山祇国やまつみこくは東大陸と西大陸を隔てる竜頷りょうがん海峡に横たわる群青諸島に古くから根差す島国だ。

 万世一系のすめらぎを拝し、主たる四島を大公家が統べ、朝廷が政を取り仕切る。

 海洋の要衝として栄える一方で、古来より東西の大陸から侵攻を受けてきたが、これを全て撃退してきた。同時に、一千年を超える歴史の中で、一度たりとも島の外に侵攻したことがない。

 もっともそれは、高尚な理由などではなく、現在の体制が出来上がるまでに内乱と防衛を繰り返していただけのことではあるが。


 九年ほど前に、先代の巫女が病死し、夕月大公の一人娘が五歳にして巫女として覚醒した。


 夕月ゆづき大公家は山祇国の由緒正しい地下ぢげ貴族だ。

 遡れば親王の血筋に当たり、西白州を代々統べてきた。

 西白州は皇都とその周辺の直轄地を囲む形であるため、皇都の守りとしての色も濃い。

 夕月大公は土地を持たず皇都で政に携わる官僚組織である朝廷貴族ではないが、最高意思決定機関である太政府だじょうふの構成員である参議でもあるため、皇都にも屋敷がある。


 大公やその子息は普段、領政のために州都にいるため、皇都の別邸には最低限の家臣しかいないが、それでも人手が足りていないということはない。

 しかし、巫女の世話に夕月家から人が派遣されている様子はなかった。下屋敷にいる家人もわずかで、ほとんどが祭祀を司る神祇府じんぎふで雑事を担うものたちだ。

 広い屋敷に人の気配は少なく、どこか物悲しい雰囲気があった。


 巫女に連れられて、凜と由羅の二人は屋敷の奥に通される。

 華陽はすでに里に帰った。

 三人は奥御殿の最奥にある、巫女の寝所に集まっていた。

 凜は部屋を見回して違和感を覚える。十二畳間の広さに最低限の家具以外には何も置かれておらず、生活感に乏しい。

 勿論、巫女の世話は家中のものが行っているのだろうから、庶民のように生活道具を部屋に揃える必要はないとは思うが、それにしても物が少ないと凜は感じた。


 巫女は部屋の隅から手ずから座布団を持ってきて、いそいそと並べる。

 上座も下座もなく、手を伸ばせば届くほどの近さで。


「どうぞ。お座りになってください。あ、楽になさって」


 そう言って、巫女は率先して座布団に座る。

 言葉通り、自分も割座で楽に座っている。由羅はそれに倣って胡坐で座るが、凜は行儀よく正座をした。


「私、同年代の方と話すの初めてなんです。ですから、今日はすごく楽しみだったんですよ」


 そわそわとした様子で、身を乗り出して巫女は話し始める。


「申し遅れましたが、夕月陽鞠ひまりと申します。陽鞠とお呼びください」

「由羅です。よろしくね、陽鞠様」


 明るく言う由羅を、軽く肘で突いて凜が牽制する。


「由羅、気安いですよ。あらためて、凜と申します、巫女様」

「陽鞠」

「…はい?」

「陽鞠と呼んでください」

「いえ、巫女様をお名前で呼ぶことなどできません」


 また、と由羅は呆れた目を凜に向け、陽鞠と名乗った巫女は悔し気な顔をする。


「由羅様、やはり私、凜様に嫌われているのでは?」

「いえ、凜は頭が固いだけなんです」

「分をわきまえているだけです」


 しれっと言うが、家臣が貴人を名で呼ぶのは無礼でも何でもないので、凛が頑ななだけだ。

 名を呼ぶと言うことは、一個人として認識することだと凜は考える。守り手は巫女と言う役割に仕えるもので、個人的な感情を持つことは悪影響しかない。


「絶対に仲良くなってもらいますから」

「巫女様は、なぜ守り手が歳の近い女しかなれないかご存知でしょうに」


 凜がため息をついて言う。

 陽鞠はその言葉に真剣な顔で答えた。


「守り手が巫女を操って政治的な影響力を持たないように、ですね」

「はい。要職に就けず、歳の差から精神的な上位に立ちにくい同世代の女であれば、巫女様を利用する可能性は低いですから」

「それは、それくらい巫女と守り手の絆が強くなるからこそ、です」

