第38話 疾走トライアングル
しんみりとした空気の中で食べた弁当の味は果たして悲しいほどに美味かった。
千歌の分と雪菜の分を合わせて一人前と半分ぐらいだろうか。
昼飯の前は体力が尽きて走れなさそうだったけど、今度は食い過ぎで走れなさそうだ。
人気競技の綱引きは、雪菜も頑張っていたけど残念なことにうちのクラスは予選敗退だった。
その代わりってわけじゃないけど、リレーでの優勝は確約されているようなものだからあんまり気を落とすものじゃない……っていうのも変な話なんだろうけどな。
淡々と競技を終えた雪菜はしゅるり、とポニーテールに結えていた髪を解いて、制汗剤を全身にまぶしていた。
とはいえ、綱引きの決勝戦も終わって、次は借り物競走だ。
見学席に戻っていった雪菜を視線で追いかけつつ、スタンバイに入る。
別に何位だって構わないけど、二人の前であれだけ大見得を切ったんだ。一位を本気で狙うのも悪くない。
『次の競技は、借り物競走です!』
生徒会から選ばれたアナウンサーが、声高々に宣言する。
果たしてなにが待っていることやら。
ただし、例えば「理科室にある名前もわからないなにか」みたいに変なお題を引かされるのはごめん被る。さすがに生徒会もそれはわかっていると思うだろうから、信じてるぞ。
スタートラインに立った俺の心配を知ることもなく、号砲係がポジションにつく。
──オン・ユア・マーク、ゲット、セット。
号令と共にぱぁん、と火薬の炸裂音が響いたその刹那、他の走者に先行して走り出す。
運動神経はそこそこかもしれないけど、反射神経にはそれなりの自信がある。
一秒にも満たない隙だってなんだって、くぐり抜けてみせるさ。その後がどうなるかは全くもって保証しないけどな。
そんな益体もないことを考えながら、お題がしまってある封筒が置かれている地点まで、一目散に駆け抜けていく。
お題次第でゴールの行方が決まる以上、ここでアドバンテージを取る意味はあまりないと理解していた。
それでも、走り出さずにはいられなかったのだ。
「頼むぞ生徒会、頼むから変なお題なんか出してくれるなよ!」
一着で封筒が置かれた地点に辿り着いた俺は、無数の茶封筒から適当に一枚を手に取って、中身を開ける。
さっきはものの例えで理科室を挙げたけど、さすがに生徒会も校舎と校庭を往復させるようなお題は仕組んでいないはずだろう。
そうなると、確率的に高いのは「今この場にいる誰かの属性」だ。
例えば「友達」とか、「部活の部長をやっている人」とか、そんな感じになる。
それなら適当なやつに話をつけて協力してもらえばいい。
もっとも、俺の立場上、協力してくれるかは微妙なところだけども。
祈るようにつむっていた目を開いて、封筒の中に折りたたまれていたコピー用紙に手書きで記された文字を見つめる。
そこに、書かれていたのは。
『あなたにとって一番大切な人』
一瞬フリーズしていた。
あまりにもピンポイントすぎるお題だったからな。
あなたにとって、一番大切な人。俺は紙に書かれた文章をもう一度頭の中で読み上げる。
ちくしょう、なにを食ったらこんな悪辣なお題を思いつくんだ、生徒会の連中は。
よりにもよってこのタイミンクでそのお題はないだろう。よりにもよって。
このお題に忠実に従うなら、俺は今すぐ千歌と雪菜のどちらかを選んで、ゴールに手を引っ張っていかなきゃいけない。
一番大事なのは自分です、と言い張って一人でゴールすることもできるお題だけど、それをやったら俺の尊厳は間違いなく失われることだろう。
そして、生徒会も、オーディエンスもしらけ切った最悪の結果になる。目に見えたことだ。
『おっと? 先頭を走っていた土方君、お題の抽選会場で止まっています!』
「誰かー! ここに鍋持ってきてるやついねえ!?」
「お客様の中にチアリーディング部で一番ゲームが強くて一番背が高い方はいらっしゃいませんかー!?」
他の走者も無茶振りに関しては同等レベルだったらしく、必死になって客席に分け入って、お題に相当する人物を探そうと躍起になっていた。
その点でいえば、答えが二択に絞られている俺は有利だといえるだろう。
