靴下

靴下を舐める

 僕の心は今、引き裂かれている。雷が空を二分するような、鋭く速い何かが、僕の肋骨の間を通過しているようだ。どこまでも終わらないとでも言うように、電撃が、引き裂きながら僕を痛めつけていく。

 仰向けに寝転がって、目の前には妹がいた。つまるところ、妹が嬉しそうに、僕の靴下を舐め回して、唾液の温い感覚を足の先に伝えていたのだった。舌のざらざらした感覚が和らいで、まるでかたつむりが少しだけ速く這っているような、気色の悪い触覚が、親指の裏にまとわりつく。こんなに気持ちの悪い思いをするなら、いっそ本当に、かたつむりが靴下の上に這っていた方が、大分ましなのかもしれなかった。もちろん、逃げようとはした。何度もそれを断ってきたし、避けようともしてきた。しかし、どれだけ逃げ回ろうと、妹は正にかたつむり同然の様子で、粘り強く追いかけてきた。もはやこちらも息切れだった。「家族」や「友人」や、はたまた「愛玩犬」までもを利用して、そこまでして、妹が僕の靴下を舐めようとするとは、思ってもいなかった。自尊心やら羞恥心やら、道徳心、生理的な嫌悪までも、まとめてずたずたに引き裂かれていく。にきびを剃刀で切り落とされたような、それでいて、白紙を素手で破かれていくような、衝撃であり悲痛。妹という存在が、突然「特殊嗜好」になる絶望。手段の非道さやその過程の失望が、全て薄められて、ただ哀しみとなる。そして、ひと舐めひと舐めが稲妻のようになった。唾液の質感が靴下の黒を濃く塗り替え、次いで僕の頭を突き刺す。この繰り返しが、僕を倫理的な心得から、粘り気とうす気味悪さの地獄に、引き摺り込もうとする。妹は僕にそっくりの細く吊り上がった目を、その上部に黒い瞳を陥れて、僕を見上げて笑っていた。靴下がやがて真っ黒に湿って、境が分からないように変化していく。何度も何度も、犬のように執拗に舐め回す。しばらくして、止まったかと思えば、口腔に溜め込んでいた唾液の塊を、透明なチョコレート・フォンデュのように、だらしなく流し込んでいくのみであった。辛く辛く、もう耐え難い苦痛だった。

 二時間が経って、もはや舌のか細い針たちも限界を迎えようという時に、ようやく妹は舐め回すのをやめた。そして、腐ったような臭いが僕の鼻からでも分かる靴下を、それがべとりとくっついたくるぶしの溝を細い人差し指でこじ開けながら、ぬーっと抜いていった。癒着した布が唾液の粘性で滑らかに擦れながら、かかと、足裏の出っ張り、親指と小指などに少し突っかかりつつ、ゆっくりと、自然なように外れた。

 そして、僕はその後の光景に、ついに発狂した。妹は僕の狂気に少し戸惑いつつも、それを続けていた。嫌悪感の絶頂を迎えたために、喉からむかでが這いずって出るように、朝の味噌汁と白米の残骸を吐き出しながら、絶叫した。妹は、自身の強烈な唾液が染み込んだ、汚物に塗れた餅巾着のようなそれを、口に頬張っていた。そして、覚悟を決めたように鼻で一息ついて、それを喉に押し込むのを、上顎を極端に開いて僕に見せつけた。喉に僕の靴下を押し込んでいく妹と、吐きながら、発狂する僕。健全と不健全が、異常と効率の元に交錯して、逆転現象に、一瞬だけ正義と悪が揺れた。

 発狂した僕は、狂気を発したと言っても、しかし、それで何かしようというわけではなかった……結局、何かしようとしても、できなかったのだが……諦めと、単なる小市民ゆえの甘さが、妹の異食であり偏食であり、それゆえ特殊性癖を、許してしまった。それは以前も、発狂した後も、同じことだった。僕はただ、大声を小部屋の四方に飛ばして、喉奥の消化物を唇の狭間から流し出して、狂いそうな気を、文字通り発散していただけだった。妹は未だ、小さな喉をごくりごくりと鳴らしながら、靴下を飲み込み続けていた。時々、掠れたような咳が喉にごく僅かに鳴らされ、その度に涙を流しながら、更に勢いを強めてそれを押し込んでいく妹の姿には、どこか悲しさがあったが、その程度しか、逆に言えば知ることができなかった。かへかへかへと、最後の方では、さぎやペリカンのようにそれを飲み込んでいた。生きるために、それが必要であるかのように……。

 僕も実のところ、発狂することをやめられずにいた。それは義務的になっていた。心情にはもはやできることなどなく、確かで穏やかな、無心に限りなく近い絶望があるだけだった。目は虚に、妹の喉に突っ込まれていく靴下を、まるで長い間コカ・コーラを口に含み続けていて、時折喉に流し込んでいるかのように感じながら見ていた。義務的な発狂と義務的な非行が、その中にシンクロニシティを引き起こしていた。

 最後に一飲みして、妹が赤く腫れた目元と共に醜悪な笑顔をこちらに晒した時、僕は、発狂する気さえ失っていた。

「どう」

 喉にまだ残る靴下の、ほんのり湿った気配を感じさせながら、妹が僕に問いかける。満足げに、事足りたように、興奮が冷めやらぬように、達成感に沈んで……どんな言葉でも形容できない不気味な笑みを浮かべて、妹は、押し黙っていた。僕は硬直して、べたついた感覚がもはやコーティングされて、涼しくなった右足の親指と人差し指だけを、意味もなく擦り付け合っていた。清々しいほどの沈黙と、小さな危機感とが、部屋に、どこまでも広がり続けていた。

 その後目を覚ましてからも、意識は曖昧で、そこから二十歳になるその日までの記憶が、全く具体的でない。そもそも、それ以前も、僕は確かに生きていたのか分からない。妹に靴下を舐められて、塗れた親指と人差し指の擦れながら永遠に過ぎゆくような時間の流れが、今でもたまに頭をよぎる。僕は東京で、妹は鹿児島にいる。たまに電話をすると、あのことはすっかりなかったかのような妹の態度が、僕の耳に伝わる。だから最近は、それが夢か、あるいは一時的な巡り合わせだったのだと思うようにしていた。しかし、『どう』という二音節が聞こえる度、やはりそれは現実のものだったのだと思い出される。トラウマのように、それだけが心の奥に、深く刻まれていた。亀裂が肋骨の中に疼くのを癒すこともできず、僕は息をするのにも詰まって、電話を一度中断させてしまう。そんなことがよくあった。布団に入り仰向けになると、妹の唾液の臭いが、未だに漂っている気がする。

 目を閉じて、一人「被害者の会」を終わらせた。落ち着かないままで、明日に備えていると、耳元から、『どう』が連鎖して、反響するのが聞こえる。

「どう……どう……どうどう…どうどうどう、どうどうどうどう……」

 日が登っていた。今日もどうやら、眠れなかったらしい。僕はあの時と同じように、仰向けから動くことができなかった。

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靴下 @elfdiskida

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