第九話、夏の宵一

 現在は六月の下旬。暑さも半端なものではない。


 そんな中で、葛姫を西三条院に引き取る算段がやっと、ついた。

 白柳殿は見事なまでに、修築され、遣り水もちゃんと巡らせてある。

 このようなことを決めて、勝手に元の実家から、よそへ移ったものだから、当然、父宮からはかなりの猛反対を受けた。 「お前は、あれほど、一条から離れた所に女人を住まわすな、と言ったのに、何を考えておるのだ。私は断じて許さん!」

 先に、男の方が出迎えるためにも数日前から、新居へ一人で行くからと説明した私に、投げかけられた言葉がこうだった。

 第一声がこれだから、あまりの父宮のおっしゃることの過激さに、一瞬、怯んでしまった。

「いかな、このわたくしであろうと、かの姫君を軽き身分の女人と同じ扱いはいたしかねます。父上、どうぞ、そのようなことはおっしゃらないでください。聞いておりますこちらも、悲しくなってきます故」

「悲しくなろうと、悲しくなくなろうとも、お前の気持ちはどうでもいい。そんなにまでして、五条の女人と共に暮らしたいのであれば、どこへなりと行け。私はもう知らぬ!」

 父宮は、そうおっしゃった後、ぎろりと私を睨みつけてこられた。

 その目が恐かった。それでも、何とか、申し上げたのだった。

「あの、私めの話もどうか、お聞きください。五条の姫君は後見人となってくださる方もおらず、不如意な暮らしをなさっておいで。なれど、もともとはやんごとなき血筋に生まれておいでの方です。母君は小野宮と呼ばれた方のお子でいらした。ちゃんとした環境のもとに育っておられたら、帝のお妃にもなれる程のお家柄のご出身なのです!」

 言っていく内に、変に冷静になっていく。

 すると、父宮は妙に しらけた顔になられた。

「…いくら、高貴のお生まれとはいえ、父君、母君をとうの昔に亡くされ、落ちぶれてゆくだけの境遇でいらっしゃるではないか。そのような方をお引き取りした所で、一体、お前にどれほどの事ができる」

 低い小さな声で、仰せになった。

「父上がどのようなおっしゃろうと、私の気持ちは変わりません。では…」

 そう言って、一条宮を後にしたのであった。

 女房のうち、自分に仕えている者達をそっくりそのまま、引き抜いて、連れてきたのであった。

 葛姫のお付きの女房も四、五人程は昔と変わらずに勤めをしているらしい。

 下男や下女、台盤所に従事する者も合わせたら、かなりの数になるから、そちらの人選の方でも大分、手間取った。

 私に仕えている女房だけでも、四十人はのぼるだろうか。

 その中から、さらに年かさの者で落ち着きがあって、嗜み深い女房を選び抜いて、姫に仕えるようにこちらから、言いつけたのであった。

「中将様。これから、女房達が五条の姫様のもとへお出迎えに向かうようです。ほんに、おめでとう存じます」

 姫に仕えている者達のうち、一人だけ、先に来ている上総(かずさ)が静かな物腰で言ってきた。

 いつのまに、私の方に近づいてきたのか、と思ったが。

 考え込んでいるうちに、女房がこちらに来ていたことに気づかなかったらしい。 「もう、そんな刻限になっていたのか。どうも、いろいろと物思いにふけってしまっていたから、気づかなかった」

「まあ、では心ここにあらず、といったような感じでいらっしゃったのでしょうか。後、小半刻もせぬうちに姫様のご一行がご到着になるといいますのに」

「何、どうして、それを先に言わなかったんだ。今から、すぐに支度をせねば、間に合わぬではないか!」

 半ば、自分に呆れながら、すっくと立ち上がった。

 急いで、由緒ある香を焚きしめたり、それまで、くつろいでいた格好から、きちんとした直衣に着替えたりしていて、せわしなくしていた間に、姫君ご一行が西三条院に着いたのだった。

 私が身につけているのは、紗(しゃ)の生地で作られた直衣と下襲に、指貫といったものだ。

 階の所で、既に、牛車が停められていた。

 付き添いの中に隼人がいて、私を見つけると、近づいてきた。

「や、これは中将様。たった今、姫君ご一行がお着きになりました。本当に、この度はおめでたいことで…」

 そう話しかけた後、深ヶと頭を下げた。 「…それはそうと、姫君からのお返事です。『今すぐに書いたものなので、お渡ししてほしい』とお言付けでして」

 細く折り畳まれて、忘れ草の少し、しおれてしまっているのに結わえ付けられた文を取り出した。

 大事そうに薄物の布にくるんで、手渡してきた。

 それを受け取ると、忘れ草の花はまた以前より、さらに弱々しくなった。

〈住之江の古へのためしはいかならむ忘れ草の摘みてつらきも忘れ〉

(住之江に、と古歌にもありますけど。あなたはそれに詠まれてある忘れ草を摘みながら、辛いことも忘れていられることでしょうか)という意味になる。

 まるで、途中で詠みかけて、そのまま、やめてしまったかのような書きぶりだ。あまり、風情のない歌だと、世間では思われるだろうが。

 けれど、葛姫は全てを察していたのではないか?

