緋紅
手持無沙汰な私は他のお客さんにもお茶を提供する男を目で追う。その姿を見る限り彼が無愛想なのは私と父に対してだけのようだった。
いったいなぜ?と考えながら何気なく視線を外に移してはたと気づく。
先ほどの私は声をかけられるまで彼には気づかなかった。しかし、彼は声をかける前から私達を見ていたのかもしれない。つまり、残念そうな顔でこの宿に向かってくる私を見ていたと言う事で——。
恥ずかしさから私は俯いた。先に失礼な態度を取ったのは私だったのだ。きっと彼はここを凄く大切に思っていて、だからこそ私の行動に傷ついたのだろう。父に至っては完全にとばっちりである。
そうではない可能性もあるが、そうとしか考えられないのだ。申し訳なさと居た堪れなさから口の中が渇いてしまい湯呑みに口をつけた。氷で冷やされたお茶がゆっくりと喉を伝っていく。爽やかなお茶の香りが鼻に抜けると幾分心が安らいだ。この辺りの名産品なのだろうか――ってそうじゃない‼
やがて配膳を終えた男は真っ直ぐとこちらへ近づいてきてなぜか私の前の席に腰を下ろした。
「え?」
驚いて彼の顔を見る。彼は何も言わず探るような目つきで私を見た。
「えっと……」
吸い込まれそうな瞳に戸惑う。彼が何を考えているのかわからない。わからないが、もしかするとこれは名誉挽回のチャンスかもしれないと思い直す。
「先ほどは失礼いたしました」
私は頭を下げた。それに対する反応は無い。顔を上げると相変わらずビー玉のような瞳と目が合うだけだ。その能面のような無機質さを人は不気味と言うのだろうか。けれど私にはやはり美しく映った。だからだろうか、焦燥感に憑りつかれるのは。
「見るからにがっかりしてたと思うんですがあれは親子としてのノリでこの宿を貶す意図は無かったんです。でも貴方からしたらそんなの関係無いですよね……ごめんなさい」
改めて深々と頭を下げると彼はようやく口を開いた。
「俺の名前は
そう言うと緋紅は深々と頭を下げた。
「や、やめてください!気にしてませんから……」
慌てて立ち上がる。
悪いのはこちらなのにこんなことをされては居た堪れない。私達の声に向こうで思い思いに語り合っていた人達も何事かと耳を向ける。私は喉の上まで熱くなるのを感じて緋紅の影に隠れるように座り直した。
「ふふっ、おあいこだな」
恥ずかしがる私を見て笑う緋紅に私の胸は強く脈を打った。おかげさまで喉の奥が震える。
「さて、そろそろ部屋に案内させていただきます」
緋紅は立ち上がると突然丁寧な口調で接し始めた。それは店員として当然の行動であるがどこか寂しさを覚えつつ私は促されるままに立ち上がりその後に続いた。が、食堂の扉に彼が手をかけた時父の存在を思い出した。
「待って下さい、父を呼んできます」
「いえ、案内する部屋は貴方の一人部屋ですから」
彼の言葉の意味が分からず首を傾げると私たちの様子に気づいたらしい父も駆け寄ってくる。そんな私たちに緋紅は簡単に説明をしてくれた。
「本日は一部屋分キャンセルが出てしまったので失礼な態度をとってしまったお詫びに元の料金でもう一部屋ご用意させていただきました。そのためまず先にお嬢様の方をご案内しようと思った次第です」
そう言うと緋紅は深く頭を下げた。
これ以上彼を追及する事は憚られるとして私はその申し出をありがたく受け入れることにした。父はスズちゃんの件もあって慎重だったが小学生を狙う犯人が私のようなニートを狙うとも思えないと説得して——その結果腹立たしいほどすんなりと納得してくれた。
本音を言ってしまうと父の鼾から逃れたかったのだがこれは父には内緒だ。
気を取り直して緋紅の後ろをついて行く。
長い廊下を進んでいくと突き当りの部屋の前でようやく緋紅は足を止めた。どうやらそこが私の部屋らしい。
「父親の部屋はすぐ隣だから安心して欲しい」
私と父のやり取りで変に気を遣わせてしまったのだろうか。彼は表情こそそのままだったが声色は少し柔らかかった。
「ありがとうございます。さっきはあんなことを言ってしまったんですが、本当は父の鼾から逃げたかっただけなんです。父には内緒ですよ」
