悪夢 ※

 翌朝、視界に飛び込んできたおよそ私の趣味とは掛け離れたカーテンを見て大陸に渡ってきたのだと思い出した。徐に起き上がると備え付けのスリッパを履いて窓際へと近づく。全身に太陽光を浴びて覚醒するまでの僅かな時間をソファで過ごす事にした。夢と現実の間を揺蕩うようにうっすらと目を開けているとなんとも言えぬ満ち足りた感情が私を包み込む。

 ————瞼が軽くなる頃、私はようやく立ち上がり支度を始めた。顔を洗って入念にスキンケアを行ってからクーラーの下へ移動する。昨夜洗って干しておいた服はまだ少し湿っていたが歩いているうちに乾くだろうと袖を通す。ひんやりとした布がわずかに張り付いた。

 部屋から出るとちょうど父も出るところで予定調和のように二人並んで食堂に向かった。

「おはようございます」

 食堂に着くと緋紅フェイホンが笑顔で出迎える。中を見渡すと昨日居合わせた宿泊客の他にも地元民らしき客がいて賑わっていた。私は父と中庭側の席に座り汚れたメニューを見てお粥を頼んだ。昨晩のお粥がとても美味しく、私はすっかり魅了されてしまっていたのだ。お父さんは麺を頼んでいた。

 すぐに運ばれてきたのは小ぶりなどんぶりに並々と注がれたお粥でパンが添えられている。それから付け合わせの小鉢にお父さんの頼んだ麺が運ばれてきた。赤いテーブルに白い料理のコントラストが映える。

 それも美味しそうだと言えば明日頼めば良いとお父さんは麺を啜った。穏やかな時間に私は少し安堵した。父は一言余計な人だから二人きりだと意味も無く気疲れしてしまうが、ここへ来てからはそれを忘れてしまえるほど父との時間が穏やかだった。もしかすると父は私が思うより気遣いのできる人なのかもしれない。

「ごちそうさまでした」

「ごちそうさまです」

 私とお父さんは朝食を済ませると駅に向かって歩き始めた。まだ人々の活動時間より早いため通りはひんやりと冷たい空気に包まれている。その清々しさに早起きは三文の徳という言葉が浮かんだ。

 こうしているとなんだか家族旅行の朝のようだ。四人での旅行では眠る母と兄を部屋に残して父と周辺を散策する。その中で日常とは違う日常を垣間見ることができるのだ。思えば父と二人の時間というものをこの十年置いてきてしまった。気付けばすっかり顎の垂れた横顔に私は寂しさを覚える。

「どうかした?」

「ううん、ただ時間の流れは残酷だなって」

「そう?……このくらいがちょうど良いよ」

「ははっ何それ」

 父の真意はわからなかったが得意げに笑む口元に私はそう言うものかと一人納得した。

 やがて駅が見えてくるとその裏手に聳える山の中腹に真っ赤な建物が建っているのが目に入る。

「あれか……」

 萌ゆる緑の山に猩々緋の建物はよく映えた。それは私達の感覚だとラブホテルにしか見えないが、あれがどうやら宗教団体の根城らしい。

「“あれ”って?」

 父が私の視線の先を追うように見て言った。

 父はどうやらあの建物が何かわかっていないらしい。その様子から木佐貫さんがあの話を私にしかしなかったことがわかった。理由を滞在中に聞けるだろうか。

「この辺りの宗教知ってる?」

「……一応。そう言うことね」

 父は納得したようでそれ以上は特に何も言わず駅の中に入った。

 駅の中はさすが田舎と言ったところか人の姿がほとんどなく寂れた印象だった。光は最小限で、窓から差し込む日差しが薄暗い駅舎の中を浮かび上がらせている。奥へ行けば蛍光灯の灯りが煌々とホームを照らしていた。

 周囲の人達が大きな荷物を持っているところを見るに旅行客らしい。

「彼らもお仲間だな」

 父はそう言うと弛んだ顎で彼らの手元を指した。そこには赤いハンカチのようなものが握られている。

 赤は彼らの象徴だ。

「目を合わせるなよ」

 その時私は父の意図に気づいて顔を見る。そこには仕事をする父の顔があった。

 大陸に渡ってからは大陸語を話していた父だが思い返せば二人きりになると島国の言葉を話していた。始めは気を抜いているのだと思っていたが違うらしい。彼らに話の内容を聞かれぬためだ。父は初めから彼らを怪しんでいたのかもしれない。


