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 落ちる夢を見る、と羽鳥イツキが言わなくなったのは、いつごろからだっただろう。

 言い出したのは、出会ってから一年ほど経ってからだった。羽鳥は守屋ユヅルが拾ってD’ARCのヴォーカルに据えた。羽鳥が加入してまもないころ、リーダーの蔦枝カイは「イツキはスタジオの外をふらふらしてたところを、ユヅルが拾ってきたんですよ」と発言して「そんな、仔犬や仔猫じゃないんだから」とインタビュアーに苦笑されていたが、それはあながち冗談や誇張ではなかった。

 幾つもバンドを渡り歩いてきた蔦枝が、メジャーデビュー寸前で空中分解したバンドから神田アヤトを引き抜いて一緒に抜け、アヤトの弟のユキトと、たまたま出会った守屋を誘って組んだD’ARCは早いうちから実力派の大型新人と騒がれ、ライヴの動員も悪くなかった。ヴォーカルがどうにも居つかないのだけが悩みの種だった。蔦枝にはギタリストとしてのテクニックもキャリアも、作曲能力も、ビジネスのセンスもあったが、バンドのためなら人を人と思わない面もあって、とくにヴォーカルには消耗品扱いとも思えるような無茶な要求を平気でする。

 そのときもヴォーカルに逃げられてバンド活動は停滞しており、モチベーションが上がらないまま定期練習を終えた。煙草を喫っていてスタジオを出るのが最後になった守屋が重い扉をあけたところに、それは立っていた。

「うわっ」

 何を見てもあまり驚かない守屋だが、そのときは声をあげた。背中まである鳶色のまっすぐな髪に同じ色の瞳、ヒステリック・グラマーのタンクトップに白いシャツを羽織ってダメージのデニムを穿いたその姿は、幽霊でもないかぎりお目にかかれないはずの人間だった。

「……羽鳥いつき……な、わけないよな」

 名を呼ばれても反応するでもなく、少し首をかしげてそれは曖昧に微笑んでいたが、聞き慣れない外国語のようなどこかぎこちないイントネーションでハトリイツキ、ハトリイツキ、と繰り返し、頷いた。

「……その、ギター」

 声まで、昔馴染みに似ていた。守屋が背負っているギターケースを指さす。

「ユヅル……の、その、ギターの音が、好きなんだ」

「俺の名前は知ってるんだ」

「ギターの音が好きだから」

「それはどうも」

 自分のファンなのだろうか、狂信的な追っかけをしている情緒不安定なファンはD’ARCにももちろんいて、そういうのに付き纏われた経験もあるが、目の前にいるのはそういうファンとも違うようだった。

「あんた、なに? 俺らのファン? 樹に似てるけど、兄弟かなんかなの」

「その、樹、という人間に、なっても構わない」

「……言っていることの意味がわからない」

「これ」

 まったく会話が噛み合わないまま、それは小さな紙切れを守屋に差し出した。蔦枝の電話番号が書かれてあるだけの紙片は、このスタジオにも貼ってあるD’ARCのメンバー募集のチラシの、破って持ち帰れるようにしてある連絡先の部分だった。受け取ろうとして手がふれたとき、守屋の指先に静電気が起きたような微かな痛みが弾けた。

「ああ、なんだ、チラシ見て来てくれたの? 歌えるのか、あんた」

「歌いたい、ユヅルのギターで」

「そう、有り難いんだけど、うち、リーダーが気難しいからさ。ちょっと歌ってみてもらえないかな。時間、ある?」

「時間はもうあまりない。有限になってしまったから」

「えっ?」

「今、歌えばいいか」

「今からか、まあ、今からでもいいよ。とりあえずいちばん近いカラオケ行くか」

 この正体不明のものが少なくとも普通の人間ではないことは、この時点で守屋にはわかっていた。連れて行ったカラオケ・ボックスでぶ厚い曲目の索引を渡し、どれでも好きな曲を一曲歌え、と言うとそれは「アヴェ・マリア」を選んだ。歌い出してすぐ、それの正体を守屋はほぼ確信して、蔦枝に連絡を入れた。練習から解放されたばかりのところを呼び戻されて不機嫌きわまりない状態でやってきた蔦枝は、歌声を聴くやいなや顔色を変えた。

 繁華街の小汚いカラオケ・ボックスにはまったく不似合いな、高く澄んでいながら鋼のように強靭な声だった。

「名前、なんていうんだっけ」

「羽鳥イツキ」

 今度は迷いなくそう名乗った。守屋がその名で呼んだからそう名乗ったのは明白だったが、守屋は何も言わなかった。

「なるべく早く、できるならすぐにでも活動に加わって欲しいんだけど、仕事の都合とかどう? 大丈夫そうかな」

「構わない、いつでも歌える」

「そうか、よかった。じゃあ連絡先を教えてくれ」

「電話番号とか、住所とか」

「……わからない。こっちに来たばかりで、居場所がまだない」

「ふうん、上京してきたのか。さてはわけありだな。何でもいいよ、歌ってくれるなら」

 蔦枝はあっさりそう言って、まったく素性の知れないそれを新たなヴォーカルとして加えることを即決した。バンドが売れて、活動に支障がなければメンバーの素性や私生活などどうでもいい、とも蔦枝は常々豪語していて、実際、ギターの音が気に入ったというだけで守屋のようなものを正体に薄々感づいていながら平気で在籍させておくぐらいだから、本心からバンドがうまくゆきさえすればどうでもいいのだろう。

「今晩、行くところはあるのか。……ないよな。守屋、とりあえず面倒みてやってくれないか。あんたが拾ったことだし」

「わかった」

 立ち去りぎわに、蔦枝は柄にもなく真顔で言った。

「……天使の歌声だな」

 実際、そのとおりだったのだ。

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