第2話 実在した竜
ここは単純かつストレートに、フォーリアは霧の中を突っ込んで行くことに決めた。
たぶん、そばに友人達がいれば止めただろうが、今はフォーリア一人。ロック鳥は「好きにすれば?」という顔で、止める様子もない。
「何かあったらまた呼ぶわ。その時はお願いね」
フォーリアは気楽に言うと、ロック鳥を解放した。
「さてと」
ロック鳥を見送ると、フォーリアは霧の立ちこめる方に向き直る。
「あたしは、パドラバにいる竜の様子を見に来ました。何も悪いことはしません。中へ入れてください」
ペコリと一礼し、フォーリアは霧の中を進み始めた。
竜がいるのなら、この辺りは竜の
挨拶をすれば入ってもいい、とは限らないが、これはフォーリアの気持ちの問題だ。
パドラバの島を囲むこの霧は、竜を人間の目から遠ざけるためにあるらしい、などと言われる。
過去にこうして中へ入ろうとした人が何人もいたが、進んでいるうちにいつの間にか元の場所へ戻ってしまうのだ。竜の聖域と呼ばれ、どの属性の攻撃魔法も効かず、この島をめぐる謎の一つとなっている。
こういった状況のため「竜はいない派」は、竜が人間に見付かったところで大した問題はないはず、戻ってしまうのはここに魔物がいるからだ、と言う。
対して「竜はいる派」は、様々な力を司る竜との面会が簡単にできるようになれば、人間はすぐにあれこれと要求をするようになるから隠れているんだ、と言う。
この霧を魔物が出しているのなら、迷って出て来られなくするくらいはやるだろうが、竜はそんなことはしないのだ、と。
誰の仕業にしろ、霧の中へ入っても戻れるのなら、道に迷ってのたれ死になんてしない、ということになる。
その点に関しては安心なので、魔法使いになってまだ一年未満のフォーリアでも、こうして堂々と入って行けるのだ。この情報が間違いだったら、なんてことは考えない。
一応、何かにいきなり攻撃されても多少は大丈夫なように、フォーリアは自分の周りに結界を張っておく。
簡単に破られるかも知れないが、完全な丸腰よりはずっといいはず。ほとんど気休めだが、それで十分だ。
ミルクを流したような深い霧の中、伸ばした自分の指先さえも見えない。下を向いても腰から先が隠され、地面どころか今はいている靴の形もわからなかった。
しかし、思っていたより歩きやすい。なだらかな地面らしく、小石を踏む感触は何度もあったが、つまづく程ではなかった。
街の中の舗装された道、とまではいかなくても、踏み固められた道のような感じだ。穴などもなく、足を踏み入れて転びかける、ということもない。
フォーリアは、小さなくしゃみを二回した。来る途中の雨で服が濡れていたことと、霧の中を歩いて少し身体が冷えたようだ。
フォーリアは自分の周囲に暖かい風を起こし、服の水分を飛ばした。まだ少し生乾きな部分もあるが、さっきまでと比べればずっと快適になる。
この魔法が攻撃に分類されなくて、助かった。そうでなければ魔法が効かず、フォーリアの服は濡れたままになってしまう。
「んー、それにしても、どこまで歩けばいいのかなぁ」
霧の中を歩いてもすぐに戻される、という話は知っている。だからここへ来たのだが、本当にそうなるのならさっさとしてもらいたい。延々歩いて戻されたりしたら……ちょっと悔しいし、疲れる。
今のところ、こうして歩いているということは、先へ進めているのだろうか。
何せ景色が変わらないので、先へ進めているのかどうかも怪しい。実は同じ場所で足踏み、なんて一番悲しいパターンだ。
「誰かいませんかー」
思い切り叫ぶのは少しはばかられたので、普通に会話する程度の音量でフォーリアは声を出してみた。しかし、返事はない。
考えてみれば、霧の外にも人は誰もいなかった。
このおかしな天候の理由を調べに、パドラバへ来ている魔法使いがいると思っていたのだが……人影は全くなかったような気がする。
周囲を見て回った訳ではないので絶対にいなかったとは言えないが、本当にちゃんと調べているのだろうか。
「元に戻される時は、いきなり霧の外、だったりするのかなぁ……。入った場所に何か目印になる物でも置いてくればよかった」
フォーリアが一人ごちる。どこまで行けば、と思った途端に霧が急に薄れてきたのだ。
元に戻されるという話をとうとう体験か、なんて思ったりもしたのだが、様子が少し違う。
ロック鳥から降りた場所は、目の前に霧が立ちこめる草原のような場所。早い話が周囲に何もない場所だった。
しかし、フォーリアは今、知らない森の中を歩いている。
「……パドラバの島の近くに、森なんてあったっけ?」
いや、ない、と自答する。
フォーリアが知るパロア大陸は、ほぼ円形の大地。中央には霧に閉ざされたパドラバの島があり、それを囲むように草原が広がる。
その草原からさらに離れた場所に、人間の住む場所、つまり国があるのだ。
パドラバを背にした状態で見れば、草原の向こうに森があったり山や川があったりするが、少なくとも「パドラバの近く」にはないはず。
