第十二話、秋虫の鳴く頃一

 一条宮の敷地内へ入った後、寝殿へ通された。


 女房の案内で、庇の間に行けば、座の一段高い方に、厳しい顔つきをされた父上と低い板間に、弟の友成が座っている。 「よく、来たな、宗明。そなたが帰ってくるのを待っておった。早速で悪いが、内の大臣から、正式に養女とする旨、承諾する、とのことだ。そのようなお返事をいただいたぞ」

「おめでとうございます、兄上。これで晴れて、姫と結婚されること、叶いますね」

 友成がにこやかに微笑み、祝いの言葉を口にする。

 父上の方は、表情を変えられぬままだった。

「久子の入内は、来年のことになるが、今のうちに仕度はすませておきたい。姉の基子が色恋沙汰を起こした以上は致し方ない。一度でも、縁談などがあった姫を入内させることはできぬからな」

 私は同じように、座につく。

「…ええ。世間体も悪うございます。久子がかわいそうではありますが、やむを得ないでしょう」

 そうは言ってみるが。

 姉の身代わりにされる妹の事を考えると、それを利用しようとする男とは何と、非情なのだろう。

 政治上、これが正しいのだとしても。

 貴族の姫は本当に、生きることさえ、難しいものである。

 世の中自体が、女に冷たいとはいわない。

 貴族は、女にとっては厄介なものでしかないのだろうか、この恵まれた身分そのものが。

「…兄上。内大臣殿は姫のことを、近々、自身のお邸に引き取りたい、とおっしゃっています。迎えの者も差し向けてくださるそうで」

「そうか。私もその心づもりをせねばならないな。父上、友成と共に内の大臣に対して、働きかけてくださったこと、深く感謝します。ありがとうございました」

 手をついて、頭を下げた。

「宰相、参議ともなろう人が、父とはいえ、他の者に軽々しく礼などしてよいものか。まあ、だが。言葉だけは受け取っておこう」

「は。わかりました」

 それだけ、答えると、父上は声を上げてお笑いになった。

「そなたは本当に、真面目になった。何度もいうが、この十月の間に、かなり、面変わりをした。以前は軽く浮ついた感じさえ、していたというのに。不思議なものだ」

 確かに、そういえる。

 ここ、十月というもの、数多くの女人に通い歩く遊びを自重するようになってからは、がらりと変わったものだ。

 友成もつられて、笑い出した。

 私は笑うこともできず、神妙にうつむくばかりである。

 ああ、帰ってくるべきではなかったか。せめて、妹の一の姫のことを何とかしてやらねば。

 この二人も同じ考えだろう。

 となると、少将殿との仲を取り持つことになるが。



 父上たちと、姫を内大臣邸に送り出す日の予定や、妹の入内のことについて、いろいろと打ち合わせをした。

 気が付けば、とっぷりと日は暮れていた。

 今日は一条宮に、泊まることにしたのであった。

 それでも、文を書いて、安否を尋ねる。 〈夏の宵月も出でつる夜なれば柳の眉と見つることかな

 今日はとても、綺麗な三日月が出ていますよ。そちらでも、さぞかし、見栄えがするでしょうね〉

 意味は、(夏の宵、夜も更けてきて、月が出ている。まるで、かの美しい人の細い眉のようだと見ることだ)というものになる。

 まあ、これだけ、書いておけば、機嫌を直してくれるだろう。

 返事は明日のことになるだろうが。

 着ていた直衣を脱いで、気楽な格好になった後、眠りについた。



 隼人が翌朝、かなり、早い刻限に私を起こしに来た。

「中将様。いきなりの不躾な振る舞い、お許しください。あの、西の御方様から、お返事が参っております!」

 大声で言ってきたので、まだ、目が覚めてない頭にことさら響く。

「…別にそんなに騒ぐこともないだろう。ちょうど今、身支度を終えたばかりなのに」

 あくびを軽くしながら、注意をした。

 隼人はかしこまりながらも、文箱を差し出す。

 開けるため、箱を受け取り、床に置いた。

 そして、紐をほどいた。

 中には、季節柄、ふさわしい薄紫色の料紙が入っていた。

〈月影の映れる水面はありぬれど曇りもなきに鏡を眺め〉

 含む意味として、(あなたはよそにいられるのに、つい、月や鏡を見て、待っていた自身が憎らしい)と言っている。

 一晩、帰らなかっただけなのに。

 相当、怒っているらしい。

 私は単に、実家に戻っていて、弟と会う、というはっきりとした目的があった。 けれど、何でこうまでして、疑われなければならないのだろう。

 答えはすぐに出る。 私が名うての色好みだったからだ。



 葛姫を内の大臣の元へと送り出す日がきた。

 姫は今にも、泣きそうな顔をして、こちらを振り向いた。

「中将様がおっしゃっていたのは、このことだったのですか。いつまでも、頼りない身の上でいろとでも…」

 そう、口にした。

 そのまま、近づいたが。

 どこから、持ってきたのか、小太刀を懐から取り出して、鞘から刀身を抜いた。 小太刀を自身の喉元に、突き立てたのであった。

「なにを、やめなさい。自害でもするつもりか!」

 大声で止めようとして、姫の手首をつかんだ。

「…あなたはいつでも、冷静ですこと。このまま、死なせてくださいませ。わたくしはもう、現世に留まっていたくないの。早く、お姉さまのもとへ」

 女とは思えない力で、私の手を振り払って、その拍子に腕に鋭い痛みが走った。気が付くと、床に血が一滴、落ちている。

「その前に、あなたを黙らせないといけませんね。男の方ですもの、力では負けます。ですから、おとなしくしていてくださいな」

 青白く、血の気の失せた顔に気狂いの笑みを浮かべる。

 腕にはかすり傷ができていた。

 そんなに、深く切られたわけではないらしい。

 左腕の裏側に、斜めの傷がつけられていた。

 私も黙ってはいられない。

 側に、太刀がないか、探す。

 女房は気を使って、全員、退がっているため、この部屋には誰もいない。

 邸の中でも、北の方角に位置するから、侍や家人もいないのだ。

 どうする?

