真・ヒナタの思い

 意識が無くなる。まるで暖炉の中に放り込まれた紙束のように、一切合切悉くが灰に変わっていく。

 そんな中、流れ込むのは走馬灯。どうやら完全に私の身体が死を意識しているらしい。


(――――ふざけるな)


 薄れゆく意識の中、最後に湧き上がるのは怒り。どうして自分が死ななければならないのだという、理不尽への怒りだった。


(おかしいでしょうが……)


 北風ヒナタはあの日全てを失った。家族友人故郷。幼少の子供が本来持っていて然るべきもの全てを奪われた。

 そして今、残された命や尊厳すらも奪い去られようとしている。

 

(私が一体何をした? パパやママ達が何をした? ただあそこで生きていただけだ。食べて笑って泣いて怒られて、そんな平凡な日常を享受していただけじゃないか)


(嫌だ。こんなところで終わりたくない。このまま殺されるだけじゃ飽き足らず、魔族の駒になって使い潰されるなんてことになったら、何だったのよ私の人生)

 

 ヒナタは声にならない叫び声をあげながら、地面に掌を叩きつける。


(冗談じゃない。嫌だ、嫌だそんなの絶対に)


 魔蟲なんかになりたくない。死ぬのも嫌だ。使われるなんて論外だ。

 それでももし、どうしてもこの場で誰かが死なないといけないのであれば。

 

「お〝前が死ねよッッ!!!」


 文字通りの血を吐き散らかすような濁声。

 身体に籠る熱すら燃料に変えて、ヒナタは全力を絞り出す。


「――――は? いや、何すかそれ?」


「ハァ、ハァ、ハァ……!」


 既にヒナタの肉体の八割は変化している。

 全身に血を塗りたくったかのような姿と、それを覆う灼熱の炎。

 右目の紅い瞳の周りを取り巻く結膜は完全に黒く染まっている。


「死ね、死ね、死ね、死ね! お前なんか、ここで死ね!」

 

 ヒナタの足が大地を踏みしめた。そして一歩を踏み出した。

 それはもう理屈などは存在しない、彼女の執念によってなりたっている。


「いや、いやいやいやいや。おかしいっしょ? だってもう君、とっくに全身が変化してるじゃないっすか! なのにどうして!? 特濃のやつをぶち込んだんすよ!?」


「死ね、死ね、死ね、死ねェ!!」


「なんすか、その色……」


 カロンは戦慄の声と共に一歩下がった。

 あり得ない。こんなことはあり得ない。

 今の彼女はファミリアだ。魔族に使い潰されるための存在。その程度の存在に魔族であり、吸血皇から直接力を受け継いだ自分が気圧されている?


 その事実を認識した瞬間、カロンの中に存在している全神経が破裂するほどの怒りが沸騰した。


「…………ざけてんじゃねぇっすよォォォ!!!」


 許されない。それだけは魔族の誇りに賭けて許されない。

 確かにヒナタの魔力量は凄まじい。ファミリア化によって限界まで引き出されたその量は生半可な魔族では消し炭になることは必至だ。


 しかしカロンは違う。魔族の頂点に準ずる存在。それがたかが人間の小娘一匹如き、例え満身創痍であっても退く訳にはいかない。

 だが彼という吸血鬼は恐ろしいまでに傲慢であり、かつ冷静であった。

 ただプライドに任せて襲い掛かる能無しであれば、彼はとうにこの世界から消えている。


「チィ……! しょうがねぇっすねェ……」


 カロンが取り出したのは先程とはまた別の注射器。その中に入っているのは明るい黄緑色の液体。

 彼は躊躇うことなく、それを自身の首筋に差し込んだ。


「クッソが、この借りは高くつくっすよ」


 カロンが使用したのはポーションと呼ばれる類の回復薬。

 しかしただ飲むだけで負った外傷どころか魔力量まで回復するポーションなど、人類の技術では作れない。

 同様の効果を持つ魔法を操る魔導士ならば存在するが、それはあくまでも魔法だ。


 魔族の方が人類よりも優れた技術を持つ。その推測はなんや間違いではないのだ。


「……寿命は削れちまうっすけどね。まあ高々数十年、微々たるもんすけど……」


 人間相手にこれを使う羽目になったという事実をこの傲慢な魔族が許せる訳もなく。

 殺意を帯びた魔力が周囲に充満していく。


「死に損ないの燃えカスが……。その無駄にしぶとい精神、完堕ちさせてやるっすよ!」


 まだ殺す訳にはいかない。

 生意気だが利用できる駒だ。このまま黒魔術で隷属させて、奴にぶつけるのは彼が生き延びる上での必須条件だ。

 

 しかしそれはそれとして、腕の一本や二本はへし折ってやろう。

 駒が主に逆らうなどあってはならないのだという躾はしっかりと行わなければ。


「『隷属の血契ちぎり』…………!」


 カロンの指先から血が噴き出し、一本の鎖に変わる。

 それは異形へと変化していくヒナタの額に突き刺さり、その動きを停止させた。

 このまま魂の欠片を送り込めば、彼女の意識を完全に乗っ取ることができる。


 通常ならこれで終わり。どれだけ膨大な魔力を持つ者であっても、無抵抗の状態で『隷属の血契ちぎり』を喰らって無事で済む者は存在しないというのが彼の中の常識だった。


 だからこそ、カロンは今目の前で起こっている光景に目を疑った。

 

