2-4 これはもう、しょうがない

 第二法医学室の掃除が終わると、恵は自宅のガンキ寮に帰っていった。

 奥の解剖部屋では、健診を終えた紗綾ちゃんがすやすや眠っている。俺はする事もなく、机に向かってMSGK被験薬を調合する那須野博士の背中を見つめていた。

 細い背中は伸ばしっぱなしの黒髪で覆い隠され、まるで絵本に出てくる魔女のよう。おまけに「いひっ」とか時々吹きだすし、気味が悪いったらありゃしない。

 手持ち無沙汰の俺を気遣ってか、博士は背中を向けたまま話し掛けてくる。


「MSGK被験薬を使った時間帯のデータ、軽く見てみたけど凄い事になってるね」

「どうなってました?」

「君がベンチプレス二〇〇キロ上げたり、上げきれず押し潰されたりするだけじゃ絶対出ない、濃ゆ~い血中メスガキ濃度が記録されてたよ」


 博士は振り返ると、腕時計型デバイスを差し出した。時計ベルトに組み込まれた極小シリンダーには、精製したばかりのMSGK被験薬が注入されている。

 被験薬の消費期限は一週間。俺は週一回の定期健診でこれを打ち、とんでもない重さのベンチプレスを上げるか、上げるのに失敗して骨折するかしなきゃならない。

 クスリを打てばとんでもパワーが手に入るし怪我も一瞬で治るけど、痛いもんは痛い。打った翌日は副作用で全身筋肉痛祭りだから、できれば健診以外で打ちたくないけど……まぁ今回みたいに、奥の手はないよりあった方がいい。


「今日検査したから、明日の定期健診はなしでいいですか?」

「やっぱり実戦に勝る実験はないね。もうベンチプレスなんか止めて、明日はピストルか日本刀を用意しておこうかな!」

「殺る気満々じゃないですか!」

「ふひっ、いっひっひ。君はまだ、不死の疑惑を拭えていないのだよ、和志くん」


 引き笑いが、俺の恐怖を助長する。この人ならホントにやりかねないから、始末が悪い。


「まぁそれは冗談として。明日は君も動けないだろうし、ゆっくり休んでくれたまえ。私も今日もらったデータを、きちんと解析したいしね」


 思わず安堵の息が漏れる。二日連続の骨折はなんとか免れそうだ。


「それにしても……君はここまで血中メスガキ濃度が上がっても、一切拒絶反応を示さないんだな。これは全く、驚くべき事象だよ。君の十分の一の投与量でしかなかった福浦刑事は、ちょっとした目にあったっていうのに」


 ちょっとした? 冗談じゃない。

 一年前、俺が何の拒絶反応も示さなかった事で、試しに打った福浦さんは危篤状態に陥った。

 どうせ死ぬなら医学の進歩に寄与させようと、生きたまま頭をカチ割ろうとした博士を、必死で食い止めたのを覚えている。


「やっぱり俺が、レベル☆☆☆スリー離解者ワカラセだからですか?」

「その意見に私は懐疑的だ。もしそうなら、レベル☆☆ツー理会者ワカラセの福浦刑事も、多少は適合して良かったはずだからね。彼には再度協力願いたいところだが、打って一週間も昏睡状態になられてはさすがの私も頼みにくい」

「さっきしれっと頼んで、バッサリ断られてましたよね!?」

「それに、MSGK被験薬に適合するかどうかは、メスガキ耐性以外に要因があると私は見ている。君の治験の方が優先度は高い」

「だからといって、銃で撃たれたり剣で真っ二つにされるのは、ご勘弁願いたいところです」

「いひっひっひ。だからこうして、MSGK被験薬を提供してるのだよ。来週もメスガキと、くんずほぐれつしてくれたまえ」


 あんな大立ち回り、毎週やってたら身が持たないっての。


「俺以外にも……例えば刻学院大の学生の中に、レベル☆☆☆離解者はいないんですか? 博士だって、俺以外に治験者がいた方がいいでしょう?」


 話にならんと、那須野博士は一笑に付す。


「さすが元ニート。ワカラセの価値が分かってないね」

「はあ」

「いいかい。君達ワカラセは、メスガキの罵倒に耐えるだけのレベルワン利解者ワカラセであっても、企業から引っ張りだこだ。メスガキとまともに会話できるレベル☆☆ツー理会者ワカラセなら、卒業前にスカウトが来てもおかしくない」


