五
巫女が生活する奥御殿には、決まった時間に配膳と清掃などが行われる以外には、家人の誰も踏み入ることはない。
山祇国の民にとって、巫女とは現人神にも等しい存在。
不浄な人間が巫女と同じ家屋で生活するなど、あまりに畏れ多い行為だった。
本来であれば、正式な守り手ではない凜と由羅が奥御殿で暮らすことも許されることではない。
陽鞠のたっての望みで叶っているに過ぎなかった。
自室に向かって歩く陽鞠の後ろを左右から着いていく凜と由羅。
陽鞠は歩みを緩めて、追い付いてきた二人の間に体を押し込む。
一列に並ぶと、少しだけ背の高い凜の頭だけがひょこりと出っ張る。
「巫女様…?」
そのまま立ち止まった陽鞠に、凜が問いかける。
「朝餉のとき、二人でこそこそ何を話していたんですか」
正面を向いたまま、不機嫌そうに言う陽鞠に、凜と由羅は顔を見合わせる。
「何って…魚の話?」
「まあ、魚の話ですね」
陽鞠は二人を交互に見て、不思議そうな顔をする。
「お魚、ですか」
「ええ。魚は熱々の方が美味しいとか、そんな感じです」
「あつあつ…」
何か信じられないことを聞いたように、陽鞠はぽかんと口を開ける。
その口に何か温かい料理を放り込んでやりたいと凜は思い、そんな自分の心の動きを不可解に感じる。
庇護欲にも似た衝動。これも巫女の力なのだろうかと、凜は内心で首を傾げる。
「食べたことがありません…」
「一度もですか?」
そんなことがあるのだろうか、と凜は思う。
保護者のいないこの屋敷では毒見の必要があっても、親である大公のもとでは信頼の出来る料理人の食事が供されるのではないだろうか。
口の中を火傷するような焼きたてはともかくとして、温かい食事すらしたことがないというのはどういうことだろう。
「はい。温かい料理は美味しいのですか?」
「ええ。と言うよりは、冷めたら美味しくなくなります」
「そうなのですか…」
陽鞠の目が、わずかに伏せられる。
その幼くも美しい横顔に、凜は微かに陰を見た。
凜がその顔を覗き込もうとすると、それよりも早く陽鞠は顔を上げる。顔を上げた時には、そこに先ほど見た陰はなかった。
いつもの柔和な笑みだけが残っている。
「いつか、一緒に食べましょうね」
守り手になれば、そんな機会もあるだろうか。そう考えて、そのためには守り手にならなければと凜は思う。
思って、それは無駄な感情だと気が付く。守り手が巫女に個人的な感情をもつことは害悪でしかない。
剣の里で凜はそのように教えられていた。
山祇国において、巫女とは現人神にも等しい不可侵の存在。もし、巫女が政治的な野心を持っても掣肘することは難しい。
剣の里ができる前は守り手が巫女に対する影響力を悪用して、専横することが少なからずあった。それは必ずしも、権力欲などの自分の欲望を叶えるためのものだとは限らない。
巫女の生涯はけして安穏としたものではない。
巫女はその力を失うまでの大半を、穢れを清めるために山祇国を旅して回ることになる。
それには、巫女を権力の近くに置いておきたくないという為政者の意思も介在している。
日常は日常で、大陸の諸外国から暗殺される危険が付きまとう。
巫女を殺しても新しい巫女が生まれるだけだが、新しい巫女は幼い。すぐに穢れに対処できるわけではない。穢れを溢れさせて国を乱そうと画策されることは少なくなかった。
巫女との絆が強くなるほどに、守り手はその立場を理不尽に感じる。そして、権力を手にすることで巫女の立場を守ろうとする。
だからこそ、守り手は権力を志向し難い女がなることが定められていた。
陽鞠と出会いわずか一日だが、凜にもそれが納得できた。それほどまでに巫女が持つ引力は強かった。
まだ守り手でもないのに、これだけの庇護欲を感じるなら、守り手が巫女に抱く絆とはどれほどのものなのか。
それが男女であるなら間違いなく愛情、もしくは愛情と錯覚するものになるのではないだろうか。
それは、自身の心を捻じ曲げられるのではないかと言う怖れを凜に感じさせるものであった。
そう考えれば、陽鞠を頑なに見ようとせずに去っていった衛士たちのことも、少しは理解できる。
陽鞠の部屋の前で三人は立ち止まる。
襖の引き手に指をかけて、陽鞠が目だけを凜たちの方に向けた。
「少し、お話ししていきますか?」
ねだるような目に凜は微かに心が揺らぐが、流されるわけにはいかない。
「いえ、屋敷の間取りの確認や、家人の把握などしなければいけませんので」
侵入経路や逃走経路。家人の顔や為人など護衛として知っておかなければならないことは多い。衛士たちがいなくなった以上、それは喫緊の課題だ。
もし巫女に危害を加えようとするものがいるなら、護衛が切り替わるこの時期を逃すとは思えない。可能性としては高いとは思えないが、だからと言って先送りにしていいものではなかった。
「えー、お喋りしていこうよ」
「由羅、護衛の変更は襲撃者にとって好機です。今が最も警戒しないといけない時期でしょう」
「巫女様を襲う人なんているかなぁ」
「大公家の政敵や大陸の工作員など、低くとも可能性はいくらでもあるでしょう」
「凜は心配性だなぁ」
「貴女が能天気すぎるのです」
由羅の暢気な様子に、凜は呆れる。
もともと由羅には熱意を感じなかったが、それにしてもやる気がなさすぎる。どんな状況でも対処できてしまう天才性がためだろうか。
「そういうわけですので、失礼させて、」
凜が陽鞠に向き直って言い終えるよりも早く、襖がぴしゃりと閉じられて部屋の中に陽鞠の姿は消えていた。
言葉を失って由羅の方を見ると、大げさに肩をすくめられた。
「あーあ。怒らせちゃった」
「う…」
言葉に詰まった凜が目を逸らす。
「なんからしくないなぁ。凜はさ、襲撃とかあると思っているの?」
「…先ほども言った通り可能性としては低いでしょう。ですが、無視していいものではありません」
「それだけー?」
凜の目が、陽鞠の消えた襖に向けられた。
その目には微かな不安が揺れていた。
「…由羅は巫女様をどう思いますか」
「んー? 意外と気さくだし、可愛いよね」
「いえ、そうなのですが。そうではなく、心が奪われるというか、強制的にこの人を守らないといけないと思わされているような、そんな感じがします」
「ふーん、わたしは感じないけど。山祇の血がそうさせるのかな」
由羅の言葉に、はっとしたように凜はその顔を見る。
薄茶色の髪と碧の瞳。山祇の民とは違う彫りの深い顔立ち。もう長年一緒にいる凜は気にしていなかったが、明らかに大陸の血が濃い。
単一民族である山祇国では由羅はあまりにも悪目立ちする。里でも浮いた存在であったのは間違いがない。
「済みません…」
「なにが?」
屈託なく首を傾げる由羅の笑顔が、韜晦なのか本心なのか凜には分からなかったが、それ以上触れることは憚られた。
「それってさー、たんに凜が一目ぼれしたのとは違うの?」
「はぁ? 何をわけのわからないことを」
男であればそういう可能性もあっただろうが、女である自分に何を言っているのかと凜は胡乱な目を由羅に向ける。
そういう関係になることを忌避されたからこそ、守り手は女がなる決まりになっているというのに。
「ふぅん。ま、わからないならいいけど」
どこか冷たい声で言い放つと、由羅はやや乱暴な動きで踵を返す。
まるで理解のできない凜は首を傾げるしかなかった。
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