 懐刀が二階棚の横にあった。

 頭が真っ白の状態になりながら、それを取ろうと駆け寄った。

 だが、姫の持つ小太刀が今度は私の腹をかすった。

 かろうじて、よけたが。

 衣が裂けて、いくつか、布の切れ端が散る。

 私は力を入れて、指を軽く折った状態で、姫の手首にたたき込んだ。

 途端に、姫が怯んで声を上げ、小太刀を落とす。

 かつん、と音を立てて、小太刀が床に転がった。

 急いで、姫の懐に入り込むと、鳩尾を殴った。

 気を失って、私に向かって、倒れ込んできた。

 乱暴なやり方だが、こっちは危うく、命を狙われかけたのだ。

 これくらいはしておかないと。

 体に倒れ込んだままの姫を横抱きにして、床に丁寧に寝かせた。

 転がっていたままであった小太刀を拾いあげると、私は鞘を探した。

 だが、見つけて、小太刀を戻そうとした時だった。

 後ろから、人の気配がして、振り向いた。

「…許しませんよ。姉上を権少将に渡しなどはしない。ましてや、あなたの北の方などにならせはしない!」

 顔に、何か、粉状のものがかけられ、私はそれに気を取られてしまった。

 それに、目に入ったのか、瞼を開けていられない。

 私は匂いなどから、香炉の中にあった灰だとすぐに気づいた。

 せき込みながらも、かろうじて、目を開けた。

 右手に持っていたはずであった小太刀がなくなっていた。

 前方を見てみれば、小太刀を手に、目をぎらつかせた葛姫がそこに立っていた。 「…葛姫。いったい、どういうつもりです。何故、私にこのようなことを…」

 床に転がった香炉の中の灰がこぼれてしまっている。

 それが投げられたらしく、私は注意深く、話し続けた。

「あなたは、内の大臣に引き取られることがそんなに、嫌なのですか?」

 だが、葛姫はせせら笑うだけだった。

「内の大臣の所に、本物の姉上がいます。権少将が姉上を妻にと、望んでいました。けれど、亡き父上の政敵の息子だからと、姉上は嫌がっておられたのですよ」

 私は、姉上という言葉を聞いた時、はっとした。

「…姉上?」

 つい、口にしてしまっていた。

 だが、姫は私の言葉をきかずに、小太刀を両手で持つと、自分の方に刃を向けて、構え直した。

「わたくしは、葛の妹です。相模や付き合っている男から、姉上の振りをしてほしいと懇願されて。姉上は、あの男に太刀を向けられて、殺されかけたことがありましたから」

 無表情で、そう言われても、私はますます、混乱するばかりだった。

「あなたは誰なのです。本物の姉上というのは?」

 絞り出すように、言っても、目の前の女性は答えてはくれない。

 小太刀を腹に突き立てて、思いっきり、刺してみせたのだ。止める間もなかったというのは、このことかと言いたくなるほどだった。

「…わたくしの名は、八重です。どうか、姉上をあの男から、相模から、お守りください。金品と引き替えに、売られる前に」

 腹から、血を流しながら、小太刀が引き抜かれた。

 途端に、床に衣に細かな血痕がつく。

「八重姫。あなたは、葛姫の妹だったのだね。私であっても、だめだと?」

