episode1-1-3 はるかなる故郷、いつか帰るところ

「行ってきます!」

 

 背後から聞こえてくるコーデリアの声に、ジニーは声を張り上げて答えた。

 ジニーは風と共に森の中を駆け抜けて行く。ジニーが履く革のブーツが、大樹の森の中に敷かれた石畳の古道を軽やかに打つ。リズミカルに弾む足音が、いにしえの森に鎮座する神秘的な空気を打ち破る。

 祖父の話では、この大樹の森の周辺には、小さいながらも王国が築かれていたという。実際、森の中に至る場所で、かつてこの地にあった築かれた栄華の名残が森の中に眠り続けている。ジニーが走り抜けている古道もその一つだ。滅びた王国は長い年月の中で森の中に飲み込まれていた。

 祖父が寝物語の最中に笑いながら話していた事がある。『ウィルナイツ家はかつてこの地に栄えた王国の王家の血筋に関係するのかもしれない。儂もお前も王族の末裔なのかもしれないよ』と。悪戯をした時のような笑みを浮かべる祖父にジニーが何を答えたのかは覚えていない。

 ジニーにとってシンデレラストーリーなんてものに興味はない。ジニーが好きなのは、好奇心を掻き立てられる祖父の冒険譚だ。しかし、この地域には祖父の話を裏付けるような御伽噺が伝わっている。


――かつて、世界が闇に覆われようとした。女神に選ばれし者が聖剣によって破滅を齎す闇を打ち倒した。聖剣は大地に根を生やし、やがて大樹となり闇によって荒廃した世界に安寧の地を築く。闇を打ち倒した勇者は、人々をこの安寧の地へと導いた――


 その勇者の末裔がウィルナイツ家だという。子供に聞かせるようなお伽噺だが、森を抜けた先にある村人達の中にはこの話を信じている者がいる。信じていない者達でも、ウィルナイツ家を特別な存在として見ていた。

 そのせいか、ジニーは村人から奇異な視線を受けることがあった。

 ジニー自身は、ウィルナイツ家の歴史には興味が持っていない。彼女の興味は、実際にあったかどうかも解からない過去よりも、今まさにこの世界に存在する未知なる世界を探索することだ。


「急がないと! あのトマスさんが待っているわけがない。絶対に!」


 厳静な薄闇の森の中に降り注ぐ木漏れ日が、大樹の森の神秘的な美しさを際立たせる。その中を金色の髪をなびかせて颯爽と駆けるジニーは、風の精霊を思わせるほど幻想的な光景だ。奥へ、奥へ進めば進むほど森は深まり周囲に蔓延る薄闇が濃くなっていく。

 大樹の森は自然豊かな恵みの森とされているが、魔素濃度が高い魔の森としての側面もある。森の奥へ入り込んだ瞬間、大樹の森は潜めていた牙を剥き出しにした。周囲に瘴気のような禍々しい魔性の空気が漂い始める。

 肌がピリつくような嫌な空気を感じ取って、ジニーは足を止めた。急いでいるはずのジニーに足を止めている暇なんてない。森を早く抜けようと思えば、石畳が布かれ開かれたこの古道をまっすぐ進むのが一番早いルートだ。しかし、ジニーは直感的に道先にある危険を感じ取った。

 気配を消すように身体を低く屈め、息を静めて周囲の気配を窺う。薄闇が深まる森の奥を注意深く見つめるその姿は、熟練の冒険者のようだ。暗闇が深まる森の奥を睨み続けたジニーは、慎重な足取りで道を外れていく。古道の両脇にはブタクサに似た背の高い植物が群生した藪が広がっている。ジニーは無造作に藪の中に手を突っ込んで搔きまわして、周囲に視覚で確認できるほどの濃い花粉をまき散らした。すかさすジニーは、反対側の木々の後ろへ足音に注意しながら周り込む。太い幹と幹の間に体を滑り込ませると、周囲の自然に自分を溶け込ませるように気配を消してじっとその場に留まる。


 しばらくすると、モンスターが現れた。ジニーが進む進路の先からゆっくりと歩いてきたのは、獣型のモンスターである。ウサギに似た姿形をしているが、狼と同じくらい大きい。鋭い牙と爪を持ち、頭部には一角獣と同じ鋭い角が生えている。

 モンスターはその場に留まり、獰猛な眼つきを左右に動かして周囲を注意深く窺っている。獲物を取り逃がすことがないように、常に鼻をヒクつかせて匂いを嗅ぎ取っている。わずかに残るジニーの匂いを嗅ぎ取ったのか、モンスターは立ち留まって獲物の匂いを嗅ぎ取ろうとした。しかし、視認できるほどに濃く周囲に漂う花粉を吸いこんで何度もクシャミをすることになった。花粉に嗅覚が狂わされているのか、モンスターはクシャミをしながら落ち着きなく同じ場所をぐるぐると円を描く様に動く。立ち止まって何度も足で地面を叩く。その動きから、モンスターが苛立ちのあまりに落ち着きがなくなっているのが見て取れる。

 ジニーは幹と幹との僅かな隙間から、モンスターの様子を注視している。その眼差しは獲物を狙う狩人のように鋭い。


 モンスターとは、魔素濃度が高い場所で出現する魔物である。この世界に生きる全ての生物と敵対する存在だ。

 ジニーがいる場所は、すでに大樹の森の中でも魔素濃度の値が一定水準を超える魔の領域である。濃度の高い魔素によって変質した生物をモンスターと呼んでいる。だが現在において、その存在はまだ何一つ解明はされていない。一説によっては、魔素濃度の高い領域では空間そのものを歪めているとのこと。モンスターはその空間の歪み、つまりは異界からこちらの世界へ現出してくる未知の生命体ではないかという説がある、だが、この説の信憑性はかなり低い。

