束の間の平穏
ホームに降り立つと虫の鳴き声が雨のように降りそそぐ。照りつける日差しは汗で冷えた体を温め、凍えた心を溶かしてくれるようだった。
「これ」
父の声と共に目の前にペットボトルが現れた。ラベルを見ると茶色地に透過された白で大陸語の文章が書き連ねてある。その上から判を押したように“茶”と言う文字がプリントされていた。ペットボトルの中で半透明の茶色の液体が揺れている。
お父さんはいつの間に買っていたのだろうか。受け取ったボトルは結露していて僅かに手が濡れた。
「脱水は危険だからね」
「ありがとう」
一口飲むと渇いた体にひんやりとした液体が染み渡る。鼻に抜ける茶葉の香りは以外にも香ばしさはなく青々とした爽やかさで先ほどまでの鬱々とした気持ちまで塗り替えてくれた。
風に頬を撫でられつい視線を上に移すとトタンのように波打つ半透明の屋根が日差しを幾分和らげているのが見えた。古い駅なのだろう。蔦が絡まり、ところどころ脱落している。まるで時が止まったようなこの場所に終末を思った。こういう景色は好きだ。
————世界に自分だけだと錯覚するから、なんて言ったら隣の父は悲しむだろうか。いや、そんなことはないだろう。この人にとって私はどこまで行っても付属物だから。
思考を排除するように父に向き直ればちょうどお茶を飲もうとしていたようで血色の悪い歯茎を覗かせて父が口を開けていた。
何だか久しぶりにこの色を見た。昔はこの人も豪快に笑っていたのに今では眉間の皺の方がよく目立っている。寂しくなって抱きつけば暑いと怒られた。
「ここの近くに市場があるって聞いたんだ。聞き込みついでに必要なものを調達しよう」
私を引きはがすと父はポケットから取り出したハンカチで頬を拭って言った。
「あいよ」
私もカバンから取り出したタオルハンカチでペットボトルの水滴を丁寧に拭きながら答える。
「何だぁその気の抜けた返事は」
「別に良いでしょノリだよノリ」
誰もいないホームで軽口を叩きながら私達は駅を後にした。
駅は山の中腹にあったようで使われているのかいないのかわからない廃墟然とした家の間を縫うように坂を下るとやがて活気にあふれた大通りが見えてきた。胡川と違いショーウィンドウの並ぶ通りや車をかき分けるように走る路面電車を見ると大きな街であることが伺える。色とりどりの服を着た人々が色を添えて私の気分も高揚した。
「この辺りは港が栄えているらしいからね」
そう言うと父はいつから持っていたのかガイドブックを片手に私を案内してくれる。確かに歩いている人の服装もハイカラで人種も多種多様だった。港町というと漁港や異国情緒漂う歴史の街と言う印象を持っていたが、ここはどうやら現役らしい。もしかしたら珍しい掘り出し物を見つけられるかもと胸が高鳴るがそれには目もくれず通り過ぎていく父について歩く。私たちの目的は人探し。
――それでも視線が散るのは多めに見て欲しい。
父は大通りをまっすぐ歩くと左の小道に入った。その裏通りは人通りこそ少ないが治安の悪さは感じられない。それどころか穏やかな空気を感じる。おそらくこの辺りに住んでいる人向けの商店街なのだろう。歩いている人々の服装も日常の延長線上にあるような落ち着いた装いが多い。
目移りする私をよそに父は通りに入って三件目の店のドアをくぐった。私もショーウィンドウに並ぶマネキンを横目にドアを潜る。ドアに取り付けられたベルの音が涼しげに鳴った。
外から見ると薄暗かった店内は豪華なシャンデリアが天井から吊り下げられ思ったほどの暗さは感じなかった。それに一歩中に入れば冷たい風とアロマの香りが出迎えてくれる。流れている音楽はこの地域の古典音楽だろうか。
奥に視線を移すと女性がにこやかに挨拶をする。店主だろうか、黒いレースのブラウスには鮮やかな薔薇の花の刺繍が施され店の雰囲気とよく合っていた。思えば外に飾られたマネキンも金やピンクの派手な民族衣装に豪華な刺繍が施されていた。あれは着る人を選ぶ服だと不安の種が芽生えたが視界の端で父が何着か手に取っているのを見て私も観念して服を探すことに決めた。
