六
堀と塀で隔離された巫女の住まう奥御殿は、一人で生活するには広いが、貴人の住居としてはむしろ狭いとさえいえる。
建物としては一棟だけで、正面から伸びる渡り廊下で下屋敷と繋がっていた。
下屋敷は奥御殿の対角線上に四棟建っているが、使われいるのは一棟だけで、それくらいに家人の数は少なかった。
料理人と清掃などの雑用を行うものがそれぞれ数人。休みのものを含めても十人に満たなかった。
十四歳の子どもに十人近い人間が仕えていると言えば大仰だが、巫女の立場や屋敷の広さを考えればあまりにも少ない。
だが、護衛する立場から見れば利点もある。部外者が入り込む余地が少ないからだ。反対に人の目を避けることも容易いと言う問題もあるが、凜としては前者の利点の方が大きく感じられた。閑静なこの屋敷に何者かが侵入すれば、人の気配に紛れることがなく、違和感を覚えるだろう。
一通り下屋敷を回って家人と顔を合わせた凜は、御殿に向かいながらそんなことを考えていた。
由羅は途中で飽きたらしく、欠伸をしながら凜の後をついて歩いている。
ふと、曲がり角に差し掛かったところで、凜は足を止めた。
後ろを歩く由羅も同時に足を止めている。
「わっ」
角から勢いよく飛び出してきた少女が、二人に驚いて声を上げた。
小袖にたすき掛けした格好で、小さな背丈には大きすぎる籠を抱えているせいで前があまり見えていなかったのだろう。
驚いた拍子に籠の中の洗濯物を取りこぼしそうになり、凜が手を添えて籠を支える。
「加奈?」
籠の向こうの愛嬌のある顔は、凜の見知ったものだった。
加奈と呼ばれた少女の方も、大きな目を驚きで丸くしている。
「えっ、凜ちゃん?」
「久しぶりです。こんなところでなにを?」
凜の問いに、加奈が苦笑いを浮かべる。
「ほら、わたし剣が駄目で里にいられなかったでしょ」
加奈は十歳まで剣の里にいた凜の同期だ。
里では剣士として見込みがないと判断されたものは、十歳の時に商家などに奉公に出される。加奈もそうして里を出た子どもの一人だった。
「商家で奉公できるほど頭も良くなかったし、神祇府の下働きの仕事を長に紹介してもらったの」
「そうなのですね」
「凜ちゃんは…巫女様の守り手に?」
「ええ。まだ候補ですが」
「そっかぁ。やっぱり凜ちゃんはすごいねぇ」
加奈が目を細めて眩しそうに凜を見る。
「いえ、由羅に勝てねばただの候補なので」
しかし、凜は加奈の目に含まれた感情には気づいた素振りも見せずに、生真面目な答えを返す。
加奈はどこか後ろめたさを含んだ様子で由羅に目を向けた。
「あ、由羅ちゃんも久しぶり…」
「ええ。久しぶり」
由羅の冷たさは、衛士に向けたものと同じだった。関心を失ったものに対する感情のない目。
「しかし、加奈がいたのは幸運でした」
由羅と加奈の間の微妙な空気にも頓着せず、凜は話しを進める。
「え?」
「昔から加奈は目端がききましたから。気になることがあったら、教えてください」
端的に事実を伝えたつもりの凜の言葉を、褒められたと思った加奈の頬がうっすらと赤く染まる。
「うん。凜ちゃんの役に立てるなら、そうするね」
「ええ。お願いします」
生真面目に頭を下げる凜に、加奈が何か言いたげに口をもごもごさせ。
しかし、何か言葉を発するよりも早く、由羅の言葉が遮った。
「凜、もう戻ろう」
「分かりました。加奈、それではまた」
一歩、凜に近づこうとした加奈の動きは、由羅の目に怯えたように止まった。
「うん。またね」
軽く会釈をして凜が加奈の横を通り抜ける。
それに続いた由羅は、すれ違いざまに冷たい一瞥を可奈に投げかけた。
加奈の踏み出しかけた足が、半歩下がる。
それには拘泥せずに、先を歩く凜を足早に追いかけて隣に並ぶ。
剣士らしく歩いても揺れもしない凜の左腕を、由羅が抱えた。