 しかし、先程のモンスターは突然道の先から現れた。大樹の森にも小型の動物は生息している。それらが魔素によって変質した可能性はあるが、だとしてもあまりにも唐突の出現だ。足音も息遣いも、なにより気配すら感じることができなかった。モンスターが異世界からこちらの世界に現れるという説も、眉唾物としてあながち馬鹿にはできない説かもしれない。

 そんな神出鬼没なモンスターの存在を、何故ジニーはいち早く察知することができたのか。それは彼女が冒険者に必要な様々なスキルをすでに習得していたからだ。モンスターの出現は、特殊な探知と探索スキルの複合技能で察知することができる。モンスターとの遭遇エンカウントを防ぐスキル類は、冒険者として最低限習得していなくてはならない数あるスキルの内の一つである。今のジニーが有する探知のスキルレベルならば、大樹の森の中に出現する全てのモンスターとエンカウントする確率は低い。


 ジニーは木々の間に隠れて、じっと動かずにモンスターの動向を監視し続ける。モンスターのレベルは低い。ジニーの冒険者としてのレベルは、すでに駆け出し冒険者の域を脱している。そんなジニーにとって目の前にいるモンスターの脅威は低い。奇襲の成功率も高い。ソロで倒すことは簡単にできる。

 しかし、無駄な戦闘は可能な限り避けるべきだ。本来戦闘行為とは、多様で多大なリスクを伴う。この場で無理にモンスターを倒したところで得られるものは少ない。何より一番危惧する場面としては、戦闘後に他のモンスターが現れる可能性だ。レベルの高いモンスターが現れたりしたら考える限り最悪だ。冒険譚を語る時の祖父から、森の中の歩き方を教えてくれた祖母からも、戦闘は避けることができない場合を除いては可能な限り避けるように教えられてきた。

 目的も目標も無い戦闘行為ほど、無駄で無意味なものはない。あるのはリスクとデメリットだけである。ジニーは祖父母から、そのことを徹底的に教え込まれている。

 ジニーはじっと息を殺して、モンスターがどこかへこの場から去るのを待ち続けた。

 撒き散らした植物の花粉のせいで、モンスターはその場に残るジニーの匂いから彼女が隠れている場所を探り当てることが出来ずにいた。執拗に周囲を見渡しては、執念深く匂いを嗅ぎ取ろうとしてクシャミを繰り返す。やがて、モンスターはジニーが隠れる反対側の方角へと歩き出した。諦めたのか、もしくは別の獲物の気配を察知したのか、モンスターは森の奥深くへと姿を消した。


 周囲からモンスターの気配が消えると、ジニーは素早くかつ静かに走り出した。古道の道に沿って、森の中を駆け抜ける。木々の合間を縫うように、枝々から零れ落ちる木漏れ日を避けるように、森の中に点在する闇から闇へと移りながら進む。その姿を森の中に溶かし込むようにして、自由自在に森の中を駆け抜ける。

 ジニーにとって魔の森とされる大樹の森は、自分の家の庭のようなものだ。幼い頃から大樹の森を遊び場として使っていた。森の中は隅々まで探索済みだ。樹と木の根が交わる窪み、どの樹がよじ登りやすいのか、その樹のどこに足を掛けて登れるのか、大樹の森でジニーの知らない場所は一つもない。そういった身を隠せるポイントを利用して、モンスターの気配を察知する度に隠れて戦闘を回避する。時間は有限なれど、急いだって遅れを取り戻せるわけでもない。かといって急がば回れなどという悠長な暇もない。可能な限り早く、なおかつ効率よく進行する必要がある。

 ジニーは森の中を風のように駆け抜けて行く。森は奥へ行けば行くほど、薄闇は深まって行く。道も険しく、魔素濃度も高まる。空気は淀み不気味な気配を漂わせ、進めば進むほど苦しいほど瘴気が濃くなる。空気は薄くなり凍えるほど冷たく感じだす。気付けば、夜よりも暗く冷たい闇がヴェールのようにジニーの周囲に垂れ下がっている。ジニーはすでに常人ならば恐れて足を踏み入れない魔の領域を進んでいた。しかし、踏み出すジニーに恐怖はない。森を知り尽くしているジニーならば、目を瞑っていても、石や根っこなんかに躓かずかないで走る自信があった。木々の枝々に体を引っ掛けることもなければ、木々の上に駆け上って太い枝伝いに飛び移りながら移動することだって簡単にできた。森を熟知しているからこそ、出現したモンスターへの対策も容易だ。仮にモンスターとエンカウントしたとしても、ジニーの戦闘スキルならば対処することもできる。


 ジニーの冒険者としてのレベルは、すでに大樹の森を単独で攻略できるレベルに達している。それでもジニーは祖父母の教えを守り、慢心も油断もせずに注意深く素早く森の中を移動していく。ちなみに世間一般では、大樹の森はある程度の経験を積んだ冒険者でなければ奥まで入って行こうとはしない。

 ジニーは走る足を速めた。五感を研ぎ澄ませた今のジニーならば、複雑に木々の枝や根が複雑に入り組んだ森の中を泳ぐように縦横無尽にすいすいと進んでいく。進む内に、深まっていた森の薄闇が薄れてきた。空気が澄んできて、木々を通り抜けていく風に再び春が感じられるようになってきた。周囲が明るみ始めている。木々の隙間から、透き通るような青い空が見える。

 森の出口はもう目の前だ。木々の合間から見慣れた村の家々が見える。ジニーとコーデリアが暮らす家は森の中央にあり、森の出口までの距離は普通に歩けば二時間ほどの距離だ。距離としては長くないが、モンスターが出現する魔の森である。普通の冒険者ならば、その倍近い時間をかける。だが、ジニーはその道のりを半刻ほどの時間で駆け抜けた。