ハンガーラックにかけられた服を物色し、町に馴染めそうな体のラインが出るワンピースを二着、それから肌着を三着ずつとブラウスにパンツを一着ずつ手に取った。どれも安くて捨てていくには丁度いい。それに店主の趣味と店に並ぶ服はまた別のようで私にも着やすい無難な服が多かった。それこそ目の前の通りを歩く人々のような服だ。
私がレジに向かうと「それでいい?」と父の声がかかる。どうやら買ってくれるらしく、私の手から服を受け取った。
「うん……あ、待って」
父がカウンターに商品を置いたそのとき私の視線の先に赤いリボンが入った。それを見て一瞬浮かんだのは
「ほかに何かあった?」
父の問いかけで我に返る。何でもない、と返せば父は私の返事を受けてさっさと会計を済ませた。
————そもそも緋紅を思い出すから何だというのだろう。そう思うのに、お父さんが差し出した紙袋を受け取りつつも私は何となく赤いリボンを見つめていた。
「ありがとうございました~」
朗らかな店主の声を背中に受けて私たちは猛暑の世界に戻ってきた。息をするのも苦しくなるような暑さに毛穴からは思い出したように汗が噴き出す。父はポケットに忍ばせたハンカチを取り出すと口元と額を拭いサングラスをかけてガイドブックを開いた。
――——いつの間にサングラスなんて買っていたのだろう。ご丁寧に怪しげな大陸人のような小さい丸眼鏡だ。今の店だというのなら一言声をかけてくれれば私も買ったのに。
軽く睨みつければ何か誤解させたのか父は笑顔を作った。
「お昼には早いからお茶にしよう」
そう言うと父はガイドブックの一ページの角に折り目をつけて歩き出す。私はタオルハンカチで汗を拭うと父の横に並んだ。
父の目的地は先ほどの洋裁店の目と鼻の先にあった。蛍光灯に照らされた店内には茶器のぶつかる音と天井で回るファンの音が響く。汗が引っ込んでしまうような涼しさの中で私は温かいお茶を頼むことにした。父は舌を出して顔をしかめたが、この中で冷たいお茶なんて飲んだらお腹を壊してしまうと私の感がささやいている。それを察してか父も同じものを頼んだ。
父は注文を終えると煙草を吸ってくると言って店から出て行ってしまった。一人取り残された私ら仕方なく店内を見渡す。先ほどのお店もそうだが、扉のデザインがかわいらしい。色のついたステンドグラスが嵌っていて細かい柄がキラキラと光っている。それから入り口を隠すような衝立も大陸らしい繊細な編み目のような柄で品よく地域性が取り入れられていた。
壁紙が金色なのはやりすぎだと思うが描かれた蓮の花が美しい。タイルも大理石柄で地元向けながら高級感を漂わせていた。
暫くして他の客が半分に減った頃、店員が現れた。
「お待たせいたしました」
店員が運んできたのはシンプルな白磁の茶器で見慣れない道具が並んでいる。不思議そうに眺める私を見て小さく笑うと店員は丁寧に淹れ方を教えてくれた。
「まずこの器に入ったお湯で蓋碗を温めます」
そう言うと店員は蓋のついた湯呑にお湯を張り、少ししてその湯を別の容器に移し、またお湯を注いだ。私は慣れない淹れ方に興味を惹かれて元を見つめる。しかし店員の動きが早くて覚えるのはすぐに諦めた。
「そうしたら湯はここに捨ててください。次に茶葉を入れ、お湯を注いでから三分ほど蒸らし、蓋を少しずらしてお召し上がりください」
そう言うと丁寧に頭を下げて店員さんは業務に戻っていった。それと入れ違いに父が戻ってくる。暑い暑いと汗を拭い、腰を下ろすと程よく出来上がったお茶を見て肩をすくめた。
「こうやって飲むんだって」
私は父に見せるように右手でお茶を、左手で蓋を持って飲んで見せた。
「うわ、美味しい……」
思わず声が出る。鼻に抜ける濃い茶葉の香りにさっぱりとした後味が優しく胃を包んでくれるようでなんだか食欲がわいてくる。暑さに弱った身体に活力が湧いてくるようだった。帰るときお茶と茶器を買っていこうとひそかに決心する私をよそに先ほどまで外にいた父は「熱い」と泣き言を漏らした。
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