4-4 あの日の家出

 コンコン、ガチャ。

 扉をノックしてすぐ、ぼくは返事も待たずに扉を開ける。


「ぺっぺっ、やっと中に入れたよ~!」

「もうっ、また返事する前に入ってきて。ノックしてもすぐ入ってくるんじゃ、ノックの意味がないじゃない」


 ベッドに座ってテレビを見ていた紗綾ちゃんは、口を尖らせて文句を言う。

 それでも、来てくれて嬉しいって、その顔には書いてある。


「だって早く、紗綾ちゃんに見せたかったんだもん!」


 ぼくは紗綾ちゃんのベッドに飛び乗ると、シャツの裾で表面の消毒液を拭いてから、持ってた粘土を差し出した。


「ねーねー、これ見て」

「これ……私!?」

「うん! 紗綾ちゃんの粘土ろいど! 小学校の図画工作で作ったんだ」

「へー、すごい! もっとよく見せて!」


 教室で一生懸命思い出しながら造った、ツインテールの紗綾ちゃん。

 胴体はずんぐりむっくりになっちゃったけど、こうしないと立たないから仕方ない。

 でも本物と見比べると……さすがに太すぎるし、お顔も少し違うかな?


「すごいよカズくん。これ、私にそっくり! もらってもいいの?」

「うん、あげる!」

「ありがとう!」


 紗綾ちゃんは粘土ろいどをサイドボードに飾るとぼくを抱き寄せ、「いい子いい子」と言って、優しく頭を撫でてくれる。

 先生や友だち、お母さんに見せても苦笑いだったから心配だったけど、紗綾ちゃんが喜んでくれて良かった。


「私の特徴、ちゃんと捉えてるよね。ほら、ツインテールだし。スカートにハートも付いてるし!」

「でもみんなには全然似てないって言われちゃった。紗綾ちゃん、幼稚園卒園してからずっとこの部屋にいるでしょ? みんな遊びにも来ないし。もしかして紗綾ちゃんのお顔、忘れちゃったのかなあ?」