「だからこそ、守り手は巫女様に一線を引かなければいけません」


 凜の頑なな正論に、陽鞠は唇を噛む。


「凜様のお考えは分かりました。正式な守り手としてどちらかを選ぶまでは、護衛として雇う契約になっています」

「守り手を選ぶのに、期日などはあるのでしょうか」

「巫女の務めは十五歳の成人を迎えてからになります。新年の祭祀でのお披露目には、守り手も立ち合っていただきます」

「巫女様は御年十四とうかがっております。では、九か月以内には決められるということですね」

「はい。おっしゃる通りです」

「成人までの間に生じた穢れはどうするのでしょうか」

「どうもしません。成人して正式な巫女になってから祓いに行きます」

「なるほど、理解しました」


「二人とも話しが固いよっ」


 ひりついた雰囲気を破ったのは、由羅の明るい声だった。

 由羅が身を乗り出す。


「ねぇ、わたしたちってこのお屋敷に住んでいいの?」

「勿論です。私の護衛なのですから、この部屋の隣に住んでもらいます」


 陽鞠が言うと、由羅は掌を合わせて顔を輝かせる。

 そのまま凜の腕をつかんで引っ張った。


「わぁ。凜、ここに住めるって」

「巫女様がおっしゃる通り、護衛なのだから当然でしょう。何をそんなに喜んでいるのですか」

「えぇ、こんなお屋敷に住めるんだよ。里の長屋から解放されるんだよ?」

「寝るだけなら十分だったと思いますが」

「凜にはゆとりと言うものが足りないよ」

「それは守り手に必要なのですか?」

「必要だよぉ。そんなだから凜の剣には遊びがないんだよ」

「それこそ必要ないでしょう」

「そういうことはわたしに勝ってから言ったら?」

「ぐっ」


 軽口を叩きあう二人を、陽鞠は疎外感をおぼえて交互に顔を見る。


「お二人は仲良しなんですね」

「もちろん! 幼馴染だから」

「幼馴染と言うなら、里のものは皆そうなのでは」

「凜つめたーい」


 由羅に拳で腕を押されて、煩わし気にそれを凜が払う。と見えたが、由羅の拳はするりと躱して、今度はぐいと頬を押した。

 凜の眉根が寄るが、言っても無駄と無視を決め込む。


「柔らかそうですね…」


 陽鞠の手が伸びて、反対側から凜の頬を指でつついた。


「やわらかい…」


 何度か凜の頬をつついてから、二人から無言で見られているのに気が付いて、陽鞠の顔が真っ赤に染まった。

 慌てて離すその指を由羅はじっと目で追い、凜はつつかれた頬を自分の手で触れた。


「あ、あの、失礼しました」

「いえ、お気になさらず…」


 凜は巫女に触れられた頬を掌でこねる。何だか頬が熱いような感じがして、気になってしまった。

 恥ずかしそうに顔を伏せられてしまうと、こちらの方が恥ずかしいと凜は思う。


 陽鞠は俯いたまま、凜の頬に触れた指を弄っていた。自分がなぜそんなことをしたのか分からなかった。

 柔らかそうだと思ったから触れた。二人に混ざりたいと言う欲求もあっただろう。

 しかし、巫女として育てられた陽鞠にとって、欲求のままに子どもじみたことをしてしまったのが信じられなかった。


 頬をこねる凜の様子を上目遣いに窺う。この子が悪い、と陽鞠は思う。

 幼少の砌から聡かった陽鞠は、自分が人の人生を捻じ曲げることのできる力があることを理解していた。

 自分が望めば叶ってしまう。それは陽鞠にとって、とても怖しいことに思えた。 

 だから、欲を見せないように大人びて振る舞うことが身に染みていた。


 二人に仲良くなってほしいと言ったのは、陽鞠には大きな勇気がいることだった。仲良くしろと強制されていると思われるかもしれない。

 それを、一蹴された。自分の言葉に誰もが従うなんて考えが傲慢だと言われた気分だった。傲慢にならないように戒めたことが、その考え自体が傲慢だと言われたようで反発した。

 陽鞠にとって、凜はあまりにも不可解な人間だった。

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