だけど、この二択は究極の二択だ。俺は、どっちを選べばいい。
時間の進みが粘りを帯びて、重たくなった空気が両肩にのしかかってくる。
雪菜との他愛もなくもかけがえのない時間で垣間見た微笑みが、交わした言葉が脳裏に閃く。
千歌と過ごした、くだらなくとも尊い時間が、そこでの会話が、いつものようにいたずらっぽく「うひひ」と笑うあの顔が、走馬灯のように明滅する。
俺は、どっちを。
どっちも同じくらいに眩しく輝いていて、どっちも同じくらいに大切なものを。
選ばなければいけない。今、ここで。
荒くなった呼吸に心臓の鼓動が同期して、世界から音が失われていく。
ちかちかと弾けては消えていく思い出の中で手を伸ばして、もがいて、掴み取ろうと握りしめても、どの記憶も指の隙間をすり抜けていく。
どっちも大事だ、という思いを抱いている限り、きっと俺は辿り着けない。
いや、違う。
俺が、俺が本当に大事だと思っているものは。なによりも大切で、ずっと──ずっと、守りたいと思っていたのは。
沈み込んだ記憶の深層で見たものは、涙だった。
今ではすっかり忘れていたこと。きっと本人も思い出したくないであろうこと。
そうして触れずにいるうちに錆びついて、風化して、見失ってしまっていたものだ。
『えぇぇぇぇん……ぐすっ……うぇえええん……』
泣くなよ、と、そう言えなかったのを思い出す。だってそれは、涙を流すのには十分すぎる理由だから。
それは、本人の力だけじゃどうしようもなくて、変えられなくて、だから──無理に周りを捻じ曲げようと、俺は。
ああ、そうだ。殴り合って、傷つけ合って、盛大に怒られて──それでも俺は悪くないと、あいつはなにも悪いことをしていないと、大人たちに意地を張り通したんだ。
『もうだいじょうぶだぞ』
『ぐすっ……ひぐっ……どうせ……どうせまた、わたしのこと、いじめてくるよぉ……なんで……なんで、わたし……わたし、みんなとちがうの……? なんで、みんなといっしょになれないの……? やだよぉ……もう、きらわれたくない……わたしだって、みんなと、いっしょに……あそびたいよぅ……』
ただ一つ、変えることのできないもの。
自分では、ましてや、子供の頃ではどうしようもできないこと。
持って生まれた「違い」という個性に、「違う」から弾き出される理不尽に、俺は。
『じゃあ、わらおうぜ!』
『……わらう……?』
『ないてたら、あいてはよけいにいじめたくなるんだってとうさんがいってた! だから!』
──笑うんだよ、こんな風に。
『……え、えへ……?』
『ちがう! もっと、こんなふうに!』
『ぅ……ぁ、ぇ……うひ、ひ……』
『そうそう!』
『……うひひ!』
そのとき、初めて笑ったんだ。
いつだってその赤い目を腫らして、涙をこぼしていた、生まれつき白金色の髪をした女の子は。
そうして俺たちは、たった二人だけの友達になった。卒園までほとんど他の園児たちからは仲間外れにされていたけど。それでも。
『うひひ、たのしーね、そら!』
俺だけは、その子の……千歌の味方であろうと決めて。
俺たちは、二人きりの友達として、その日から笑い合ったんだ。
例えそれが世界の隅っこで、誰にも気づけないくらいささやかなものだとしても。
──それを俺は、なにより大事に思っていたんだ!
「千歌!」
「えっ、なになに、急にどしたの空!?」
「借り物競走のお題だ! 協力してくれ!」
「お、おお……なんだかよくわかんないけど……いいよ、行こっ!」
説明しなくて済むのは助かる。
普段ならどっちかというと俺が手を引かれる側だけど、今だけはエスコート役だ。
他のやつらがお題探しに手間取っているうちに、俺は千歌の手を取って、一着のゴールテープを切った。
祝砲と歓声が響く中、事情はわからなくてもオーディエンスに手を振って笑顔でアピールしている千歌の横顔に視線を向ける。
綺麗だと、そう思った。
そして、伝えなければいけないことがあると。
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