「…………は?」


 再びヒナタが動きだしたのだ。

 先程よりも遥かに凶悪な煉獄を携えながら、再びその歪な形の足を踏み出す。


 信じられない。そう言わんばかりの、しかし無表情でカロンは首を振った。

 そこにあるのは怒りですら無い、ただひたすらの拒絶。


「――――――――――――――」


 血が、鎖が燃える。燃えて紅い蒸気に変わる。

 一秒も経たずに、そこには何も無くなった。


「いや、は、へ?」


「…………――――――――――――――――――――!!!!!!!」


 ヒナタが、否、怪物が吼えた。

 それは怨嗟であり、怒りであり、そして。


「笑っ、てる……?」


 今度こそカロンは気圧される。否定する暇が無い程の圧倒的なプレッシャーに一歩、また一歩と足を後ろへ退いていく。

 彼は、人間が寿命によって死にゆくその何倍もの期間を生きてきた吸血鬼にはわかる。

 今怪物が纏っている炎は当の怪物にすらもダメージがいく代物だ。肉を焦がし、精神を爛れさせ、命を蝕むまさに獄炎。

 

 ただその場に居るだけでも想像を絶する激痛が走っているであるうことは明白で、しかし怪物の口角は三日月状に歪んでいた。


「――――ハハ、アハハハハハハハハハハハ!!」


 笑う。呵う。嗤い狂う。

 煉獄の奥で、かろうじて見えるのは口だけ。しかしその光景がその狂気を引き立てていた。


 間違いなく怪物は歓喜している。狂って、おかしくなってしまったのではない。

 純粋に感謝しているのだ。今のこの時この場所この瞬間。怪物は己との対話を済ませたのだ。

 自らの命が尽きるその寸前に自覚したのだ。己を構築する真なる軸を。


(ずっと、ずっと思ってた。私はヒーローにならなきゃいけないんだって)


 少し前にヒナタはアサヒに語った。ただ見ているのは嫌だから、だから戦うのだと。

 寸前まで彼女もそう信じていた、自分が強さを求めて藻掻き、戦いに身を投じる理由はそれだけだと。

 理不尽に失うなんてことをもう二度と引き起こさせないためなのだと。


(違った、違ったんだ)


 勿論全部が全部嘘という訳じゃない。だが一番ではないのだ。

 誰にだって沢山の大切なものがある。

 仲間、友人、弟子、家族。全部失いたくない大切なもの。

 だが、それ以上に大切なものがあったとしても何ら不思議ではない。


 生きる活力とは人それぞれ。

 そして北風ヒナタの場合、それは自身から全部を奪った、そしてこれから奪うであろう存在への憎悪。


 テロリストが居ると聞いて勇んだのも、カロンへの怨嗟をぶつけた時も、全てこの気持ちが表面化したというだけに過ぎない。


(私は皆を守ってヒーローになりたいんじゃない。奪う奴等を殺してヒーローになりたかったんだ)


 重荷が全てとれたかのようだった。

 余計な物が無くなり、ひたすら身軽に。自らを縛る煩わしいものを全て焼き払った先にあるのは真なる自由。

 

(そうだよ殺せば良いんじゃん。殺して殺して殺しまくれば、きっと平和が訪れる。誰も奪われることのない世界。誰も不幸にならない世界が)


 誰もが当たり前の日常を享受できる、そんな世界がきっと。


「………………ふっ、ざけ、」


 カロンはひきつった声を絞り出す。だがそれだけだ。それ以上のことは何もできない。

 そして次の瞬間には退がる足すらも止めざるを得ない状況へと追い込まれていく。


「………………はぇ?」


 もう間抜けな声しか出てこない。

 起こっているのは誤解しようもない、余りにもわかりやすい事態。

 

 『禍津の焔太刀マガツヒ』が燃えている。ただそれだけ。


 大剣が燃えるというこの世界では然程珍しくも無い光景。たがそれはカロンを絶望の淵に陥れるのには十分過ぎる役割を果たしていた。


「アハハハハッ、アハッ、あハハハハははハハハははハハハはハハハハ」


「ふひっ、ふひゃはははは……」


 もう笑うしかない。そう思ったら最期、目の前の光景の全てが可笑しく見える。

 怪物が燃えて嗤っている。神の力が燃えている。

 目の前に居るのは神を力を宿す存在だというのも、それが自分に殺意を持っているというのも、神具がそれに応えているというのも。


 自分の身体に火がついているというのも。股間がじんわりと濡れているというのも。

 何もかも。


「イヒヒヒヒ、ひぃ、ひひひひひひひひひひひひひ」


「アハハハははハハハはハハハハは」


 数秒後、そこにあるのは一つの焼死体と狂った怪物。

 甲虫のような体躯と八本の足。その中の一本が朽ちていく吸血鬼の亡骸を掴んでいる。


 かつてこの世界には神虫なる存在が居たという。

 それは災厄を打ち払い、人々に幸福をもたらすとされる神の使い。

 太古に記された絵巻にはその姿が描き記されている。


 魔族の肉体を裂き、血に塗れ、朝に三千、夕に三百。悪鬼を貪り食うその姿はまさに人智の及ばぬ正義という名の狂気を体現していると言えるだろう。

 そして今、この瞬間。正義という名の狂気を本能に変えたかいぶつが煉獄と共に地下に降臨した。

 

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