胡川

 目を覚ますと電車はまだ海の中だった。黒い影が時折窓の向こうを横切ると眠気の波が押し寄せてくる。何度か繰り返したのち私はようやく体を起こした。消えていた部屋の明かりをつけるとそこに父の姿は無く、代わりに書き置きがある。どうやら食堂へ向かったらしい。私は父の帰りを待つ間次の就職先を探す事にした。

 父は思いの外すぐに戻ってきた。私はと言えば目立った収穫もないためさっさと携帯を閉じてベッドに座り直す。

「お腹空いてない?」

「んー……寝起きだからね」

「そろそろ着くから何か食べるなら売店に行っておいで」

 父はそう言うと財布から一万円札を出した。私はそれを受け取るとパーカーを羽織って父が来た方に向かって歩く。売店は食堂車の向こう側にあった。

 狭い廊下を時折道を譲り合いながらすれ違いようやく売店に辿り着いた。時間にして五分にも満たないが気分はさながら冒険者だった。

 私は列車と同じロゴの袋を持つ夫婦に道を譲ってから売店の入った車両に足を踏み入れた。中は他の車両よりも幾分明るく、木製のカウンターに真鍮の装飾が施されたそこは西洋的なデザインだった。だが私にはその空間を満喫する余裕はなかった。と言うのも売店は賑やか過ぎたのだ。厳密に言うと買うつもりのない学生と思しき三人組があーでもないこーでもないと物色しては一言二言付け加える声が大きかった。

 彼らを見る周囲の目は冷たかったがそれも気にならないお年頃なのだろう。私は肩をすくめて一歩下がったところから商品を眺めた。

 ふと視界に入った店員も迷惑そうにしているが誰も注意しようとしないのが流石我が国といったところだろう。

 私は適当におにぎりとお茶を選ぶと三人組を分けるように店員に渡した。三人組はそこでようやく静かになった。耳打ちすらもしない。

「三点で三千二百五十九円になります……」

「うげっ流石観光価格……これでお願いします」

 外で買えば半額なのにと肩を落としつつも目当てのものを買い終えた私はさっさと父のもとに戻る事にした。背後では私と言う異物が取り除かれた開放感からか一層三人の賑やかな声が響いていた。

『間も無く慶安に到着いたします。お忘れ物をなさいませんようご注意ください。本日は海底鉄道をご利用いただきまして誠にありがとうございます』

 涼やかな声のアナウンスが海底鉄道の中に響く。一瞬の静けさの後車内は少しずつ騒がしくなった。皆下車の支度を始めたようだ。私も出遅れないようにと客室へ急いだ。


 慶安に着いてから私達は電車を乗り継いで山間の田舎町、胡川へ向かった。大陸は地下鉄が発達しているらしく私達は地上に出ることの無いまま目的地へ辿り着いた。

 改札を潜り抜ければ石の壁に設けられたすれ違える程度の幅しかないアーチの先から光が差し込んでいた。そのアーチを潜り抜けると何とも郷愁を誘う街並みが広がっている。舗装されていない道の両側には建物が並びその前には等間隔に電柱が立っている。人々の服装は都市部と変わらないためそのアンバランスさが私の心をぐらぐらと刺激した。

「この先の宿をとってあるんだ」

 携帯の地図を見て歩く父に続いて私も駅から出た。日差しが強い。目を細めると少し先で父が振り返り逸れないようにと声をかけてきた。私は汗が噴き出すのを感じながら小走りで父の隣へ立つと肩掛け鞄を前に持ち直して父の歩幅に合わせた。

「そろそろなんだけど……」

 父が唸った。画面上でピンが立てられた場所は駅から一本道で確かにこの辺りのはずだ。目印になるお店や敷地の区画から大体の位置を把握して顔を上げると道を挟んで両側に宿屋が見えた。

 左側の宿は瓦の乗った壁が続き少しいったところに大きな門がついている。残念ながらその向こう側は植えられた竹林によって阻まれ様子はわからない。それでも澄まし顔の女が入り口の脇に立っているのを見ていわゆる高級宿だと言うことはわかった。

 右側の宿は赤い瓦の乗った白い外壁の建物で、道に面して赤に塗装されたテラスが突き出していた。正直なところ、この宿は汚れが目立つしお世辞にも立派とは言えない。私は宿泊予定の宿がどちらかなど理解した上で左側の宿に入る事を祈った。

「ここだ」

 そう言うと父は赤い瓦屋根の宿へ向かって歩き出す。私は少しがっかりしたがそもそも観光目的ではないと思い直して父に続いた。

 改めて見ると汚さはあれど建物そのものは悪くない。道に向かって伸びるテラスは町を望みながら茶を楽しむのに適しているし、二階に大きくとられた窓も開け放てば風が入ってきて心地よい事だろう。元になったデザインとしては二百年ほど前にあったと言う遊郭だろうか。本来ならあの窓ガラスが無く、そのまま遊女たちが顔を出して呼び込んでいたであろうことは容易に想像がつく。構造的に色を感じる点もあるが薄汚れた状態が健全さを表しているようにも見えた。