 そこで言葉を切った博士は、俺にビシッと人差し指を差す。


「そして、メスガキを離解らせる事ができる唯一の存在――レベル☆☆☆スリー離解者ワカラセ。君達に至っては身の危険から公表を避けるようになり、六本木の料亭では離解者ワカラセ裏リストを使ったドラフト会議が開かれてると聞く」

「つまり、希少なレベル☆☆☆離解者が、こんな安全性もへったくれもない治験に付き合ってくれるわけがないと」

「そういう事だ」


 企業によるワカラセ社員争奪戦は、ニュースでもよく取り上げられている。

 既に都の人口の半分はメスガキで、四分の一は高齢者だ。残り四分の一の成人男性だけを相手するビジネスでは、企業は生き残れない。

 おまけに渋谷区では初めてメスガキが区長に選出されたし、都の職員にもメスガキが増えてきた。人口減少が加速する中、増えていくのは不老のメスガキのみで、メスガキ総理が誕生するのも時間の問題。必然、企業のワカラセ需要は計り知れない。


「だからこそ私は、君に感謝してるのだよ。MSGK被験薬の治験は、和志君がいなければ成り立たない」

「まぁ謝礼も頂いてますし、ギブアンドテイクですよ。那須野博士がいなきゃ俺もとっくに死んでますし、感謝してます」


 今回のメスガキ花嫁事件だって、もしクスリがなかったらと思うとぞっとする。

 離解屋はメスガキを言葉で離解らせる前に、力で離解らせなきゃならない。今までは紗綾ちゃんに力で制圧してもらってから、俺が言葉で離解らせてたわけだが、今回のように上手くいかないケースも増えてきた。離解屋として今後もやってくには、俺も今まで以上にMSGK被験薬を使いこなす必要がある。

 あっさり治験を受け入れてる俺を見て、博士は急に申し訳なさそうに語り出す。


「結果論で言えば君を救ったのは私だが、別に恩義は感じなくていいぞ。あれは医療行為とはほど遠い、どうせ死ぬなら試してみようのアカデミック好奇心だ。紗綾ちゃんの定期健診もそう。MSGK被験薬の主原料――全身麻酔が必要な脳髄液採取を受け入れてくれるメスガキなんて、そうは見つからない。私は君と、君を想う彼女の気持ちを利用してるだけだ」

「それもギブアンドテイクに織り込み済みですよ。俺だって、お金のためだけに協力するのは味気ない。那須野博士なら、俺のデータをきっかけにメスガキパンデミックを終わらせてくれるかもって、ちょっと期待しています」

「それは……大仰すぎる期待かな」


 博士は苦笑いすると、いくつかの研究データをモニタに展開していく。

 俺には難しすぎてよく分からないが、博士はしばらく眺めた後、意を決したように振り向いた。


「君がパンデミック収束を望むなら……和志くん、ひとつだけ質問していいかい?」

「え? あ、はい」

「この一年、君にべったりな紗綾ちゃんは、ピリオドを迎えるどころかまるで身体的成長を見せていない」

「まぁ……そうですね」

「君は紗綾ちゃんとドタバタラブコメは演じる癖に、全く彼女を離解らせてない。それは、何か理由があるのかい?」


 言葉に詰まる俺を見て、那須野博士は静かに首を横に振った。


「すまない、困らせてしまったようだね。なんというか、君にもプライベートはあるだろうし、私も君の特殊性癖の話なんて聞きたくもない」

「だったら最初から聞かないで下さいよ! なんで俺が特殊性癖持ち前提で話してるんですか!」

「ふああ☆ うるさいぃ……」


 メスガキ声に振り向くと、検査用肌着を一枚羽織った紗綾ちゃんが、目を擦りながら起きてきた。

 俺の元まで来ると、椅子に座る俺の太腿を堂々跨ぎ、首に手を回して抱きついてきた。


「まだ眠いから~……カズくんのお膝で寝る♡」


 寝ぼけてるのかな? 俺は紗綾ちゃんが落っこちないよう、小さな背中を両手で支え抱っこする。

 すると那須野博士が目の前に来てしゃがみこみ、俺が動けないのをいい事に間近で観察を始めてしまう。

 紗綾ちゃんのお尻の下、短パンに不自然なテントを張る、男の突上棒つきあげぼうを。


「いや、これは、その……」

「やっぱり君……小児性愛者ペドフィリアだよねえ?」

「これはもう、男ならしょうがないんです!」


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