霧の中を歩いていたのに、大きな街一つ分程の距離があるだろう草原を越え、森の中へ迷い込むなんてありえない。
だいたい、霧の中から放り出されるとしても「元の場所」へではなかったのか。異常気象と同じで、この点でも異常になっているのだろうか。
あれこれ考えながら歩いていたフォーリアだが、ここは素直に考えることにした。
「パドラバって、島じゃなくて森だったんだわ」
どういう具合でか霧を抜け、パドラバの島と呼ばれるエリアの中へ入ったのだ。
大陸の中でありながら人間の住む場所から遠く、完全に孤立した場所であるために島と呼ばれるようになった、と聞いたことがある。
島なら川などに隔てられているのか、などと想像していたが、現実はちゃんと陸続きだったようだ。
あの霧に囲まれているせいでパドラバは陸の孤島のようになり、そこから島と呼ばれるようになったのかも知れない。
初めて来た場所とは言え、森の中の方が霧の中を歩くよりずっと安心できる。
少なくとも前が見える、というのがいい。手を伸ばせば自分の指先が見えるし、下を向けば自分の足や地面がちゃんと見えた。
もしかすると、この先は人間が足を踏み入れたことのない場所かも知れない。
だが、フォーリアにとっては、周囲がちゃんと目に見える、という安心感で、緊張どころか開放的な気分である。
ちょっとスキップになりかけている歩調で進むと、開けた場所へ出た。周囲の木々の枝が上方で絡まり合い、アーチになっている。
その下は街の噴水公園のように広い空間で、ここには噴水の代わりに……竜が眠っていた。
くすんだ黒い身体。軽く丸まった状態だが、とぐろを巻くとまではいかない。まっすぐに伸びれば、馬を縦に三十頭並べてもそれをさらに軽く越えそうだ。
前脚と表現するべきだろうか、その手の先には鋭い爪が見える。フォーリアの正面に見える竜の横顔に牙はのぞいていないが、口が開かれればずらりと並んでいるのだろうか。
その目は閉じられ、フォーリアがこうしてこの場に現れても、まぶたが持ち上げられる様子はない。
死んでいるのではないようだし、作り物でもない。眠っている……のだろうか。
「やっぱりいたんだわ……」
その姿を見て、フォーリアは思わずそうつぶやいていた。
世間ではパドラバに竜がいるだのいないだの、みんながみんな知ったような口ぶりであれこれ言い合っていたが、現実は「いる派」の勝利だ。
フォーリアはいると信じて疑わなかったので、竜がいたことに驚くより、本当に会えて嬉しい、という気持ちの方が勝っている。
しばらくは初めて見る竜の姿に見とれ、その場に立ち尽くしていた。しかし、竜はいつまで経っても目を覚ます気配がない。
やはり何かあって具合が悪くなり、寝込んでいるのだろうか。それでおかしな天気がずっと続くようになり……。
少し近付いてみようとフォーリアが踏み出そうとした時、自分のものではない足音が耳に入った。
え? と思ったものの、どこを見ていいのかわからない。音は数カ所から同時に聞こえたのだ。
視界の両端に、人影のようなものが映った。パドラバを調査している魔法使いだろうか。
「誰?」
フォーリアが聞くより先に、誰かが尋ねた。
竜の身体の向こうにいるらしく、姿は見えないが女の子の声だ。たぶん、フォーリアと同世代だろう。
「そっちこそ、誰だよ」
これまたフォーリアが答えるより先に、誰かが言い返す。
「ぼくは、グリーネのセルロレック」
三つ目に聞えた声が、最初に名乗った。声はフォーリアの右側から現れた背の高い少年のものだ。
薄い金色の短い髪に緑の瞳の、優しそうな面立ちをしている。フォーリアより二つか三つくらい上、だろうか。
グリーネは、北にある国だ。人に会えたと思ったら、まさか別の国の人だとは思わなかった。
「俺は、キュバスのレラートだ」
今度は、フォーリアの左側から現れた少年が名乗る。
彼も背が高い。黒の短い髪に、黒い瞳。肌も浅黒く、精悍な顔つきだ。彼もフォーリアより年上だろう。
キュバスは南にある国だ。
「私は……ディージュのサーニャ」
最初に
竜の身体の向こう側で見えなかった人物は、セルロレックと名乗った少年の方へ少し移動したらしい。フォーリアにも、やっとその姿が見えた。
思った通り、フォーリアと変わらないくらいの女の子だ。
胸まである青みがかった銀色の髪は緩やかに波打ち、彼女の整った顔を縁取っている。瞳はきれいな紫。
ディージュは西の国だ。
三人の視線がこちらへ向けられ、フォーリアは自分がまだ名乗ってないことに気付く。
「あ……えっと、あたしはゼンドリンのフォーリア」
言いながら、フォーリアは現れた三人の顔をもう一度見回した。
二人の少年は、他に誰もいないか周囲を確認している。サーニャは目の前の三人に少し警戒しているようだが、恐れているといった様子ではない。
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