「お前たちは客か?」

 入り口脇のテラスの方から男の声がした。

 ちょうど敷地に足を踏み入れたのだがあまりにも無愛想な言い方にこちらも喧嘩腰になって勢いよく振り返った。

 そこにいたのは私とそう年の変わらない男だった。建物の瓦屋根と同じ赤い衣に身を包み、川の流れのように艶やかな黒髪がひとまとめにくくられている。箒を握るごつごつとした手に袖から覗く逞しい腕は白く、それから——それから、その顔は今まで見た誰よりも美しかった。そう、美しかった。まるで芸術品のような顔に直前までの思考も感情もどこかへ飛んで行ってしまう。

 不機嫌そうに歪められた顔でさえ生きた彫刻のようであった。

「予約していた相楽さがらと申します」

 父もその男の美貌に圧倒されたのかいつもとは違う調子だった。

「確認するから待ってろ」

 尚も無愛想な男にようやく父が眉をひそめたその時、男の背後から一人の女性が現れその頭を叩いた。

「痛っ」

 離れた私たちにも痛みが通じるような鈍い音に男は頭を押さえた。

 男の後ろに立つ女性はおよそ五十代くらいで美しくふくよかだが目じりやほうれい線など年相応な要素もあった。なるほど親子なのだろう、慣れた距離感に顔立ちも似ている。

「申し訳ございません、二名でご予約の相楽様ですね。ただいまお部屋の準備をしておりますので支度が整うまで二階の食堂でお待ちください」

 女性はそう言うと頭を下げた。

 男は箒を立てかけると一度私を睨みつけてから食堂とやらに案内してくれた。

 エントランスと一体になったロビーを抜けると左奥に階段が見えた。そこを上がっていくと先ほど外から見えたガラス窓の広い部屋に着いた。

 予想通り開け放たれた窓から差し込む風が心地よく体を吹き抜けた。そこには私たち以外の宿泊客もいて、夫婦なのかビジネスパートナーなのか派手な二人組や母子で来ている二人、そしてその中には売店で見かけたあの迷惑な学生三人組もいた。

 思わず顔を顰める私をよそに、従業員の男は私たちを案内するといつの間にかどこかへ行ってしまった。

「ちょっと聞き込みしてくる」

 父もそう耳打ちするとさっと人々が集まる方へ行ってしまう。

 父がまず話しかけたのは胡散臭いサングラスの男だった。隣の女は退屈そうにネイルを見ている。男は創作物でよく見る私立探偵か三流ゴシップ記者かはたまたチンピラまがいの成金か。少なくともわが父ながらよく初手であそこに行けるなと感心してしまうような風貌だ。女の方は胸と腹と尻に大小の浮き輪を巻いたような体型で体の輪郭をアピールするようなワンピースを着ている。そしてヒアルロン酸を注入したような唇をしていた。

 すっかり輪の中に溶け込んだ父を見届けて私は窓際の席に腰を下ろす。

 風が心地よい。ふと窓にかけられた風鈴が爽やかな音を立てた。

 自分以外は向こうの方で団子になっている。どこか遮断された空間の中で私は居心地の良さを噛みしめた。

 ——誰も自分に興味の無い世界が私の居場所だから。

 なんとなく外に目をやって視界に入ったのは向かいのお高い雰囲気を醸した旅館。なるほど竹林の向こう側には緑の瓦屋根が乗ったシックな建物が見える。平屋の様でその向こう側には田園と緑の山々が広がっていた。どこまでも広がる自然を前に私は今更ながら異国に足を踏み入れたのだと実感する。

 赤く塗装された木のテーブルに突っ伏して空を見上げた。空は痛いくらいの青空だった。目的を忘れここに居たいと思ってしまう。そっと目を閉じて周りの音を聞いていると風鈴の音の影のように父の話声が聞こえてきた。

「……あんた話がわかるなあ、それじゃあ俺のとっておきの店を教えてやるよ」

「ありがとうございます……」

 聞こえてくる断片から今日の夕食のお店が決まったと知る。

 相変わらず喧しい三人組の声も聞こえてきた。

「やっぱりあれさっきの人だよな?」

「覚えてねーよ」

「女将さんくらい美人じゃないと記憶に残んねえよなあ」

 会話の前後は知らないがひょっとすると私に対してとても失礼な話題なのかもしれない。ふと彼らに視線を向ければこちらに向いていた六つの目玉が慌てて四方に散った。けれどそれぞれが私にチラチラと視線を向けてくる。こういうノリは嫌いだ。

 再び視線を外に戻した時、どんと音を立ててテーブルの端に湯呑が置かれる。見れば従業員の男が立っていた。

「ありがとうございます」

 笑顔を作ってみせた。離れたところに置かれた湯呑みを引き寄せてる間立ったままの男が気になって見上げると少し驚いたような彼と目が合う。

「あの……」

 どうかしましたかと尋ねる前に男は離れて行ってしまった。

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