 恵みの春がジニーを出迎えた。

 薄暗い大樹の森を抜け出ると、降り注いできたのは暖かい春の陽気だ。最後に村に訪れたのは、雪が降り積もり始めた初冬である。何もかもが雪の下で眠りにつき始めたかのように、世界は深々と静まり返っていた。

 ジニーの眼前には、春一色に染まる世界が広がっていた。喜びはしゃいでいるかのような春の風が、山間の谷間に居残る冬を連れ去って行く。世界は賑やかな活気で満ち溢れていた。芽吹き始めた命で、山も丘も平原も騒がしいぐらい色めき立っている。

 訪れた春に謳歌する山間の美しさを眺めながら、ジニーは坂道を駆け下りて行く。ジニーの視線の先には小さな村が見える。大樹の森近くの山村『リンクス』。人里離れたただの田舎村だ。しかし、人が踏み込まない大樹の森の奥深くで祖母と暮らすジニーにとって、この村が彼女の知る唯一の外の世界であった。

 緩やかな下り坂沿いには石垣で築かれた棚畑が続いている。畑では村人達が土を耕していた。春ならではの光景だ。森の出口近くの小屋では、これから森の中で育つ山菜やキノコを採取する人達が森に入る準備をしている。森の浅い領域ならば魔素濃度は低く、心得のある村人が、森の恵みを採取する仕事に携わっている。

 冷たく厳しい山の冬を乗り越えた村は、暖かい春の活気に賑わっていた。冬の間、巣に籠もっていた獣達が春の訪れと共に巣穴から這いだしてくるように、冬の間家に閉じこもっていた村人達が忙しそうに働いている。

 春の仕事始めに準じて。

 夏が来る前に慌ただしく、落ち着きなく。

 喧しいくらい陽気で活発で。

 あっちこっちから笑い声と怒鳴り声が混じった賑やかな声が聞こえてくる。

 春だ。山間の高原を覆っていた長く厚く降り積もった雪は、すでに影も形もどこにも見当たらない。青い空、新芽が芽吹き始めた山と大地。暖かい陽気とせっせと働く人々の活気に満ちた声。待ちに待った春の到来だ。リンクス村の毎年恒例となっている春の光景が目前に広がっていて、ジニーまで嬉しくなってはしゃぎたい気持ちに掻き立てられた。

 去年の春までなら、今頃は祖母のコーデリアと一緒に森奥でしか採取できない様々な薬草を取っていた。それを手押し車一杯に詰め込んで、リンクス村へ売りに行く。祖母が村人と長話をしている間、ジニーは村の子供達と遊び回る。すぐ近くの草原を走り回れば、すぐ側に流れる谷川へ釣りをする時もあるし、冒険者の真似事で森の中を探検したりもする。

 それがこれまでのジニーにとって春の行事の定番であった。

 だけど今年からは違う。

 彼女は去るのだ。

 生まれ育ったこの地から。

 永遠ではないが、すぐに戻って来るわけでもない。

 生まれて十四年間、この地で育った。まだ、ジニーは幼い少女でしかない。彼女は知らない。時間がどれほど速くて、どれだけ短くて、とてつもなく冷たくて、恐ろしいほどに無情なものだということを、彼女は何一つ知らない。

 この時の彼女は、まだ夢と希望しか知らず。夢と希望しか見ず。ただ、前だけを見て、前へと進んでいた。

 今の彼女の前に立ち塞がるものは、何一つない。

 ただ目の前に続く道を真っ直ぐに駆けて行く。

 森から駆け下りてくるジニーの姿を目にした村人達が彼女の名前を大声で呼んだ。しかし、ジニーの足が止まることはない。振り返りもしない。村人らの呼び掛けに、手を振って同じくらい大きな声で応えるぐらいだ。

 ジニーが村へ近付くにつれて、彼女を呼び止める声が増えていく。森から村へと続く坂道の間、村の通りを走り抜ける中、彼女を見止めた老若男女問わず、誰もが彼女の気を引こうと大声で彼女の名前を呼ぶ。種々様々な招き言葉で呼び止められるジニーだが、決して足を止めようとはしない。ただ笑って、ただ声を張り上げて、ただ手を振って、走り去って行く。


「――」


 一言か二言か、短い言葉だけを残して、風のように駆け抜けて行く少女の後ろ姿を見て、大人達は何かに勘付いてそれ以上声を掛けなかった。ジニーを呼び止めようとはしなかった。

 春は旅立ちの季節。

 若者が巣立つ時期。

 それは、田舎村では良く見かける光景である。しかし、相手がウィルナイツ家の人間だと、リンクス村の住人にとっては話が変ってくる。ウィルナイツ家の人間の旅立ちの日に立ち会えることは、ここリンクス村では稀に起きる一大イベントである。

 大人達は大声で、走り去る少女の背中を押す言葉を叫んだ。簡単に戻ってこないように、いつかまた帰って来るように、幼い頃から村を出入りして見知っている少女の旅立ちを、それぞれ思い思いの言葉で祝って送り出す。

 少女は背後からかかる声援の言葉に対して振り返らず、ただ大きく手を振って応えるだけだった。

 そんな大人達とは違って、子供達は必死に彼女の後を追う。追いかけて来る子供達全員が、ジニーの遊び仲間達だ。必死に彼女の足を止めようと、彼女の名前を叫んだ。何度も。張り裂けそうな声で。立ち止まって欲しくて。振り返って欲しくて。何度も、何度も彼女の名前を呼んだ。

 森から村へと続く道を駆けて降りて行く時、村の中央の通りを真っ直ぐに突き抜けて行く時、子供達が遊んでいる村の広場を通り抜ける時、ジニーを見かけた子供達が次々と彼女の背中を追いかけた。