少しのおふざけをスパイスにお礼を伝えると緋紅は呆気にとられたように目を丸くしてから柔らかい表情を浮かべた。写真に収めたい衝動を堪えつつ緋紅が抑えてくれているドアを潜った。
部屋は角部屋で私が一人で泊まるには広さがあった。細かい花柄の壁紙が何とも言えないおばさん感を醸しているが濃い木のフローリングや色を合わせた家具はバランスが取れていて気に入った。私は近くのコンソールテーブルに荷物を置くと緋紅の説明を聞く。
「ここは元々新婚夫婦が泊まる予定だったのでベッドはダブルでアメニティも二人分置かれています。クローゼットはこちらをお使いください。この扉がシャワールームで、この向こうには浴槽もあります。また、この部屋の一押しは……どうぞこちらへ」
てきぱきと扉を開け閉めしながらテンポよく案内してくれる。
私は顔だけ覗き込むようにして緋紅の後をついて回り、彼に手招きされるまま掃き出し窓の方へ向かった。彼はそれを開くと手を一段降りて手を差し出してくれる。それに手を重ねて踏み出せばそこは中庭に面したテラスだった。
「以前の持ち主はイングリッシュガーデンが好きだったようで、その名残として今も中庭を残しているんです。この部屋は唯一中庭に面してテラスが設けられた部屋なんですよ。お客様さえよろしければ、朝食をこちらに運ぶことも可能です」
流れるような説明も右から左へ流れてしまうほど目の前の美しさに圧倒される。彼の言う通りイングリッシュガーデンの様相ではあるが、配置されたエクステリアは大陸風のもので昔で言うところの中華風なデザインだった。ジダイゲキに出てきそうな庭に胸が躍る。
「気に入っていただけましたか?」
突然顔を覗き込まれ私は思わず後ずさる。流石にこの美しい顔がゼロ距離と言うのは心臓に悪い。彼は不思議そうに首を傾げるだけで——顔がいい人は容姿に無頓着というのは本当なのかもしれないと羨ましくなった。
「はい、とっても!ですが、本当に良いんですか?お詫びとはいえこんな素敵な部屋を一人でなんて……それに、悪いのは私なのに」
言葉が尻すぼみになってしまう。緋紅の方を見る勇気が持てず俯いたまま言葉を繋げた。決して嫌なわけでは無い。むしろ十分すぎるほどだ。だからこそ自分には分不相応に思えてならない。
「先ほども申し上げましたがもう悪く思う必要はありません」
努めて穏やかな声が私の後頭部に降り注ぐ。
「顔を上げてください」
穏やかで柔らかい声だ。――けれど。
顔を上げると冷たい瞳と目が合う。吐く息が白く染まりそうなほど冷たい瞳と。幸いにも奥歯が鳴ることは無かった。ただ私はそれ以上余計な事を言うまいと彼の好意をありがたく受け取ることにした。
扉が閉まり宿の中で一際広い部屋の中で私は一人ようやく腰を落ち着けた。けれど漠然とした不安がべったりと体に張り付く嫌な感覚がある。
それを振り払うように私は父にメールを送った。
『三十分後にエントランスで待ち合わせよう』
父からの返事を確認して一服しようと湯を沸かす。緑茶と書かれた袋からティーバッグを取り出すと甘い茶葉の香りが鼻に抜けた。とぽとぽと注がれるお湯、立ち上る湯気に徐々に心が落ち着く。
ローテーブルにカップを置いて私もソファに腰を落ち着けた。お茶を飲みながら鞄の中を整理する。持ち運び用の小さい鞄にパスポートや財布を含めた荷物を移してからクローゼットに鞄をしまう。ちょうどお茶を飲み終えた私は少し早いが先にエントランスで待つことにした。
長い廊下を戻り階段を降りると右手に中庭へ続く窓が見えた。どうやらここからも外へ出られるらしい。後で時間が取れた時にでも父と出てみようかと考えてエントランスへ向かった。
エントランスには誰もいなかった。受付にも誰もいないのは飛び入りの客など来ないからだろうか。それとも夜に向けて仕事を追われているのか、私はロビーに置かれているベンチに腰掛けて父を待つことにした。
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