に近づくことはない。


「宮中から書状が届きました。巫女様にお渡しするようにと」


 廊下の途中で跪き、書状を捧げ持つ。

 陽鞠にけして近づこうとしない態度に、凜は舌打ちをもらしそうな気分になる。なってしまったことに忸怩たる思いをかかえる。家人の態度は巫女と己の立場を弁えた、なんら咎めるべきものではない。


 そんな内心はおくびにも出さず、凜は家人に近づいて書状を受け取った。安堵したように去っていく家人には一瞥もせず、陽鞠の所に戻る。


「巫女様、宮中から書状が届いたそうです」

「読んで内容を教えてください」


 凜が受け取った書状を差し出すが、陽鞠の琴を弾く手は止まらなかった。

 意図を探るように陽鞠の顔を見るが、澄まし顔からは考えが読み取れない。


「良いのですか」

「はい。今後も全て凜様が目を通して私に伝えてください」

「わかりました。宮中からの書状は私が目を通します」

「違います。私宛の書状、手紙は全て凜様が目を通してください」

「巫女様、それは」


 文書を預けると言うのは、信頼を預けるのに等しい。

 かつて公職においても文書を管理する右筆は、位こそさほど高くないが、時に専横が起きるほどに権力を持つ役職だった。

 何をどう伝えるか選べると言うのは、それほどの影響力を持つ。

 凜にとっては最も避けるべき仕事と言ってもいい。


「これはお願いではありません。私はそうせよと申し上げました」


 諫言しようとする凜を遮って、巫女としての言葉で陽鞠は言う。

 陽鞠は、守り手が巫女に影響力を持ちすぎないように距離を置くべきだと言った凜の言葉の意味を正しく理解している。

 その上でこれを言っていると、凜はそう思った。

 そうであるなら、凜がこれ以上言うことは分を弁えていないことになる。


「恋文だったらどうするのですか」


 せめてもの抵抗のように凜は言うが、陽鞠は取り合わなかった。


「私にそのようなものを送る方がいるとは思いませんが。凜様が私に伝える必要がないと思ったものは、伝えなくてかまいません」


 密かにため息をついて、凜は書状を開けた。

 里で教育を受けた凜は字も読めるが、宮廷特有の持って回った難解な言い回しに眉を顰める。

 凜が読解に苦労している間、陽鞠は琴を奏で続けていた。横目で見ると、琴を奏でる陽鞠は穏やかに微笑んでいて、凜は少し苛立つ。

 時間をかけて解釈違いのないように、凜は書状の内容を読んだ。


「明後日の巳の刻に、蘇芳親王がいらっしゃるそうです」

「そうですか」


 淡々とした声で、陽鞠が頷く。


「この蘇芳親王と言うのは、どういう方なのですか」

「今上帝の妃、貴子たかこ様のご子息で」


 雑談でもするかのような何でもない口調で、陽鞠は言った。


「私の許婚です」

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