 だけど、誰も彼女に追いつくことはできない。彼女も足を止めない。

 それでも子供達は追いかけ続ける。転んでも諦めずに、一生面命になって。子供たちなりに何か勘付くものがあるようだ。ジニーを呼ぶ子供達の声に涙が混じり始めている。

 しかし、風を止めることも捕まえることもできない。どれだけ名前を呼ばれ様とも、どれだけ一生懸命に呼ばれても、彼女は足を止めない。決して、振り向かない。

 ただ、手を大きく振って。

 大きな声で。


「行ってくるね!」


 ジニーのその言葉に、子供達は思い思いの言葉を叫んだ。行かないで。

 どこへ行くの。

 待ってよ。

 沢山のジニーとの別れを惜しむ言葉を背に受けながらも、ジニーは振り返ることなく走り去って行く。


「ジニー、すぐ戻って来るよね!」


 最後に叫ぶ少年の悲痛な言葉に、ジニーは答えなかった。子供の叫んだ大きな声が山間に響き渡る中、ジニーは大きく手を振っただけだった。

 彼女は振り返らない。

 そして、絶対に立ち止まらない。

 彼女は、今日、この地から旅立つのだから。

 だから、彼女は決して振り返らない。絶対に立ち止まらない。

 立ち止まること、振り返ることは、意志の弱さの証明だからだ。


 待ち合わせ場所の村の出入り口には、ジニーが予想していた通りに求める待ち人の姿はどこにもなかった。ジニーは立ち止まらずに、村の外へと駆け出していく。村から外へ続く一本道は、山向こうの大きな町へと続く唯一の道でもある。どれだけ道を知らなくても、方向音痴でも、真っ直ぐに進んでいればいずれ目的地に着くし、ジニーが目的とする人物にも確実に遭遇できる。

 春の麗らかな風に押されながら、緑に染まる丘を登るとジニーは目標を捉えられた。緩やかな坂道をゆっくりと下るロバが引く荷車を。


「トマスさん! 待って!」


 ジニーの大声が山全体に響き渡った。しかし、馬車の御者台に座る老人は振り向かないし、馬車を止める様子は無い。谷中に響くほどの大声で、耳が悪くても聞こえるほどだ。ボケてでもいないかぎり、聞こえないわけがない。


「待って! って言ってるでしょ!」


 駆けながらジニーは怒鳴り叫んだ。御者台の老人を、ジニーは嫌というほど良く知っている。暗算でするお金の計算で間違えたことはないし、どれだけ離れた所の会話でさえも耳聡く聞き逃さない地獄耳の持ち主だ。ジニーの声が聞こえていないわけがない。


「聞こえているでしょ。この性悪狸爺!」


 緩やかな坂道を風を追い越すような速さで駆け下りながら、ジニーは怒りを込めて叫ぶ。ただの悪口である。しかし、聞こえない振りも老境の域に達すると、どのような言葉でさえも聴覚に届かないらしい。老人はただ前だけを見据えて手綱を握るだけだ。


「少しくらい振り向いたらどうなの! 女の子がこうやって必死になって追いかけているのに! 確かに、時間に遅れた私が悪いだけど、ほんの少しくらい待ってくれたっていいじゃない! このドケチ! 悪徳商人、鬼畜爺、ケチンボ、バカ、アホ、止まれって言ってるでしょ、クソジジイ!」


 どれだけジニーが悪口雑言を浴びせかけた所で、老練された聞こえない振りを続ける老人が振り向くことはない。山中に響き渡るジニーの悪口雑言も、草原を吹き抜けるそよ風と変わらないのだろう。

 そんな老人の態度にジニーの苛立ちは増すばかりだ。すでに馬車は目と鼻の先である。それでも決して老人は振り向かない。腹立ちまぎれに、追いついたジニーは老人の了解も得ずに荒々しく馬車に飛び乗った。激しく荷台は揺れ動いたが、それでも老人は無関心と振り向かない。荷台を曳くロバでさえも気にした様子はない。行商する商人が引く荷馬車の荷台だ。荷台には売り買いした荷物があり、知人といえども手痛い怒鳴り声で叩き降ろされて当然の行動だ。


「ねぇ、いつまで聞こえないふりをしているつもりなの? だいたい、この前私が馬車に乗せて欲しいって頼んだら、文句も言わずに二つ返事で町まで乗せて行ってくれるっていったじゃん」

「あぁ、コーデリアにも頼まれていたからな。それにこれがお前からの最後のお願いになるだろうしな。だがな、待ち合わせ時間に遅れたのはお前だ。置いてけぼりをくったからって文句を言うのは筋違いというものだ」

「女の子を待つのは、男の度量の見せどころじゃないの?」

「約束の時刻から二時間も人を待たせておいて、何をふざけたことを言ってるんだ? まったく、時間にルーズなのはウィルナイツ家の悪い遺伝だ。いい加減、断ち切らなければならないな。いいか、時は金なりだ。それは商人だけじゃない。全ての職種に言えることだ。時間を粗末にする者が大成することはない」


 老人は古い懐中時計をジニーに見せながら言う。短針はすでに昼を通り過ぎていた。振り向かなくても老人がどんな顔をしているのかジニーには簡単に想像できた。


「まったく、そんなんだからトマスさんは友達が少ないのよ」

「友達ってのはな、互いに益を渡し合える対等の立場である相手を友と呼ぶんだ」


 そう言ながら、ようやく振り向いた老人は好好爺のような笑みを浮かべていた。だが、その笑みに騙されてはいけない。人の良さそうな顔を浮かべながらも、その瞳には厳格とした固く揺るぎない意志が感じられる。

