タフで、かつ澄みわたっていた羽鳥の高音は少しずつ、少しずつ低く濁っていき、メジャーデビューして順調に売上を伸ばしているあいだに、すっかり声が変わってしまっていた。けれど蔦枝は羽鳥を切ることはなかった。それでも羽鳥は人間の歌手の平均よりは良い声をしていたし、歌唱技術はむしろ向上していた。インディーズ時代の音源や映像など大して出回ってもいないし、リアルタイムでライヴの歌声を聴いていたファンも減ってゆく。かつて羽鳥がどんな声で歌っていたのか知らない新しくついたファンは、ただのそこそこ上手いヴォーカリストに成り果てた羽鳥の歌にも「イツキは天使だよ」と大騒ぎしてくれる。

 羽鳥は容姿も人間の男としては十分に見るに耐える端正さを保っていたが、いつしか、守屋の前にいちばん最初に現れたときの外見からはかけはなれた姿になっていた。守屋の昔馴染みとも、言われてみれば面影がないこともない、くらいで、今やまったく違う顔をしている。つまり羽鳥は顔も声もほとんど別人になってしまったのだが、初めて出会ったときどんな顔で、どんな声だったかは、蔦枝も、羽鳥本人すらもよく覚えていなかった。変わってしまった、ということを認識できるだけだ。

 ただ一人、守屋だけが、その姿を鮮明に記憶している。

 あれから二十年、解散から七年のブランクを経て、再びD’ARCの名の下にステージに立とうとしている大切な日の前夜、突然現れた訪問者は、守屋がスタジオの前で初めて見たときの羽鳥と、まったく同じ姿なのだった。顔も、髪型も、服装まであの夏の宵と同じ。今は冬のはじまりの季節だというのに。

 当然のことだ、と守屋は思う。あの日の羽鳥も、今、目の前に立っているものも、同じ記憶のコピーなのだから。

「入りなよ」

 それは頷いて、守屋のあとをついてきた。スリープしていたPCのキーを叩いて起こすと、ライヴのSEで使うD‘ARCの楽曲のピアノ・ヴァージョンが演奏終了の状態になっていた。守屋はそれを頭から再生した。

「綺麗な曲」

「歌いたい?」

 守屋が訊くと、それは少し首を傾げて曖昧に微笑んだ。

「……あんたたちはほんとうに残酷だな。人前に姿を現すときは、相手が最も対面を望まない人間の外見を借りてくる」

 それを真正面から見据えて守屋は言った。

「いま、あんたがしてるその格好は、俺が昔たった一人だけ殺した男のだよ。そうしなきゃ俺が餓死してたとはいえ、殺したのはあいつが最初で最後だ」

 今まで誰にも漏らしたことのない守屋の秘密を聞かされても、それは表情を変えない。曖昧な微笑を浮かべたままで、口をひらいた。

「いいや、逆だ。この姿は、あなたが真に会いたいと願う者の姿だ」

 ははは、と思わず乾いた笑い声がでた。

「何だそりゃあ、余計に酷いだろ。……しかも二回だぜ! 今回も、俺に会うならそいつになるってわかってたのか」

「予測はしていたが、確信はなかった。私はあなたについているわけではないから」

「そうだろうね。そもそも俺に守護はついてないだろう。半分とはいえ呪われた身だ」

 尖った犬歯を口もとから覗かせて、守屋は笑う。

「そう、俺は半分人間じゃないんで、普通の人間よりは敏感だ。……ただ、あんたがD‘ARCのヴォーカルじゃないのはいくらなんでも誰でもわかる。顔が違いすぎる。鏡を見せてやりたいけど、無理だな。さっきモニタが駄目だったし」

「あなたは映るのか」

「混血だからね。そうじゃなきゃ、さすがにこの商売は無理だ。鏡だけならともかく、純血だと写真も動画もスルーだからな。俺らの仲間で、俳優だのミュージシャンだのやってる奴らは大概混血だよ。でなきゃ雑誌にも載れない、DVDも出せやしない」

 キッチンから赤ワインのボトルを持ってきてグラスに注ぎ足し、守屋はそれをあおった。

「で、何しに来たんだ。今更あいつを連れ戻しに来たのか?」

「……あれはもう、人間だ。死ぬ運命さだめだ。止められない」

「ああ、それともライヴで歌ってく? 蔦枝が泣いて喜ぶよ。人間だろうと吸血鬼だろうと天使だろうとあいつにかかれば消耗品だ、きれいな新品が手に入れば古いのを捨てて迷わず使うぜ、あいつは」

「あれが歌うところを見る。私たちは一対で人間を守護する。私が主に記録し、あれが主に見守り、導いた。あれは長く私の片割れだった。あれが、天に背いて地に下り、人間として死ぬことを選んでまで手に入れたものを、見届けに来た。……あれが塵に還るまえに」

「そんなもの……」

 ねえよ、と守屋が吐き捨てようとしたとき、ばさばさとカーテンがあおられる音がして、冷たい風が一陣、吹き抜けた。リビングを見ると、鍵をかけていたはずのリビングの窓がいっぱいに開いている。あんたの仕業か、と言おうとして守屋が向き直ると、そこにはもう影も形もなかった。

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