「今日は移動がメインになる」

 電車のドアが閉まると父が言った。

 車内は空いていた。と言うよりこの車両の中に私と父以外の人間はいなかった。

「どこに向かうの?」

「さあ」

 父は反射的に答えて私の顔色を窺うように覗き込むと、苦笑した。

「いや、明確にどこって言うのは無い。ただ嫌な空気がどこまで伸びているのか確認できれば捜索範囲も絞れると思ってね」

「そういうことか」

 父の言葉に納得しつつ周囲を伺う。やはり私たちの他に人はいない。

「私はあの赤い建物にいると思うよ」

 私が父を見ると父は怖い顔で私を見下ろしていた。喉が鳴る。父がこんな顔をしたのを初めて見た。

「……その話はやめよう」

 父は低い声で言うとそのまま私たちの会話は途切れた。

 車窓を流れる景色に目線を向けながらも私の目に映るのは父の顔。きっと今私の顔は強張っているのだろう。ふと、私は荷物棚に置かれた誰かの忘れ物に目を留めた。焦茶色の旅行カバンだがファスナーが少し開いている。そしてトンネルが切れた一瞬外の光が差しファスナーの中がきらりと光った。

 私は思わず視線を下げた。あれはおそらくカメラだ。なぜ、誰が?そんな疑問が渦巻く。やがて電車が駅に着くと不気味なほど笑顔を張り付けた人々が私や父と一定の距離をとるように座った。彼らは皆形は違えど赤い服を着ている。

 ドアが閉まると彼らは近づいてくることはないがこちらをじっと見つめている。皆一様に仮面のような笑顔を貼り付けている様は喉の奥から競り上がってくるほどの不気味さで私は自然と父の服を掴んだ。

 父を見ると何でもないように穏やかな顔で流れる電光板を眺めている。無視を決め込むつもりなのか、はたまた気がついていないのか、何れにしても私はこの場から立ち去りたくて堪らなくなった。

 粘度の高い汗が額を伝う。息苦しくて口を開くと喉の奥まで干上がっていたことに気づいて咽る。泡だらけの唾液がせりあがって、体が震える。まるで貧血になったようで脳が揺さぶられるのに意識だけはどこまでもクリアだった。

 視線、ああ、視線だ。こちらに向いている。私を見る無機質な玉が胸の奥底の不安を煽った。


 クーラーの効いたオフィス。口に広がる苦味。私を見下ろす男と多くの視線、視線、視線!視線‼――――このまま消えてしまいたい。全てを捨てて楽になりたい。こんな体、捨ててしまいたい。


「どうしたの?」

「はっ……」

 どうやらトリップしていたらしい。隣にいる父が心配そうに顔を覗き込んでいた。

「……ううん、何でもない。何でも、うう。帰りたい。ああ、嫌だ。ここにいたくない、出して……出して!外に出して‼」

 私は立ち上がると急いでドアに向かい体当たりでもするようにもたれた。そして走行中だとわかっていてもドアが開くようにと必死で爪を立てる。

 ――苦しい、気持ち悪い、助けて、誰か助けて‼

 叫んでいるはずなのに声にならない。辛くて自分の喉を抑え絶叫するように力を入れた。けれど声にならない。ああ、最悪だ。私はこのまま死んでしまうのだ。為す術もないまま、こんな知らない異国の地で――――。


 ――それも、いいかも。なんて。


「しっかりしろ!」

 父の聞きなれない悲痛な叫びに私の意識は引き戻された。私はどうやら夢を見ていたらしい。座ったまま父の肩に頭を乗せていた。体中が雨に打たれた後のように汗でぐっしょりと濡れ、体は風邪をひいてしまいそうなほど冷えていた。いつも乗る島国の電車よりずっと冷房がキツい。そんなことを考える余裕も生まれていた。

 不意に父のクリームパンのような大きくて柔らかい右手が私の頭をなでる。それは不思議なことに触れるたびに心の奥に巣食う毒を洗い流すようで心が軽くなっていく。気づけば息苦しさはなくなっていた。

「ありがとう……」

「うん……次で降りよう」

 父はそう言うと手に持っていた上着を私の肩にかけてくれた。父の温もりと嗅ぎ慣れたオーデコロンの香りが私の心を癒してくれる。ふと車内を見渡せばここに居るのは私と父の二人だけだった。

 爽やかな緑の葉が車窓の向こうに広がる頃には私もいつもの調子に戻っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る