 トマス・コルネオ。コルネオ商会の創始者であり、一代で大都市に店を構える大手商業ギルドまで築き上げた辣腕商人である。老人の柔和な笑みの裏側には、耳煩い厳しさが詰め込まれているのをジニーはよく知っている。

 優しい視線は、ジニーの遅刻を非難して咎める矛先でもある。ジニーは逃げるようにその場に荷物を下ろすと同時に腰も下ろした。


「ふ~ん、ならお爺ちゃんとはそういう関係だったの?」

「んなわけあるか。ウィルはただの厄病神。アイツが決まって俺の前に現れた時は、決まってその後ろに面倒事を引き連れて来ているんだからな。アイツはな、ケツにトラブルをぶら提げて生まれ落ちて来た生粋のトラブルメーカーだ」


 トマスの言うウィルとは、ジニーの祖父ウイリアム・ウィルナイツの愛称である。


「でも、そのおかげでリンドブルムでも有数の一大商業ギルドになるほど儲けられたんじゃない?」


 内界には六つの大陸がある。六大陸の中で、内界で最も東に位置するのが『オーダリア大陸』である。オーダリア大陸は二大大国があり、東側にある大国がリンドブルムである。ジニーが暮らす大樹の森やリンクス村は、オーダリアの中央部『ヴァイスラント地方』の辺境地である。リンドブルムまで、距離だけでなく旅金面で見ても、ジニーにはとてつもなく遠い国である。


「それが必ずしも良かったわけでもないさ」


 トマスの表情から好好爺とした笑みが消えていた。ジニーはその顔をじっと見つめている。ジニーの青く澄んだ瞳には、薙いだ海を思わせる。その瞳が空の荷台を見渡した。


「まぁ、アイツが俺に齎した唯一の益は、コーデリアとの縁だな。あれは出来た嫁だ。アイツが数ある冒険の中で得たたった一つの財宝だな。他は全部ガラクタだ」


 トマスは陽気な声で言う。しかし、その声質には普段では聞かない憂いが帯びているようにも感じる。トマスがどのような表情を浮かべているのかはジニーには解からない。さすがに御者台に飛び移って顔を見ようものなら、街につくまで延々と説教を聞かされることになるだろう。なにより、老練された商人のポーカーフェイスを見破ることは、今のジニーにはまだできない。


「なんといってもコーデリアが作ったポーションは高く売れる。それこそリンドブルムまで持って行けば、リンクス村で売られている値の十倍以上でも売れるぞ。まぁ、そんなあこぎな商売をすれば、要らぬ厄介事を生むだけだがな」


 トマスの話に耳を傾けながら、ジニーはゆっくりと進む馬車から見える景色を眺めていた。木と山と空しかない景色だ。何一つ見栄えしない辺境地の風景である。無味乾燥とした様子で移ろうことの無い風景を眺めていたジニーは呟くように言う。


「それで次からは誰が来るの?」


 ジニーが知る限り、トマスがリンクス村に訪れたなら必ずコーデリアお手製のポーションを可能な限り買い込んでいる。一つもメリットの無い無駄な行動は、トマスが最も嫌っているのをジニーは良く知っていた。トマスが住む町はリンクス村まで遠い。といっても数日かかるほど遠いわけではないが、往復すればそれだけで丸一日潰れてしまう。普段から時間を大切に使うことを口煩く言うトマスが、リンクス村まで来て手ぶらで帰る。それはジニーに強い違和感を抱かせた。

 トマス自身も、ジニーの勘が鋭くて聡いのを知っている。だから彼女が何をどれだけ把握できているのか理解できた。なんといっても、ジニーに様々なスキルを教え込んだトレーナーの一人には、トマスも含まれているからだ。


「儂ももう歳だしな。隠居して全てを息子達に継がせることになった。おそらく今後リンクス村へ来るのは、うちのギルドから雇われた配達人が来ることになるな」

「ふ~ん。そうなんだ」

「まぁ、息子達は俺に似ず、良くも悪くも商人だ。しばらくは安泰だろう。俺としては残り少ない余生を、生まれ育った町で静かに過ごすつもりだ。今日は昔からの古い知人達にそれを伝えに来ただけだ」

「……そっか」


 ガタゴトと、悪路の山道を年老いたロバは文句も言わずに馬車を引く。大きな雲がいくつも頭上を流れて行く。ジニーはしばらくの間、黙って馬車からの風景を眺めていた。見えるのは、山と木とそして空だけだ。


「トマスさん、遅れてごめんなさい」

「いいさ、お前は俺のたった二人の親友の孫娘だからな」


 ジニーの呟きに、トマスは好好爺のような笑みを浮かべて振り返った。ジニーもその人の良さそうな柔和な笑みに頬を緩ませた。

 しかし、トマス・トルネコという人物をジニーは良く知っている。優しい笑みを一皮むけば、そこにあるのは厳しさである。


「いいか、ジニー。これからお前が旅立つ先がどんな所であれ、そこは大人が働く社会の中だ。世の中には沢山の職種があり、それぞれに形成された常識というのがあるが、時間厳守はどこでも守られている常識だ」


 くどくどと始まる叱言に、ジニーは苦笑を浮かべて上を見上げた。一つの、パンのような形をした雲が通り過ぎて行くところだった。


「聞いているのか、ジニー」

「はいはい、解かってますよ」

「いいや、お前は解かっていないからちっとも直せてないんだ!」


 ジニーはさきほどのトマスのような老練された聞こえない振りのスキルを体得していない。しかし、祖母コーデリアを始めとした叱言を幼い頃から聞かされている。その過程で得たのが、聞き流すというスキルである。ジニーのそのスキル練度は高いレベルにまで磨き上げられていた。


