第15話 水上さん来訪者
「……と、まあそんなことがあったわけなんだよ」
退屈極まりない四限の授業が終わったことで、殺気立った連中が購買へとダッシュしていった、少しだけ静かな教室。
例によって窓の隅にある自席まで足を運んできた千歌に、俺はことの顛末を話していた。
なんかよくわからないけど水上さんに嫌われたかもしれない。というかほぼ百で嫌われている。
その証拠に、俺は授業中もずっと彼女からのどこか恨みがましい視線を浴び続けていたのだ。
それでこっちが振り向くと、ぷい、と何事もなかったかのように顔を逸らすんだから本当にわからない。
女子という生き物は皆、猫の因子でも組み込まれているのか?
今まで人間なんか知らんとばかりにごろごろとコンクリートの上で転がっていたくせに、俺が近づいた瞬間、ぴたりと動くのをやめて睨みつけてくる近所の黒猫を思い出す。
というか猫にも嫌われているのか、俺は。ちくしょう、踏んだり蹴ったりもいいところだ。
「んー、考えすぎなんじゃない?」
「いや、あからさまに水上さんは俺のことを睨んできた。これは間違いない」
「そっかー……うーん、別に今朝話した限りだと雪菜に変わったところなんてないように見えたけどなぁ」
細い顎に指をやりながら、千歌は小首を傾げる。
いや、いくら水上さんが「孤高の雪姫」だろうとそりゃ友達に向ける視線と嫌いなやつに向ける視線が同じなわけないだろうに。
ただでさえ水上さんは表情の変化に乏しいんだから、変化がわかりづらいという意味でもそうだ。
「でもさ、雪菜が空のこと嫌いになったんなら、セットで私も嫌いになるもんじゃない?」
──私たち、このクラスの火薬庫みたいなもんだし。
ごそごそと学生鞄を漁りながら、なんの気もなく千歌はそんなことを言ってのける。
自覚はあったのか。発端は俺の軽率な行動にあるから強くは言い返せないけどさ。
「そうだな……そう考えると俺にだけなにか特定の恨みを抱かれる原因があったと考えるのが自然か」
「だから考えすぎだってばー。第一さ、恨まれてるならそもそも恨んだ相手のことなんて見ないでしょ? 私なら大っ嫌いなやつのことなんて一秒だって見てたくないし」
「それは……そうかもしれないけど」
呆れたように両肩を竦める千歌だったけど、言っていることは明らかに正論だ。
わざわざ嫌いなやつのことを視界に入れてストレスを自分から増やすぐらいなら、少しでも視界に入らないようにするのが効率的だろう。
水上さんは、それがわからないほど愚かな人間じゃない。学力で全てが計れるとは思わないけど、確か学年首席だったはずだし。
じゃあ、あの行動の意図はなんだったんだという話になってくるけど、それがわかれば苦労しないんだよなあ。
「なんならあとで雪菜に聞いてみる?」
「多分答えてくれないと思うぞ」
「それもそっか。雪菜は恥ずかしがり屋さんだからねぇ、うひひ」
腕を組んで豊かな胸を支えながら、千歌は
恥ずかしがり屋。それにしたって恥ずかしがり屋か。まさか俺に好意を向けて……くれてるわけはないよな。
あれは確かに純然たる敵意だった。千歌に話してもわからないとなれば、もうほとんどお手上げだろう。
「元気出しなって、空! 空には私がいるんだからさぁ。うひひ」
「感動した。お前の中に遠慮と気遣いという概念が存在していたのか……」
「脛蹴るぞ」
「ごめん」
いやでも、普段、遠慮の二文字を辞書からすり潰してしまった女がそんな態度をとっていたら、驚きの一つもするだろうよ。
ライオンが「家庭菜園を趣味でやってます!」とか言ってたら誰だって二度見する。俺だってそうする。そういうものなんだ。
なんてことを釈明しようものなら即座に脛を蹴られそうだから黙っておくけど。
「じゃーん! 今日は私の手作りお弁当! 炒飯じゃないから安心してね、空」
「あー、そういうことか。ありがとう」
「泣いて喜べー? 可愛い彼女の手弁当だぞー?」
それは前にも聞いた気がする。
そんな話はさておくとしても、千歌が朝から妙にハイテンションだったのはこの二人分の弁当を用意していたからか。
中身がカニカマ炒飯でないことを祈るけど、果たして。
微かな緊張と共に二段弁当の上段を開封すると、そこには整然とした彩りのおかずが軒を連ねていた。
「おお、立派な弁当だ」
「ふふん、私だってやればできるんだよー? まあほとんどレトルトと冷凍食品だけど」
自虐するように、千歌は苦笑する。
いやいや、レトルトだろうと冷凍食品だろうとそもそも整然とした弁当を作ること自体が苦労の塊なんだ。
自分を卑下する必要なんて、どこにもない。
「いや……レトルトでもなんでも、弁当作ってるだけで立派だし、作ってもらってる身からすると頭が上がらないんだよ。ありがとう、千歌」
「うぇえぇ!? 急にどうしたのさ、空!?」
顔を真っ赤にして、千歌が俯く。
なんだ。俺が他人に礼を言うのがそんなに珍しいのか。
そこまで珍しくないだろ……いや、ないよな? 自信がなくなってきたけど、さすがにそこまで俺は畜生に成り下がった覚えはないぞ。
「……なんだよぅ、急に褒めるとか反則じゃん……」
「お前の基準がよくわからん」
これも乙女心というやつなのだろうか、と、理解不能な千歌の行動に天を仰いだそのときだった。
「……今日も夫婦漫才をしているのですか、千歌」
「ん? お、おお……雪菜じゃん。どったのさ」
なんの前触れもなく、水上さんが俺の席まで来訪していた。
「別に、友人と一緒にお弁当を食べようとするのは普通のことだと思いますが」
「あー、了解了解。空も一緒だけど大丈夫?」
それとなく気を利かせて、千歌が俺の存在を水上さんがどう思っているのか探りを入れる。
ちらり、と一瞥した横顔は相変わらず透き通った氷像のようで、そこからなにを考えているのかを読み取るのは難しい。
ただ、授業中や今朝みたいに刺すような視線を向けられていないだけマシというか、今は警戒されていないんだろうか。
「別に構いません。早くお弁当を食べてしまいましょう、千歌」
「いやいや、そんなに急いで食べることもないと思うけどね、雪菜?」
水上さんはいつも通りのトーンで淡々と告げると、千歌と俺の真ん中に割って入るように椅子を置いて、弁当が入っていると思しき風呂敷包みに手をかける。
うーん、わからん。
ノーコンタクトで顔を見合わせていた俺たちの見解はどうやら一致していたらしく、困ったように千歌は苦笑を浮かべていた。
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