「由羅。歩きにくいですし、いざと言う時に剣が抜けません」
「んー。凜はわたしが守ってあげるから大丈夫だよ」
「私を守ってどうするんですか。守るのは巫女様です」
杓子定規な答えを返しながらも、こと更に拒絶したりはしない凜に、由羅の表情から笑みが溢れた。
「…由羅、里の子は嫌いですか」
何の衒いもなく投げかけられた問いに、由羅の腕が微かに震えた。
凜とて、先ほどの二人の間の微妙な空気に気がつかないわけではなかった。同じ里で育ったのだから、その理由だって知っている。
だからと言って、そこに気を遣って巫女の護衛という任に支障をきたすつもりは、凜にはなかった。
「嫌いなわけじゃないけど。苦手なだけ」
「そうですか」
淡白とも言える返しだけで、それ以上の追求を凜はしなかった。
それが不満だったのか、由羅は腕を抱く力を強める。
年齢にしては発育のいい胸が凜の膝に押し付けられる。柔らかいな、と思うと同時に思い出されたのは、自分の頬に触れて柔らかいと言った陽鞠の指の感触だった。
脈絡のない連想に眉を顰めた凜は、由羅に睨まれていることに気がついた。
「いま、わたし以外のことを考えていたでしょ」
「なんですか、それは」
由羅の目に微かに見えた執着を、凜は見なかったことにした。
由羅の考えの本当のところは、凜には分からない。
里では孤立していた由羅にとって、唯一気の許せる相手なのだと言うことは理解できる。しかし、見え隠れするそれ以上の感情が何なのか、深掘りするつもりは凜にはなかった。
由羅は凜にとって、友人であると同時に最大の好敵手でもある。不器用であることを自認している凜は、由羅のことを深く知って剣が鈍ることを恐れていた。
どちらにせよ、後一年もせずに岐路に立たされる。どちらかが守り手に選ばれれば、共にいることはできなくなるのだ。そうであるなら、不用意に由羅の心に踏み込むべきではないと凜は考えていた。
「凜は本当に罪作りだよね。あの子もだけど、里の子たちは皆んな凜にきゃーきゃー言ってたし」
「里には男子がいないから、その代わりでしかないでしょう」
中性的に整った顔立ちに加え、同世代では由羅に次いで頭一つ抜けた剣の技量を持つ凜は、確かに里の子供からは憧憬の対象となっていた。
同年代と比べると少し背が高かったことも影響しているだろう。
それを下らないとまでは思わないが、一過性の感情でしかなく、取り合う意味はないと凜は考えていた。
「うーん。そうとは限らないと思うけど」
「どちらでもいいです。私には関係ありません」
「守り手になるから?」
「そうです」
凜の返事は強すぎるほどに強かった。まるで、自分に言い聞かせているかのような強さだった。
「守り手になったら、わたしのことも関係なくなるの?」
「…そうです。守り手は巫女にすべてを捧げるのが務めです」
抱えていた腕を離した由羅が、凜の前に回り込んで立ちふさがった。
感情のうかがえない、しかし無関心な人間に向けるのとはまるで違う、どこか蛇のような目で凜を見据える。
「ふぅん。わたしは守り手なんてどうでもいいけど」
その瞬間、凜は自分が由羅の間合いの内にいることに気がついた。いや、気付かされた。
普段、立ち合いの時ですら感じることのない、殺気とも言えるような由羅の剣気を感じた。
じわり、と凜の手汗が滲む。
いま、この瞬間、真剣をもって立ち合えば必ず切られるという確信。
「凜と関係なくなるのは嫌だから。絶対に負けてあげないね」
いっそ優しいとさえ言える由羅の声。
しかし、ひりつくほどに喉が乾いた凜は、声を出すことすら出来なかった。
そんな凜を見て、ふっと気配を緩めた由羅は背を向けてのんびりと歩き始める。
凜はしばらく、その背を追うことすら出来なかった。
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