「だいたいお前はウィルの悪いところばかり似すぎている。もっと祖母のコーデリアを見習え!」

「でもお爺ちゃんが、若い頃のお祖母ちゃんの喧嘩っ早い気性には困らせられたって言ってたけど」

「コラッ! 説教をされている時は黙って聞いていろ!」


 それから町まで続く道中、ガミガミとトマスは説教を続けた。ジニーも町に着くまで、終わらない説教を耳から入ってきた言葉を、反対側の耳へと押し流す作業を続けた。しかし、説教の内容は一言葉残さず覚えている。何故なら、トマスの説教は耳にたこができるほど聞かされ続けてきたからだ。

 馬車はゴトゴトと音を立ててゆっくりと進む。説教を続けるトマスと、それを聞き流すジニーを乗せて。

 ジニーが気が付いた時には、馬車はすでに町の中を進んでいた。町と言ってもリンクス村を四つ分足した程度の規模である。僻地にある村と大して変わらない。だが、それでもリンクス村以外の人の住む場所を訪れたジニーにしてみれば、この町は初めて見る外の世界である。

 首をゆっくりと動かして、ジニーは周囲を見渡した。好奇心が導くままに動く青い瞳には、初めて訪れた町の地味な風景が映し込まれている。町にある家は山奥にあるリンクス村と大して変わらない。質素で簡素な造りだ。通りを歩く人々の風体と装いも大して違いは無い。日も大分暮れ、夕餉の香りがどこからか漂ってくる。嗅ぎ慣れた香りだ。それだけでこの町もリンクス村と対して変わらないのが解かる。

 そこはジニーが知っている世界と大して変わりは無い。違うのは通りを歩く人々の中に知っている顔が一つもないだけである。

 それ以外はすべて一緒。仕事を終えた人々が家に帰る為に通りを歩いている。さすがにリンクス村よりは人の数が多いが、それだけだ。どこにでもある夕方の風景だ。

 だが、ジニーにはそれで充分であった。ジニーの胸を高鳴らせるのに充分だ。知らない場所にいる。そう思うだけで好奇心が高鳴り、心臓の鼓動が早まる。


「着いたぞ」


 トマスが呟くのと同時に馬車が止まる。止まったのは周囲に立ち並ぶ家と変わらない家だ。とても一代で大きな財と富を築いた大商人が住む家とは思えないほどの質素で簡素な造りである。

 ジニーは荷台から飛び降りると、荷台で半日近くも寝そべっていた為に凝り固まった筋肉をほぐすように全身を伸ばす。そして、大きく深呼吸をする。夜気を含み始めた風は、まだ冬を感じさせるほどに冷たい。しかし、知らない土地の空気はすこしだけリンクス村よりも空気が濃く暖かいように感じた。

 しかし、ここはまだ遠くへきたわけではない。距離で言えば、足の遅いロバに引かれた馬車で半日ほどの距離しか進んでいない。戻ろうと思えば、歩いて戻れる距離だ。街の西に聳え立つ山の麓には、ジニーが良く知る世界が広がっている。

 まだ目に見える距離、手を伸ばせば届きそうな距離だ。ジニーはまだ故郷からその程度の距離しか離れていない。


「儂は驢馬と荷馬車を返してくる。家の扉は開いているから、勝手に中に入っていて構わん。好きに寛いでいろ」

「え? この後すぐにバスに乗って別の街に行くんじゃないの?」

「アホかお前は、なんも知らんのか! 前情報も調べもしない奴が、どうして冒険者なんかになろうとするんだか。いいか、こんな田舎町のバスなんて一日一便しか出ていない。時間は決まっていて、バスが出るのは早朝だ。だから、今日は俺の家で一泊することになっている。コーデリアから頼まれていたんだが、お前は何も聞いていないのか? まったく、あれは本当に良くできた嫁で祖母だ。」


 ジニーは熱を帯び始めたトマスの説教から逃げるように、遠慮なく家の中へと退散することにした。一人で暮らすには広すぎるが、トマスの財力を考えれば狭くて小さい家だ。家の中に入ると、トマスの質素倹約ぶりな生活を感じさせる。生活するのに必要最低限の品物しか置かれていない。大商家の家だというのに使用人の姿はどこにもいない。


「神経質のトマスさんのことだから、掃除を怠ったりしないだろうけど。……とてもお年寄り一人でこれだけの大きな家を管理できるとは思えない。そもそもお金持ちなんだから、使用人やメイドの一人二人雇えばいいのに」


 ジロジロと家の中を見渡ながら、ジニーは荷物を置くと広間にあるソファーに寝っころがった。肩透かしの冒険心が静まれば、その後にやって来るのは、旅の疲労感からの眠気である。馬車で乗っていただけなのだが、それでも疲れるものだ。それに今日という残りの退屈な時間をさっさと終わらせてしまう為にも、ジニーはさっさと眠ってしまおうと瞼を閉じた。

 馬車に揺られる道中で、時間を粗末に扱うなとトマスに口煩く説教をうけたばかりなので、これからの旅の計画を妄想しながら眠りにつくことにした。

 しかし、ジニーの考えは浅慮であった。トマスは事務所で父親の帰りを待っていた息子家族達を連れて戻って来た。なんでも、ジニーと次代のトマス商会の経営者となる息子達との顔合わせの為にである。これが商人として最後の仕事だと、ジニーの耳元で小さく呟いた。だがトマスの本来の目的は息子達にではなく、孫達とジニーを引きあわせることが目的だったのではないかと、途中でジニーはトマスの狙いに気が付いた。トマスの孫がジニーに色々質問している時、その背後で頬を緩ませて喜んでいるトマスの好好爺とした姿が印象的だった。

