第十話、夏の宵二

 「まあ、中将様とお話できるのは、何日ぶりでしょう。最近は、滅多に私どもの事を寄せ付けてくださいませぬから、皆、物足りなく思っていましたのよ」


「ええ。本当にその通りですよ、以前は冗談などおっしゃって、その場の空気を引き立てていらしたのに。それが打って変わって、とても、冷たくなられたものだと、噂をしだす者もおりましたから」

 二人の女房が私に、口々に言ってきた。友成も苦笑をしており、少し、気まずいものになる。

 私も笑っていた。

「そこかしこで、ひどい評判を立てられているものだ。古い仲でいる女人達から、『今後一切、関わらないでほしい』と言われるしな。どうも、この頃は人から冷たくされることが多い」

「この頃は夜歩きを控えていらしてるんですってね。そのような事も耳にはしましたけど」

「ああ、どうも、遊ぶ気分にならなくてね。ここら辺りが潮時かもしれないと思うのだ」

 以前よりも深いため息をついた。

 妹を主人として、話をしていた女房二人組は仕えている。

 年かさの女房で、名を中務(なかつかさ)と常盤(ときわ)という。

 中務で、年齢は四十程、常盤で四十五といった所だろうか。 「…その、兄上。何か、ご用があって、こちらへ来られたのではありませんか?」

 弟がためらいながらも、尋ねてきた。

 中務がそれを聞いて、ただちに反応する。

「まあまあ。そうでしたか。私どもとしたことが。一向に気づきませんでした。兄君様方が来られたということは、姫様に用がおありだ、ということですものね。これは、何とした不手際。すぐに、お知らせしなくては」

 急いで、立ち上がり、そのまま、衣擦れの音も騒がしく、立ち去っていった。

 女房達が部屋を出ていくのを見届けた後、友成を引き留めて、唐突に話を切り出した。

「…お前に少し、頼みたい事がある。父宮を説得してみたのだが、受け合ってはくださらなかった。かの人を正妻格として迎えるには、そうしてもかまわない条件を作る必要があるのだ」

 こう言っても、わからないだろうと思ったが。

 友成はしばし、黙っていた。

 だが、小半刻の半分も経たない内に、それと気づいたらしい。

「…あの方の事、ですか。それにしても、兄上も随分と意表をつく事をなさいましたね。一途に思われる方がとうとう、現れたのですね」

 冗談混じりで、言われたものだから、自分の顔が赤くなるのがわかる。

「いや、その。だから、つまりだな。お前に引き受けてもらいたいのは、姫を内の大臣に養女、もしくは猶子としてでもお預かりいただけないか。少し、そちらの方面で根回しをすることについてなのだ。もちろん、私もやれる範囲でやっておく。友成一人だけに、任せておこうとは思っていない。わかるな?」

 真面目に訳を話せば、友成もこくりと肯いてきた。

「それはもちろんです。けれど、大臣様が納得した上でお引き取りしてくださったとしても、姫君の入内話が出てこないとも、限りませんよ。実際、今の北の方様との間には若い娘御には恵まれていないらしいですし。そこへ西の御方が来られるとなりますと。ご当人は喜んで、姫君の後見をしてくださいましょう。ですが、それは姫君の入内と引き替え、という事になりかねません」

「どうして、そのような事になるといえるのだ。何も、そのような証拠はないのに、あまり、下手な事は口にせぬ方が…」

 私は弟が言おうとしたことを遮ろうとした。

 だが、友成は意を決したように言葉にした。

「内大臣様がご自分の姫君を入内させて、男皇子をお生みになった暁には、その若宮様を東宮位に擁立させる。そのような願望を持っておられたとしたら。どの公卿でも、心の底ではこんなことを考えながら、表には出さぬものです。身分の高い方々ならば、そのように思うのが普通ですよ」

「…そなたも好きな女人が入内話まで、持ち上がっていた方だったな、そういえば。自らの身に覚えがあるから、兄である私にこうまでして、熱心にいえるのだな」あえて、切り込むような事を言うと、弟はたちまち、呆気に取られた顔になった。

 話がここまで、遠回りになるとは思いもよらなかった。

 押し問答を続けていても、何にもならない。

 女房の常盤がこちらへとやってきた。

「中将様、姫様が『兄上にお会いして、挨拶を』とおっしゃっています。どうぞ、おいで下さいまし」

「友成も行った方がいいのでは?妹は私だけに、いっているのか」

「ええ。大夫様はつい、先刻にご挨拶をなさって。これから、東三条邸へお出かけされるそうですから」「出かける用だと?東三条には少将がいられるが、わざわざ、行くほどの用でもあるのか」

 訝しげにしながら、問いかけても、常盤はさあと首を傾げるばかりだった。

「そこまではわかりかねます。あの、とにかく、庇の間へとおいでください」

 仕方がないので、友成を置いて、妹の居室へと向かった。



 本来であれば、直に対面すること自体、避けなければならないのだが。

 妹は几帳を三つか四つ、隔てを置いた程度で、そこから時折、横顔がちらと見える。

 特別、仲のよいというわけでもないのに、これはただならぬ事だった。

「…基子、用があるというので来たが。どうかしましたか?」

 尋ねてみると、か細い声でこういってきた。

「…兄上。友成の兄様はおられませんね。実は、左近少将様にお文を出したのですけれど。一向に返事が来ないのです。以前に、一度だけ、頼りをくださいまして。それには、『もう、二度と送ってくださるな』とありました。どうしたらよいのか、わからないのです。それで、お呼びしたのですけど」

「少将殿もまた、邪険な事をなさる。何故、そのように冷たくされるのやら」

 私がそう答えると、基子は首を横に振ったらしかった。

「わかりません。ただ、言えてる事はあの方が必要以上に、女の事を疎ましく、思っていられることです。それが何より、辛い」

 そう言って、妹はうち伏してしまったのか、何も話さなくなってしまった。

 別に、兄弟であるとはいえ、男の私に相談してよいのだろうか?

