07.そして彼女は理解する
コリンヌは知らなかった。
下位貴族と上位貴族とで、細かい作法や教育のレベルがまるで異なるということに。
そしてそれが、上位貴族と王族とでもまた異なるものだということも知らなかった。
知らなかったこと自体は罪ではないし、彼女が学んでいなくても仕方のないことだ。
問題は、彼女がそれを知らないままに王子妃を目指したことにある。
そして、シャルルたちもまた知らなかった。
王族と上位貴族との間に厳然たる隔たりがあるのは承知していたが、上位貴族と下位貴族との差が
だからシャルルは当然、コリンヌも
だが実態はそうではない。
コリンヌがこれまでに受けてきた教育と言えば庶民に毛が生えた程度の
受験勉強はあくまでも合格することが目標であって、余力があれば入学してからも勉強についていけるだけの予習を含めたりもするが、当然それは上位貴族の子弟が幼い頃から受けているような高度な教育には程遠いのだ。
そしてコリンヌは勘違いをしていた。
彼女が今日これまでに受けていた講義は、確かに10歳時の王子妃教育ではない。
正しくは、
ガリオン王国では王子の婚約者は、まず王子が生まれて数年間で国内の上位貴族の同年代の令嬢がリストアップされる。そこから書類審査と素行調査、面接などを経て5〜6歳頃までに数人が候補者となる。
婚約者候補となればその時点で王子妃教育が暫定的にスタートする。6歳といえばこの西方世界では初等教育が始まる年齢で、つまり婚約者候補たちは
そうして、王子妃教育を進めて成績優秀な候補者だけを残してゆき、最終的に10歳ごろに婚約者候補をひとりかふたりに絞って内定を出す。その時点ですでにひとりに絞られていればそのまま婚約発表だ。そしてその後は王子妃教育が
つまり『10歳時の王子妃教育』とは、この二段階目の初年度を指す。すでに基礎を完璧に習得済みと見做してより高度な、そしてより厳しい段階に進むのだ。
今回、お試しの王子妃教育を提案したのはブランディーヌだ。彼女は上位貴族と下位貴族の教育の格差もきちんと理解していて、だからロッチンマイヤー女史に7歳時の内容での講義を依頼したのも彼女である。なぜ7歳時のそれかと言えば、コリンヌが高度な教育を受けていないと見越した上で基礎的な内容でなければついて行けないと考えたからである。
それを10歳時の教育内容だと偽ったのは、曲がりなりにも成人の儀を終えているコリンヌのプライドを慮ったものだったが、コリンヌはブランディーヌの想像以上に
ちなみに7歳時教育に用いられる乗馬鞭は革製で先端が板状になっていて、軽く叩いても痛い代わりに痣や腫れにはなりにくく、子供でも叩かれた恐怖が尾を引かない。しかしコリンヌが10歳時の教育を要求したことでロッチンマイヤー女史が用意した
なのだが、お試しで1日、いやまだ半日しか受けておらずほぼ出来ていないコリンヌに対しては、見せるだけでなくおそらく
コリンヌが受けているのが7歳時の王子妃教育だと彼女以外の全員が理解していて、彼女だけがもっと厳しいそれを課されていると勘違いしていた。それこそが彼女にとっては悲劇だったと言えようか。
だが何も知らなかったとはいえ、6歳時から王子妃教育を完璧にこなしてすでに10年目になるブランディーヌを追い落とそうとしたのはコリンヌ自身である。それも冤罪まで仕立てて、シャルルの口から婚約破棄まで言わせたのだから、誰に文句の言いようもない。
つまりは、自業自得というやつだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「えっそれ武器じゃない!?」
「大丈夫だコリンヌ、あれで叩かれることは滅多にない」
「殿下、それは
「えっ?」
「えっ?」
「……何か?」
「い……いや、王子妃教育って6歳からやるの!?」
「もちろんですわよ。婚約者は王子がお生まれになると同時に同年代の候補者のリストアップを始め、審査し厳選して6歳頃までに候補者を絞り、王子妃教育をスタートさせます。10歳時に成績優秀な者のみ残して婚約者を決定、あるいは内定し、そこからはさらに段階を上げた教育が始まりますわ」
「ブランディーヌは10歳で私と婚約して、今は王子妃教育10年目だったな」
「はい。わたくしは今年から王子妃教育を修了して“王太子妃教育”に入っておりますわ」
「10年目!?王太子妃教育!?」
次々に明かされる王子妃教育の実情。聞けば聞くほど、コリンヌには想像もつかない世界が垣間見える。
ちなみに現在の王太子はシャルルの兄で第一王子のレオナール20歳である。英邁の誉れ高くすでに妃を迎えていて、ガリオンの次代は安泰だともっぱらの評判だ。
だがそんな王太子に不測の事態があった時に備えて、ガリオンでは第二王子にも王太子教育が施されると定められており、当然その婚約者にも王太子妃教育が課されることになる。ちなみにシャルルはまだ王子教育の途中で、王太子教育までは進んでいない。
「コリンヌ様は男爵家のご令嬢。地方の下位貴族が首都に住まう我らのような高度な教育を受けているとも思えません。ですからわたくし、ロッチンマイヤー先生に『7歳時の王子妃教育』を施していただくようお願いしておりましたの。
ですがそれを正確にお伝えすれば、さすがにコリンヌ様の矜持を傷つけると考えて、それで敢えて『10歳時の教育』だとお伝えするようお願いしていたのですが……」
「……………………は?」
今さら明かされる真実に、コリンヌが目を丸くする。
「ま、待って!?今までのこれって
「うん、まあ、そのくらいの基礎教育だったのは解っているが………」
「そういう意味では、ベルナールは基礎からやり直しだな。情けない」
「いやお前も間違えてただろオーギュスト」
ベルナールとオーギュストがレベルの低い争いをしているが、もはやコリンヌの耳には入っていない。
「ですがコリンヌ嬢は伝えた言葉通りに10歳時の教育を所望なさいましたので、ここからは
「ヒッ!?」
ロッチンマイヤー女史が右手に持った打鞭を軽く振って左手で受ける。受けたのは先端ではなく中程の部分だが、それでもバシ、と重く鈍い音がして、聞くだけで破壊力が半端ないと分かる。
それにコリンヌは恐怖した。
冗談じゃない、あんなので叩かれたらあたし死んじゃう!
「ああああたし、ちょっとこの後用事を思い出したから、今日のところはこれで……」
「何を言っているんだコリンヌ嬢」
一気に及び腰になったコリンヌの言葉を遮ったのはエドモンである。
「今日この日のために
真顔でコリンヌの顔を見ながら、彼はそんな事を言ってくる。
「まあ、君にはこの先の教育は少し辛いかも知れないが……、なに、大丈夫だ!私たちがついている!」
爽やかな笑顔でシャルルが言う。王子としてではなく、先輩として友人としての言葉なのは分かるが、コリンヌには気休めにも感じられないどころか『逃さないぞ』と言っているようにしか聞こえない。
「あああの、ご、ごめんなさいっ!」
堪らずにコリンヌは深々と頭を下げた。
「身の程も弁えずにシャルル様のお妃なんか目指してすいませんでしたーっ!」
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