 その夜、質素な家で行われた歓待パーティーは、リンドブルムでも屈指の商業ギルドの一族の財力を見せ付ける盛大なものであった。息子の誕生日でもこれほど豪勢なものを行った事がない、と三人いる息子達の一人が陰気にぼやいていた。ジニー自身、三人いるトマスの息子達に良い印象を持てなかった。トマスとは異なり、可能な限り利益を独占し金が取れる時は貧乏人からでもむしり取るような商人らしい商人達だ。後継者である彼等との挨拶は、その背後に打算な利益が露骨に見えていた。彼らが欲しがっているのは、ジニーの祖母であるコーデリアとの繋がりである。

 祖母が精製する高品質のポーション類を、次代のトマス商会の担い手達がいくらで売るつもりなのかは解らない。だが、自分の作ったアイテムで阿漕な商売をされて黙っているようなコーデリアでないことをトマスの息子達はしっているのだろうか。

 ジニーとしてはそんな彼等よりも、トマス自慢の孫達が印象深かった。いずれはリンドブルム屈指の商会を継ぐことになる未来の商人である子供達だ。だが現商業ギルドを継ぐ父親達の思惑とは異なり、次代の幼い後継者達は商人になるよりもジニーと同じように外界に実在する異世界を旅することだった。

 そんなトマスの孫達から様々な外界に関する情報を聞くことができた。さすがは外界とも商取引を行っている商業ギルドなだけあって、ジニーも知らない様々なことを知ることができた。特に気になったのは、現在内界と外界を結ぶ海路上では、幽霊船が出没しているとのことだ。

 幽霊船、ジニーの冒険心を激しく掻き立てる内容に、トマスの孫達との会話は熱を帯びて行く。そんな彼らとの弾む会話も、それをあまり良く思わない父親達に中断させられた。

 盛大なパーティーは早々に終わらされた。ジニーは案内された一室で寝ることになった。その部屋は質素な家の中で最も広くて華やかで綺麗に整えられていた。今晩泊まるジニーの為に用意された部屋という訳では無い。この部屋は、トマスの亡き妻の部屋である。トマスの妻はジニーが生まれるよりもずっと前に病気で亡くなっていることを、ジニーは人伝に聞いて知っていた。どんな人なのかジニーは知らない。しかし、トマスが亡き妻にどれほど深い愛情を今でも抱いているのか、部屋を見れば一目瞭然であった。

 部屋は生前の彼女が使っていた当時のまま、時を止められたかのように保たれていた。花瓶には白のライラックが活けてある。窓辺の小さなテーブルには埃一つない。毎日、こまめに掃除されているのが窺える。使用人のいない家で掃除をする人間は一人しかいない。

 嘆息を漏らしながらベッドに横たわると、ジニーはトマスの哀しみ染まる深い愛情が残り続ける部屋の中で一晩過ごすこととなった。


 次の日の朝早くに、ジニーはトマスに短い別れの挨拶をしてから家を出た。玄関口で見送るトマスの姿を最後に、ジニーはトマスと再会することはなかった。しかし、そんなことをジニーが知るはずもなく、トマスとの別れは簡素で短かった。

 ジニーは一人でバス停へ向かう。バスの停留場所は、昨夜のうちにトマスから教えられている。大通りに出て、ほんの少しだけ歩いた場所だ。リンクス村より大きいとはいえ、所詮は丘陵地域の小さな町を横断する通りは二本しかない。街を東西南北に四分割するように縦と横の直線の通りがあるだけだ。バスはその二本の通りが交わる中心で、頭を東に向けて停車していた。停車場にはすでに人だかりができていて、荷物を持った人達が乗り込み始めているところだ。

 ジニーはバスという単語は聞いて知っている。地方の街や村の人達が、最寄りの都市へ移動するのに使用するリンドブルム王国が主体となって運営されている交通機関である。

 バスは魔導技術と呼ばれる最新技術によって生み出されている。バスがどのような技術で動いているのかなんて、利用する側がいちいち知る必要なない。ジニーが知っているのは、地方に住む者にとってバスは便利な乗り物だということだけである。

 幼い頃からその存在を聞いてはいたバスの実物を、ジニーは初めて目にすることができた。バスは馬車よりも遥かに大きいが、ジニーが思っていたよりは小さかった。獣が威嚇している呻り声のような低い重低音が、朝の空気を一定のリズムで打ち続けている。バスは幌馬車に比べれば十分大きい乗り物だ。しかし、バス停に集まる大人数とたくさんの荷物を乗せて、ここから馬車で何日も掛かる遠い都市まで半日ほどで着くのか疑問である。そもそも、本当にジニーを含めた全員が入ることができるのか、一抹の不安が過る。しかし、それ以上にジニーは初めて見る未知である巨大な乗り物に好奇心が激しく疼かされていた。ジニーには、馬も驢馬も無しでどのように動くのか、それが楽しみでならない。

 逸る気持ちを抑えてはいるが制御できるはずもなく、興奮してはしゃぐ子供のようにジニーはバスへ向かって駆け出した。この場にトマスやコーデリアがいたら、その動きを諌める様な怒声が飛んできそうなはしゃぎぶりである。バスの乗車口はすでに開いていて、次々と人々がバスの中へと乗り込んでいく。ジニーが乗車口の前で立ち止まると、バスの運転席に座る運転手と目が合った。不精髭を生やした男性で、トマスよりはすこしだけ若く肉付きが良いように見える。口は固く閉ざされたままだが、その双眸は乗客一人一人を審査しているのか厳しい眼つきだ。そんな視線に対してジニーは真っ直ぐに見つめ返すと、相手はやりづらそうに顔を顰めて視線を逸らした。


「どうしたの? お嬢ちゃん」


 すぐに乗車口すぐ近くの席に座っていた女性が、柔和な声音でジニーに話し掛けてきた。女性は革製の軽装を装備し、腰には刀幅が広い短剣を携えている。ジニーに笑顔で近寄る彼女の動きには、戦闘技術を有する人間の警戒動作が含まれているのをジニーは見て取った。いつでも相手を組み伏せることができるように、ジニーに対して斜に構えている。死角に隠した右手は、腰の短剣をすぐに引きぬける位置にある。