 ゆっくりと歩きながら、近づいた。

「宗明様は、わたくしがこのお邸にいても、侍や家人たちに警備を強化させたり、しなかったではないですか。だから、姉上を他の安全な場所に移したのです」

 荒く息をつきながらも、八重姫はそう答えてみせた。

 私はくずおれそうになっている彼女を支えた。

 弱々しく抵抗をしてみせるが、それでも、八重姫を抱き上げた。

 自分の衣が血で汚れてしまうが、それでも、かまわなかった。

 八重姫はぐったりと私に寄りかかると、気を失ったのだった。

 簀子に出ると、先ほどの騒ぎを聞きつけたのだろうか。

 女房たちがやってきた。

「まあ、何ということ、姫様。中将様がなさったのですか!」

 そう叫ぶと、私に疑いの目を向けてきた。

「私がしたのではない。姫が自害をしようとしたのをやめさせようとしたのだが。うまくいかなかった」

「…姫様。どうして、このようなことに」

「わからぬ。もう、虫の息でね。この人のことは幸せにしてやりたかったのだが」

 そう呟いていると、女房は力なく座り込み、はらはらと泣き始めた。

 私こそ、泣きたかったが。

 その時、にわかに曇っていたのが、さあと雨が降り出してきた。

 もう、冷たくなりつつある八重姫を抱えながら、ぼんやりとそれを眺めた。



 八重姫は、死んでしまっていたが、私はせめて、葬儀を行って、弔うことを決めた。

 牛車の中に、衣で姫を包み、運び込ませた。

 隼人や数人の従者と共に、寺へと出発した。

 馬に乗りながら、ぼんやりと見やる。

 きっと、六条の内大臣の邸にいるらしい葛姫は妹が亡くなったと聞いたら、悲しむだろう。

 そう、思いながらも、深草へと進んでいく。

 ごく、内密にしたため、地味な狩衣姿に今はなっている。

 そして、夕刻に近い刻限になって、小寺に着いた。

「中将様はこちらで、お待ちください。姫君とご対面した後、このまま、邸へとお帰りいただきますので」

 従者はそれだけ言うと、寺の中へと導き入れる。

 馬からおりて、後のことを隼人に任せることにして、歩を進めた。

 姫との対面といわれたが、とっくに死に際にはあっている。後は、亡骸を火葬する方角に出て、礼拝をするのみである。煙が細く、たなびいていた。

 数珠を取り出して、深く頭を下げ、祈った。

 僧侶の誰も彼もが、かり出されている中で、私は先に早々と、西三条院に逃げるようにして、帰ってきた。

 相模が一人で、私の部屋に入ってきた。静かに控えて、座っていた。

「中将様、よく、お帰りくださいました。姫様が亡くなられましたこと、まことにお辛いことかと、数ならぬ身ながらも、お察し申し上げます。それで、姫君の御事について、いずれ、話せる機会ができましたら、とも思っているのですけど」

 言いさして、そのまま、退がっていった。

 相模の衣ずれの音を耳にしながら、一体、何の事やら、と思ったのだった。

 一人の女が死んだ、というだけで、どうしたものかと悩んだが。

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