 私が未だに、香子姫や二宮様の事が忘れられずにいることを。

 そうでなければ、このように詠みかけてくるはずがない。

 見える気遣いが見える分、礼を言っておかねばなるまいか。 「中将様。いえ、殿、姫君をお出迎えせずにいて、よろしいのですか。早く、行かれませぬと…」

 おそるおそる隼人が呼びかけてきた。

 すぐに気づいて、私は牛車のある辺りまで、急いで行った。 半ば、小走りで行ったので、階の所まで行き着いた時には、少し、息が切れてしまっていた。

 その時には、既に姫が車を降りて、階を上がっている最中だった。

「…まあ、中将様。来てくださったのですね。どうぞ、姫様のことをお手伝いください」

 声をかけてきたのは、少納言だった。

「ああ、そう思って来たんだ。姫、お手を」手を差し伸べてみたが。

 姫はそんなことお構いなしに、一人で早々と上がっていく。とはいっても、扇、しかも蝙蝠(かわほり)で顔を隠した状態でだ。

 それに、普通であれば、唐衣や裳でなかったとしても、細長とかを着るものなのだが。

 女房達とそう変わらない、壺装束で頭に呂(ろ)とか呼ばれる布地のものを被り、目立たないようにしている。

 簀子の方まで上がり、牛車の牛を放して、連れて行くために従者や牛飼童達が離れて行くと、周囲には女房達だけがいるという状態になった。

 馬も同様になっているため、姫は安心したのか、蝙蝠を顔から外して、こう言った。

「ほんに、綺麗に整えられていますこと。宗明様、丹念に手入れをなさいましたのね。しかも、こんなに何から何まで、見事にされますとは…」

 はっきり言って、今までで初めてといってもいいくらいのとびっきりのにこやかな笑顔を見せたのだ。

「これくらいは、どうということはありませんよ。あなたが気に入ってくださったのであれば、光栄です」

 正直、自分が七つか八つの童に戻ったような気分で、笑いながら、答えていた。 「わたくし、最初はどうしようかと迷いましたけれど、長らくご無沙汰していた伯父上や叔母上もあなたが迎えてくださると噂で聞かれて。『むしろ、そのようなお申し入れがあったのなら、引き受ければよいのでは』と、お文で勧めてくださったのです。そこで、女房達にも話した上で、決めました。いっそ、この機会に別の住居に移って、新しい暮らしを始めるのも一つの道ではないかと」

「そのようにお考えくださっていたから、私の薦めにも応じられたのですね。今日から、こちらがあなたの住まいとなる所です。正式に世間にもお披露目をしたいとも思いますが、それは難しい。ですから、あなたの叔母君にお願いして、引き取っていただこうかとも、思案しているのですが」

 小声で話したのであった。

 姫は顔を青白くさせて、ひどく驚いた表情をしていた。

「…そんな、西三条に来たばかりなのに、また、家移りをするのですか?」

「違いますよ。叔母君は今内大臣の北の方。その方にご養女としていただければ、名目上、また、実質上の後見人となる。私の保護だけに頼らずに、あなたは生きていけるのですよ」

 そう言うと、姫は悲しそうにまた、眉を曇らせる。

 少し、翡翠色がかって、薄くなってしまっていた髪を顔にかからせて、俯いてしまった。

 何とか、泣くのはこらえていたらしいが、明らかに落胆していることが見てとれた。

 さすがに、心ない事を口にしてしまったか、と言葉を失ってしまった。

 西三条院にお引き取りはしたものの、しばらくの間は姫のことはどなたかに養女としていただき、実際の結婚もそちらでした上で、ということも考えた。

 実際にそのようにする、となると、弟の友成や父上の力を借りなければならないだろうし。

 いろいろと、頭をひねってみたが、いい考えは浮かびそうになかった。



「宗明様。どうかなさいましたか、夏は暑いものですし。もしかして、暑気あたりでも起こされました?」

 単衣に薄衣の生絹(すずし)を羽織ったいかにも、しどけない格好で、だが、以前よりは打ち解けた態度で、姫が話しかけてきた。

「いえ、あなたが気になさることはありませんよ。少し、これからの事を思いあぐねておりまして」

「…これからの事?その、わたくしとの結婚の事でしょうか」

「そのこともなのですが。どうにも、姫の事をどなたにお世話していただこうか、決めかねているのです。今内大臣殿は私の異腹(ことはら)の妹達のお祖父様。直接の血筋では繋がりはないが、姫の事を養女として、後見人になられるとなると、義理の姉上と恋仲になってしまう」

 私は小さく、ため息をついた。

 葛姫も、困ったような表情をするのであった。

「…いや、違うか。内大臣が姫の義父君になられたとしても、あなたは私の姉ではない。叔母上ということになるか」

「な、失礼な事をおっしゃいますのね。わたくし、これでも宗明様よりは年下ですのに」

 不満げな顔をして、そのまま、黙り込んでしまった。

 仕方なく、なだめようと肩に手を回して、自分の方へと引き寄せた。

 今はまだ、以前と同じような感じが続いている。

 周りからみれば、まさに夫婦か恋人同士そのものに見えるだろうか。

「だから、そのように怒ることはないですよ。ただ、思いつきで言っただけのことだというのに。女人は誰でも、このように年のことについて、気にするものなのでしょうか」

「それはないと思いますけれど。ただ、からかうような調子でいわれますと、嫌なので。これからはあまり、そのようなことは口になさらないでくださいませ」

 また、つんとされたので、ほとほと、困り果ててしまった。


 実家の一条宮に父上には、内密で帰ったのは翌日だった。

 弟の友成が妹の一の姫と語らっているということを聞いたので、このまま、西の対屋へと赴いた。

 部屋の内へと入ってみると、弟が女房たちと世間話をしている。

 生真面目で無口な性格をしているので、これはかなり、珍しい事だった。

「あれ、兄上。来られたのですね。何か、お話でも?」

「そのようなところだ。随分と楽しそうにしていたな。私も混ぜてもらえぬか?」

 そう言って、友成の横に座った。

 話し相手になっていた女房達は、私が加わってきたのに、驚いたらしかった。

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