「そうかもね。私もみんなの顔、忘れちゃったし。でも今はカズくんがさーやのお部屋に遊びに来てくれるから、それでいいの!」


 そう言うと、紗綾ちゃんは笑顔になった。ぼくは改めて、自分の造った粘土ろいどと見比べた。

 頭にピンと、ひらめきが走る。


「そうだ、笑顔! 笑顔にしなかったから、紗綾ちゃんに似てないって言われちゃったんだ!」

「うーん、そう? 私はこのままでも、じゅうぶん似てると思うけど」

「ねー紗綾ちゃん、紗綾ちゃんのお顔見ながら、ここで造り直してもいい?」

「え~、そしたら私だけ、暇になっちゃうじゃん」

「じゃあぼくのも造ってよ! 粘土半分こしても、顔だけなら二つ造れるから!」

「でもせっかく造ってくれたのに、これ壊しちゃっていいの?」

「いいよ、すぐまた造るんだし!」

「それもそっか。粘土触るのなんて久しぶり。やろうやろう!」


 向かい合わせで座るぼくと紗綾ちゃんは、粘土を分け合い、お互いの顔をこねこね造った。

 ぼくは二回目だったから結構すぐできちゃったけど、紗綾ちゃんは時間をかけて丁寧に、ぼくの顔を仕上げていった。

 造り終えた二つの顔をサイドボードに並べてみると……ぼくが造った紗綾ちゃんは小さく笑ってるだけだけど、紗綾ちゃんが造ったぼくは、ものすごい大口開けて爆笑してた。


「なんでこんな変な顔に~!」

「ね、真似して笑ってみせてよ」


 なんとか似せようと、これでもかと大口開けて笑うぼくを見て、紗綾ちゃんは普通に笑い転げた。

 造ってる時に、その笑顔を見せてくれれば良かったのにと思うくらい、幸せそうに笑ってる。


「こうして一緒に置いとけば、二人で笑いながら喋ってるように見えて、おもしろいね!」

「そうだね……粘土なんてホント、久しぶりに触った。すごく楽しかった。ありがとね、カズくん」

「じゃあ今度はお母さんにお願いしてさ、もっと大きい粘土買ってもらおうよ! ぼく、プテラノドン造ってみたい!」

「それは自分の部屋に飾って☆ 私はこの二つでじゅうぶん♡」

「えー、なんでさ」

「なんでも☆」


 紗綾ちゃんがぼくを抱き締めると、ザザッというノイズと共に、部屋の天井スピーカーからお母さんの声が響いた。


「和志、そこにいるの? お夕飯できたから、そろそろ上がってきなさい」

「はーい」

「紗綾のご飯もできてるわよ。今から送るから、ちゃんと残さず食べるのよ」

「はーい☆」


 ピシューッと空気音がすると、紗綾ちゃんの机の棚に、密封されたトレイが送られてきた。

 ぼくは部屋の扉を開けて、紗綾ちゃんを振り返る。


「じゃあね紗綾ちゃん、バイバイ」

「うん☆バイバイ」


 ぼくは普通に笑って手を振ったけど、紗綾ちゃんはニヤッと、変な笑い方をした。

 ぼくが造り直した粘土ろいどと、全然違う笑顔に思えた。


* * *


「もうヤダ! 紗綾ちゃんなんて大っ嫌い!」


 ぼくは地下室を飛び出すと、泣きながらお母さんに抱きついた。


「どうしたの? 和志。お姉ちゃんとケンカでもしちゃった?」

「酷いんだよ、紗綾ちゃん。ぼくの事クソザコとか言って、悪口ばっか言ってくるんだ!」

「……それ、本当なの?」

「本当だよ! そんな事言うのやめてって言っても、全然やめてくれなくて。笑いながらぼくの事、バカにしてくるんだ!」


 ぼくの話を聞いて、お母さんの顔色が変わる。震える足でキッチンを出ると、紗綾ちゃんの地下室に降りていく。

 その変わりように驚いたぼくは、お母さんの後を付いていった。ちょっと言い過ぎたかもしれないと、心の中で後悔しながら。

 ぼくらは消毒スペースで全身にミストを浴びると、いつものように口を開けた。ちょっと苦い味がするけど、お口の中は特に念入りにやらなきゃいけない。

 消毒が終わると、お母さんが部屋の扉をノックする。


「はーい☆ 別に入ってもいいよー」


 いつもと違う、生意気そうな声。お母さんが扉を開けると、紗綾ちゃんは勉強机に足を放り出して、だらしない恰好で座っていた。


「紗綾、足を下ろしなさい。あなた、弟の事イジメたの?」

「えー☆ あれはイジメじゃなくてイ・ジ・リ♡ さーやの愛がこもってるって、なーんで分かんないのお?」


 ぼくは驚きで固まってしまった。

 あの優しかった紗綾ちゃんが、お母さんにまでそんな話し方するなんて。


「それよりさー、ここ暗くてジメジメしててキラーイ☆ さーや、いい加減お外に出たいんですけどー?


 紗綾ちゃんのワガママを無視して、お母さんは部屋のあちこちに視線を送り、何かを探しているようだった。サイドボードに置かれた二つの粘土ろいどを見つけると、お母さんは顔を近付けて、粘土のぼくと紗綾ちゃんをじっと見つめる。


「和志。お姉ちゃんに見せるって言ってた粘土、これじゃなかったよね?」

「え? それだよ? あんまり似てなかったから、紗綾ちゃんと二人で、お互いの顔見ながら作り直したんだ」

「キャハハ☆ なんだそれ! その粘土、オメーが造ったのか! どうりでへたっぴだと――って何やってんだテメー!」


 お母さんは二つの粘土を握り潰すように掴むと、両手で一つの塊にしてエプロンのポケットにしまった。

 そのまま鬼の形相でぼくに歩み寄ってくると、パーンッと大きな音と衝撃。

 ほっぺがヒリヒリ痛み出してから、ようやくぼくは、お母さんにひっぱたかれた事を理解した。


「行くわよ」

「ちょっと待て☆ その子に何してくれてんのよ!」


 お母さんは泣いてるぼくの手を取ると、紗綾ちゃんを無視して強引に部屋から出ようとする。

 紗綾ちゃんは凄い速さで追いすがり、反対の手を取ってぼくを引き留めた。


「こいつは置いてけ。私の遊び相手だ」

「紗綾……あなた、この子の名前も覚えてないの?」

「はっ、何言ってんの? 忘れるわけないっしょ☆ こいつは……」


 紗綾ちゃんは、じっとぼくをみつめた。

 生意気そうな笑顔が、今にも泣き出しそうなしかめ面に変わっていく。

 まるでお母さんが握り潰した、粘土ろいどの紗綾ちゃんみたいに。


「紗綾ちゃん、痛いよ」


 ぼくが痛いのを我慢してる事に気が付くと、紗綾ちゃんは驚いたように、パッと手を離した。

 そのままぼくとお母さんを突き飛ばし、地下室から飛び出していく。


「紗綾!」

「紗綾ちゃん!」


 足の遅いお母さんを置いて、ぼくは紗綾ちゃんを追うけれど、とてもじゃないが追いつけない。見慣れた背中が、どんどんか細く小さくなっていく。


「待ってよ、紗綾ちゃん! 待ってええ!」


 それでも小さな背中を追い駆けて、叫びながら走るけど……紗綾ちゃんの背中は人混みにまみれ、ついに見えなくなってしまった。

 ぼくは膝に両手を付いて立ち止まった。乱れる息は、そう簡単に収まらない。


 紗綾ちゃん、本当にぼくの名前忘れちゃったの?

 本当に、メスガキになっちゃったの?


 何度手で擦っても、拭いきれない涙の雫が、渋谷の街並みを滲ませていく。

 遠くでメスガキの嘲笑が聞こえると、ぼくはとぼとぼ、家に帰るしかなかった。


* * *

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