第3話 その程度の腕で

       ◆


 どうもありがとうございます、と乱暴された女性が髪の毛が乱れているのを直すこともなく、亭主だという中年男性と繰り返し、黒い羽織の男たちに礼を言っていた。

 だから私はなかなか、黒い羽織の男性に命を助けてもらったお礼を言えなかった。

 すでに見物していた人たちはどこかへ消え、代わりに警察だという男性が数人、顔を見せたものの、私を助けた黒羽織の男性がないかいうと、心底から嫌そうな顔をして男二人を連れて引き上げていった。

 というわけで、結局、私が最後まで残る形になった。

 私を助けてくれた人は、同じ黒羽織の男性たちをどこかへ向かわせ、一人だけ残った。

 それが私に礼を言わせるためだったら良かったけど、違うのは明白だった。

 その顔はほとんど感情を消しているが、瞳の奥では強い怒りが渦巻いている。

「どこの馬鹿だ、小娘」

 こ、小娘……!

 さっきもそう呼ばれた気がするけど、あの時はかなり危険だったし、聞き流しておいたけど今はそうはいかない。

「確かに馬鹿でしたけど、小娘はやめてください」

 ふむ、と男性はわずかに目を細めた。あまりに眼光が鋭すぎて、剣を向けられた時のような心地になる。それでも必死に気力をかき集めて視線をこちらからもぶつけていくけれど、男性がそれでどうこうなるわけもなかった。

「それで、馬鹿は馬鹿として進んで斬り殺されようとしたわけか? 馬鹿そのものだな」

「ば、馬鹿でしたけど、でも……!」

 言い募ろうとする私に、男性は反論を許さなかった。

「でも正義のためだった、とでもいうのか? 正しい行動をしたと?」

 ぐっと言葉に詰まるのは、図星だったからだ。

 正しい行動を選んだと、今、胸を張れればいいのに。

 でも今、私は胸を張れなかった。

 死ぬところだった。

 それも無駄に。意味もなく。

 男性が舌打ちすると、低い声で、まさに恫喝する調子で言った。

「その程度の腕で剣を持つな。死ぬぞ」

 そう言うなり、男性は身を翻すと、そのまま離れていってしまう。

 何か言わなくちゃ。いや、お礼を言わなくちゃ。

 でも私が言葉をうまく出せない間に、男性は確実に離れていき、足を止めることも振り向くこともなかった。

 私が一人だけその場に残され、あとにはただの雑踏に飲まれるだけになった。

 私は左手に下げている、今は鞘に収まっている剣を意識した。

 故郷ではそれなりの腕前だった。道場では年上の男性にも負けないくらいだった。天才と称賛してくれた人もいたのだ。

 それが旧都では、そこらの悪党にも劣るとは。

 正直言って、ショックだった。故郷を出た時も、蒸気機関車から降りた時も、悪行に割り込む時ですら、自分の腕前なら旧都でも見劣りしないだろうと、通用するだろうと思っていたのだ。

 それがまったくの勘違いだった。

 名前も名乗らなかった黒い羽織の男性が言った言葉が、頭の中で繰り返された。

 その程度の腕で剣を持つな。

 涙が滲みそうになったけれど、私は目元を拭わずに、なんとか涙を引っ込めた。そして今は通りの脇に置かれている自分の荷物の元へ戻り、下宿する先の住所を記した紙片を頼りに、見知らぬ街の通りに踏み出した。

 ついさっきまで命の危機に晒されていたはずなのに、道を行く人は誰もそれを知らないというのは、変な気持ちだった。故郷では何もかもがすぐに共有されていたのに、ここでは違うのだ。

 誰からも慰められない代わりに、誰からも嘲笑されない。

 救い、なんだろう、きっと。

 私は歩き続けた。

 まだ私の旧都での日々は始まってすらいない。



(続く)

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