 内心、思ったが、黙っておくことにした。

「…少将はもともと、人一倍、真面目で律儀な方だからな。父宮にお頼みするしかないのでは?」

「けれど、このようになさるということは、心底、嫌がっておられる、ということに他なりません。もう、何もかも、おしまいだわ」

 ただ、声もなく、泣き始めたのだった。 どうすることもできず、そっとしておいた上で、庇の間を出る。

 女房と乳母の君がやってきた。

「姫様はどうでございましたか。随分、お悩みでいられたことでしょう」

 乳母がいかにも、心配そうに尋ねてきた。

「しまいには、泣かせてしまったよ。今であれば、少しは落ちついているだろうが」

「そうでしたか。中将様が一条を出られてから、ずっと、あの調子であられるんです。『兄上を呼んでほしい。このまま、髪をおろしてしまいたい』とそれは悲しがられて。手の施しようがないのです」

「友成様はとにかく、『少将の姉君にお頼みして、説得していただこう』と提案なさるのですけど。なかなか、そうもいきませんので」

 常盤が付け足すように言ってきた。

「確かに、年の近い姉代わりになってくれそうな方がいれば、妹も相談しやすかろう。だが…」

 そこで、言葉を濁した。

 少将の姉君の事については、世間ではあまり、評判がよろしくない。

 それを思い出して、慌てて、口をつぐんだのだった。

 弟も「他の人の前では、いわないでもらいたい」と頼んでいた事だし。

「ほんに、困った事になりましたわね。どういたしましょう」

 乳母が小さく、そう呟いた。


「大層、お疲れのようでございますね。どうなさいましたか」

 西三条院に戻ると、姫が問いかけてきた。

 きちんとした格好ではなく、前日に見かけた生絹の単衣でもなく。

 紅色の衣を二枚か三枚程、打ちかけたあまり、目立たないものである。

「いや、妹の一の姫の体調がすぐれぬとかで。それにかり出されてね、実際、几帳越しで話してみたが。平常時とは違って、なにやら、沈みがちで過ごしているようだった」

「そうでしたか。妹君とおっしゃいますと、先月の初め頃に、添い寝のお役目をお務めになったとか聞きましたけど」

「…いや、違うよ。お務めになったのは、他の姫君だ」

 葛姫はこういった噂をすでに、耳に入れていたらしい。

 実は世間では、未だに、東宮様の元服の儀式の際、夜の添い臥しの任に、基子が選ばれるはずだったと思っているらしい。

 だが、基子と少将が文のやりとりをしていたことが父宮どころか、今上帝のお耳にまで、届いた。

 その処理に関しては、私と友成、二人でいろいろと奔走したものである。

 ごく、内密になされたから、よかったが。

 これが一気に広まれば、それこそ、父宮の恥にもなりかねない。

 言ってみれば、一大醜聞といってもいいのだ。

 どうも、東宮にはこういう不祥事が付き物となっているようである。

 麗景殿様が熱心に勧められていたという、右大臣の姫君、かつてはご自身の皇子の妃に、と望まれていた典子姫を寸でのところで、今上の女御として、後宮に入らせた、祖父、太政大臣。

 典子姫は入内なされた時、十五にはなられていたはずである。

 東宮は八つにおなりになっていたが。

 形式上の妃として迎えられるには、年が離れすぎている感も否めないが。

 七つほど、上でいらしても、しっかりとしたまとめ役としても、よかったはずである。

 ところが、亡き祖父上のご遺言だからと、右大臣は言い張り、左の大臣に内密に申し出てきた事に対して、はねつけたのだ。

 母方の祖父君、関白殿は左の大臣のかてての北の方、一宮の姫君とは従兄弟の間柄。

 だから、東宮とは遠縁の親戚になる。

 太政大臣と右大臣の二人は自身の血を受け継ぐ御子の誕生を望んだのだ。

 先々帝に太政大臣の姫、右大臣や大納言の姫君が入内なさったこともあった。

 その方が二宮様の母君である。

 けれど、この方は結局、男皇子をお生みにならないまま、はかなくなられた。女御というお立場のままで。

 二宮がお生まれになられたと同時に、先帝にも、早めに男皇子がお生まれになっていたとしたら。

 もっと、宮廷の内は変わっていたかもしれない。

 右大臣は自身の身内から、中宮、后を出すことを企んだ。

 だから、典子姫を後宮に入れ、皇子を生んでもらい、東宮位につけさせるために、左大臣側の要望を嫌がったのだ。

 今東宮の妃としていては、時間がかかり過ぎる。

 お相手となるべき方は、やっと、八つになられた幼子。

 皇子がお生まれになるとしても、少なくとも五年以上、先のことになってしまう。

 手っ取り早く、目的を達成させるためには、壮年となられている今上帝の妃とした方がいい。

 考えてみれば、麗景殿様としては、東宮の後見に右大臣がついてくれれば、安泰そのものである。

 なのに、それをはねつける真似をするとは。


「…もう、お寝みになりますか。そろそろ、夜になり始めたようですから」

 姫が呼びかけてくるのに、やっと、気がついた。

「ああ。だが、あなたもひどく、お疲れのようだ。早めに寝まれた方がいい」

 そういうと、姫はどう思ったのか、自身で私の手を取って、握ってきた。

「今夜はどうなさいますか。中将様のいつもの仰せに従いましょうか」

 意味ありげに、促してきた。

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