陽鞠が向かった先、内庭を挟んで御殿の裏側の座敷に凜と由羅は入る。

 広い座敷の上座に行儀よく陽鞠が座っていた。家人の目に入るところでは、陽鞠も巫女の態度を崩すことはない。

 凜や由羅の場所からは見えないが、衛士が控えていることが二人には気配で分かった。

 気配というのは、超自然的な感覚ではない。五感が認識できない音。匂い。影。空気の流れ。そういった些細な違和感のことだ。


 陽鞠の前と、離れた位置に膳が用意されている。

 黒漆の立派な膳の前に座り、凜は横目で陽葵を見る。

 すまし顔で座る陽鞠に、昨日、三人で話した時の年相応に無邪気な様子はまったくうかがえなかった。

 普通に話しては声も聞き取れないような距離。これが本来の正しい距離のはずなのに、昨日の印象との違いに凛は戸惑いを感じてしまう。


「いただきましょう」


 陽鞠の声は、大きくもないのによく通った。

 箸を手に取って食事を始める陽鞠を観察しながら、凜も食事に手を付ける。

 会話もなく、黙々と進む食事。陽鞠が口を噤むと、人気の少ない御殿が無人であるかのように静まり返る。

 箸が漆器に当たる小さな音だけが響く。その音を立てているのは凜と由羅だけで、陽鞠は品よくまったく音を立てない。

 自分たちが来る前は、この広く静かな座敷で一人で食事をしていたのかと凜は思う。


「凜、尾頭付きだよ、贅沢だね」


 静寂を無視して、魚を箸でつつきながら由羅が凜に話しかける。

 魚をつつくのは別だが、陽鞠ほどではないにしても、二人とも食事の作法は丁寧で行儀がいい。貴人に仕えることを目的として教育される里の子どもは、恥ずかしくない程度の行儀作法も身につけさせられるからだ。

 この場合の由羅の言う尾頭付きとは、干物ではない旬の鮮魚をそのまま調理しているという意味だ。川も湖も近かった剣の里では自分たちで獲っていたので珍しいものでもなかったが、都会で鮮魚は輸送の問題などから港町でもない限り高級食材となる。


「まあ、大公家の朝餉としては質素なものではないでしょうか」


 小声でこたえる凜の言う通り、食材こそ高級だが、贅を尽くしているというほどではない。量的にも食べきっても満腹にはならない程度に抑えられている。


「でも、味は冷めちゃってもったいないね。川で獲った魚そのまま焼いて食べたほうが美味しくて微妙」

「毒見の必要などがあるから仕方ないでしょう」


 そう言う凜も、内心では由羅に同意だった。

 獲った魚をその場で塩だけかけて焼いて食べたほうが、味は雑でも美味しかった。

 きっと口の中を火傷するような熱いものを食べたことなど巫女はないだろう。そう思いながら凜が陽鞠を見ると、恨めしそうな目で見られていることに気が付いた。

 凜の方を見ている由羅は気が付いていない。

 凜が首を傾げてみせると、声を出さずにゆっくりと唇を動かす。


『ず・る・い・わ・た・く・し・も・ま・ぜ・て』


 唇を読んで、凜は思わず吹き出しそうになった。慌てて掌で口を抑える。

 陽鞠を責めるように見るが、陽鞠はすまし顔で食事を続けている。


「凜、どうかした?」

「いえ、なんでもありません…」


 怪訝な顔をする由羅に首を振って、凜は食事を再開する。

 凜がもう一度、陽鞠の方を見ると、目が合って今度は微笑みかけられた。

 反射的に目を逸らしてしまい、凜は自分の胸に手を当てる。目を逸らす必要など、なかったはずだ。


 三人が食事を終えて、膳が片付けられるのを見計らって、陽鞠の前に姿を見せた二人の衛士がひれ伏す。

 昨日、凜たちが拝謁した際に姿を見せた腕利きたちであった。


「巫女様。守り手の候補が着任された故、我らはお館様の命に従い州都に戻ります」

「はい。今までご苦労様でした」


 感情の籠らない淡々としたやり取りだった。告げられた巫女にも驚きや感傷はない。

 困惑したのは、むしろ凜の方であった。

 屋敷には、この二人以外に武辺ものの気配は感じられない。

 それ自体にも疑問を覚えるが、より実際的な問題があった。


「お待ちください」


 思わず、と言った様子で凜が声をあげる。

 衛士たちは陽鞠に頭を下げたまま、動かない。


「我らは巫女様の守りについて何の説明も受けておりません」

「委細、お主らに任せる」

「何と?」


 理解できずに凜の眉が顰められた。


「任せると申した。そのようにお館様の命を受けておる」


 お館様と言うのは夕月大公のことだろうと、凜は考える。実の父親が娘の身辺に対して、あまりにも冷たいように思えた。


「そのような世迷言を。巫女様の身を何と考えられておられる」

「巫女様の尊さを心得ていればこそ。本来であれば我らなどがお傍に侍ることは許されぬ。そのための守り手ぞ」

「そのようなことは理解している。屋敷の勝手や家人の為人ひととなりなど、言うべきことはあるであろう」

「巫女様の言に従え」


 彼らは陽鞠を視界に入れないようにしていた。

 それは巫女を崇めているからであるが、その姿を目に入れることで心が囚われることを畏れているようにも見えた。

 それが、凜には不愉快に感じられた。


「凜。もういいでしょ。何を言っても無駄よ」


 尚も言い募ろうとする凜を、由羅の言葉が止めた。

 由羅の声は、凜と二人で話す時とは違い、凍りつくような冷たさだった。


「凜様。このものたちにはこのものたちの務めがございます。どうかお気を悪くされないでください」

「は。差し出たことを申し上げました」


 陽鞠が巫女としての立場と言葉で言うのなら、凜も弁えるしかない。

 そういう関係であるべきだと言ったのは、凜自身なのだから。


 顔を上げずにその場を辞す、名も知らぬ二人の衛士を横目で凜は睨みつける。

 主君の命に従うのが衛士の忠道ではあるが、か弱き子女を守ることもまた衛士の義道ではないのか。凜には二人が陽鞠から逃げたように見えた。


 二人が去ってもまだその影に険しい目を向ける凜の背を、由羅が優しく叩く。


「ほら、凜。怖い顔しないで」


 背を叩いた手が、そのまま労わるように撫でる。

 感情を吐き出すように、凜は長く息を吐く。それから、もう大丈夫だと言うように無言で由羅の肩を掌で軽く叩いた。


「巫女様、不調法をいたしました」

「いえ、気遣いをさせて申し訳ありません」


 その言葉にも、言葉通りに申し訳なさそうな顔にも、凜は忸怩たるものをおぼえる。

 自分の浅慮が、巫女に気を遣わせたのなら、守り手としては失格と言うしかない。

 普段は不真面目な態度でも、こういう時に冷静で、ある意味で冷徹な由羅こそが守り手には相応しいのではないかと、凜は思ってしまう。


 思考が負の方向に傾くのを、凜は静かに息を吐いて止める。

 自分が未熟なのも、凡庸であることも、分かっていたことだ。嘆いたところで意味はない。

 精進するしかない、と凜は気持ちを切り替える。


 自分の思考に沈んでいた凜は気付いていなかった。

 陽鞠が瞬きもせずに自分のことを見ていることに。

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