第12話 殿下と帰省
アラービヤでの結婚は婚姻申込書の記入から始まる。書類を通常は領主、今回は王族が相手なので王宮に受理されたら寺院で結婚式を行い、めでたく夫婦ということになる。そのときは改めて婚姻契約書の記入が必要だ。
ミライたちは婚姻申込書が受理されるまでの二日間をピエールの屋敷で過ごした。その後は各自ファハドの従者たち同行の元、一旦自宅に帰ることにした。衣装や装飾品などの私物を持ち出すためだ。
「あ、あの、なぜ私には殿下が同行するのですか?」
「もうすぐ夫婦となるのだ。俺のことはファハドと呼んで欲しい」
ミライの目の前にはファハドが座り、爽やかに微笑んだ。いやいや恐れ多いと肩を縮める。そういえば自分が乗る馬車だけ豪華だった。乗り込む前になぜ警戒できなかったのだろう。後悔してももう遅い。
「めっそうもございません、殿下」
両手を振って、名前呼びをやんわりと断った。夫婦といっても仮面夫婦なのだ、名前呼びなんて勘弁して欲しかった。
「ミライ、ファハドだ」
ファハドの笑顔が有無を言わさぬ圧力となって襲いかかってくる。ミライは顎を引き「う……」と呻くしかなかった。
「ミライ?」
「ファ、ハ、ド、様」
口の中が一気に渇く。なんとか絞り出した声で婚約者の名を呼ぶと、彼は先ほどまでの余裕の笑みではなく、まるで少年のように白い歯を見せて笑った。ずいぶんと嬉しそうな姿がミライには不思議だった。
「今はまだそれでいいだろう。結婚式までの一ヶ月、しっかり練習しておくんだぞ」
「は、はい……」
一時間ほど走った馬車はスピードを緩め、ゆっくりと停車した。ミライがファハドと二人きりの空間に緊張で限界が訪れる直前のことだった。王都の端にあるミライの生家、マクトゥル男爵家に到着したのだ。
「着いたようだな。ミライが育った家か。楽しみだ」
「なんの変哲もない屋敷です。早く用事を済ませましょう」
門番が鉄柵の門を開け、再び馬車がゆっくりと動き出す。そして屋敷の入り口前で停まり、まずはファハドが馬車を降りた。
「ミライ、さあ俺の手を取るんだ」
「あ、ありがとうございます……!」
差し出された手を取ると同時に、ぐっと前方に引っ張られた。馬車を降りようとしていたミライの体はバランスを崩し落ちていく。ファハドの腕の中に、すっぽりと。
「ミライ、大丈夫か?」
「はい、大丈夫です。受け止めていただきありがとうございます」
あなたが手を引っ張ったせいですけど、とは言わず、ミライは彼の腕から逃れようと身を
「殿下、もう平気ですので、その……」
「そうか。ミライ、君は華奢だな。腰なんか随分と細い」
ファハドは離すどころか、片方の腕でがっしりとミライの胴体を掴んで離さない。もう片方の手は腰のあたりを撫でている。戸惑い、両手で彼の体を押し返す。
「私が華奢なのではなく、殿下が逞しすぎるのではないでしょうか?」
「ミライ、逞しい男は嫌か?」
ミライは首を傾げ「はあ?」と目元を引きつらせた。質問の意図がわからなかった。面倒なので言い捨てるように返事を返す。
「別に、嫌いではありません」
「では、好きか?」
ファハドがミライを離さないまま話を続ける。この質問になんの意味があるのか。煩わしいということを隠さず彼から目を逸らす。
「どちらでもありません。そんなことより用事を済ませましょう。早く屋敷の中へ」
「照れ屋なんだな、ミライは。かわいいな」
ミライは「はあ」と息を吐くしかなかった。ファハドはにこにこと笑みを絶やすことなく隣を歩いている。おそらく何を言っても彼のいいように解釈されるのだろう。
しっかりと繋がれた手をチラリと見る。そして振り払うのを諦め、屋敷の中に歩き出した。
>>続く
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