 女性はジニーに危害を加えるつもりがあるわけではない。ただ身に沁みついた動きが自然と出ているに過ぎない。だがそれだけで女性の戦闘技術の高さが窺い知れることができる。


「初めてバスに乗るんだけど、このまま中に入っていいの?」


 笑みを浮かべてはきはきとジニーが言うと、女性は笑いながら言う。


「ええ、お金さえ払えば誰だって乗れるわ。だけど、乗ったら大人しく座っていること。そして、バスの添乗員であるこの私の指示には逆らわない。この二つのルールを守れるのなら、乗ってもいいわよ?」


 ジニーは元気よく頷いた。すると、横目でジニーを注意深く見つめていたバスの運転手が、前を向いたまま口を開いた。


「嬢ちゃん、このバスは都市国家『ティンバー』までしか行かない。それでも乗るなら百ギルだ」


 乗車賃は事前に聞いていた通りの金額だ。

 ジニーは意気揚々と大地を蹴ってバスへと乗り込もうとした時、遥か東からやって来た風がジニーを包み込みながら西へと吹き抜けていった。ジニーは風に何かを囁かれたような気がして、吹き抜けていく風を追いかけるように振り向いた。

 ジニーの視線の先には、朝日を受けてそびえ立つ山々の風景が大きく広がっていた。あの山々を超えた先には、ジニーが小さな世界がそこにある。生まれ育った家と大樹の森、通い続けた知人と友人が暮らすリンクス村、それらすべてをあの山の向こうに置いてジニーは今まさに旅立とうとしている。

 これは故郷と永遠の別れとなる旅ではない。

 ジニーはいつか帰る場所を眺めると、胸に込み上げてくる郷愁が彼女の冒険心を少しだけ揺らした。

 ジニーがこの地を旅立つのは、幼い頃からの夢を叶えるためである。この旅はその最初の一歩だ。冒険者が旅をするのは、その先にある目的と目標があるからである。偉大なる冒険家ジーニアス・ウィルナイツ、その彼女の最初の旅の目的は、外界で人間が築いた唯一の国へ行くことだ。その国には様々な職業に必要なスキルを習得させてくれる施設がある。ジニーはそこへ入学して冒険者になるのに必要なスキルを習得するために外界へと旅立つのだ。

 外界の外にある世界。まだ誰も足を踏み入れたことも無ければ、誰も見た事すらもない世界。

 人々はその世界を『アンノウンワールド』と呼んだ。

 ジニーの夢はその世界を最初に眼にすることにある。

 誰よりも早く。

 でなければ意味が無い。

 誰も知らない。誰も見た事もない。誰も足を踏み入れたことも無い。それが『アンノウンワールド』なのだから。

 その為にも、ジニーは冒険者になる為に、外界にある人間の国に赴き、そこで様々なスキルを身に付けるのだ。

 

 だが、それは旅の目的であって目標では無い。目標とは旅における一つのゴールであり、一つの通過点でしかない。夢とは、その道中にいくつも通過点を超えた先に辿り付く最後の到達点である。ジニーの最終到達点がアンノウンワールドだ。それは遠い旅路の果てに辿り着く頂点である。これからジニーの長い旅路が始まる。その旅の最初の通過点をジニーはすでに定めていた。

 ジニーが定めたこの旅の目標。それは、祖父と父を探し出して、一緒に帰りを待っている人がいる家に帰ることである。

 ジニーも、亡くなった母と同じで父が死んだとは思っていない。祖母と同じで、祖父が死んだとは思っていない。二人は、外界のどこかに必ず生きていると、何故か感じている。ジニーが様々なスキルを身に付けて冒険者になった時、彼女が最初に探すのは行方不明の祖父と父親である。その二人を見つけ出すまで、ジニーは再び生まれ育った故郷に帰るつもりはない。

 ジニーは決めていた。必ず祖父と父親を見つけ出して、祖母と母が待つ、大樹の森の中にある我が家に一緒に帰る、それがこの旅の目標だ。

 そして、皆でアンノウンワールドを目指す。

 その時、ジニーにとっての本当の冒険が始まるのだ。


「お嬢ちゃん、どうしたんだい?」


 バスの運転手の声で振り返ると、そこには不思議と訝しんだ二つの顔があった。添乗員の女性も、ジニーが具合でも悪くなったのか心配そうに見つめていた。


「大丈夫なの?」

「うん、平気。なんでもないから」


 短く答えたジニーの言葉に、二人は色々思う所があったのかそれ以上聞こうとはしない。春は若者の旅立ちの季節である。ジニーのように夢や希望に向かって、この地を旅立つ者は少なくない。

 ジニーは飛び乗るようにバスに乗車する。ポケットに入れておいた銅貨を一枚、運転席脇の箱に入れると、一目散に一番後ろの席に座った。添乗員の女性に言われた通り、ジニーはそれからバスの目的地に着くまで座り続けた。静かに、窓から見える外の風景を眺めていた。

 ほどなくしてバスは発進する。

 ジーニアス・ウィルナイツ。後世において数々の功績を遺した偉大なる冒険家。そんな彼女の冒険がこの瞬間から始まったのだ。

 この時の彼女は知らない。自分がこれから歩む長い旅の道のりを。これから何を見て、何を得て、そして何を成すのか、この時の彼女に知る術は無い。想像すらしていなかったに違いない。

 車窓を流れる風景を眺める彼女はこれから待ち受ける未来など知らず、その胸には未知に対する好奇心で溢れ返っていた。

 この時の彼女はまだまだ夢に夢見る普通の少女である。

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