第七話、蜩の鳴く夕べ二

 その人は私よりも、八つほど年上で、かつては夫がいたという。


 だが、夫は妻と年がかなり離れており、結婚して、十年も経たないうちに亡くなったらしい。

 子が一人、男の子がいた。

 その子が今、どうしているのかはわからない。

 妻、もとい、女もそれから、めっきり、文を送ってくることもなく、一時の遊びと割り切っていたのだろう。

 追いすがることもせず、もう、これからはつき合いを続けるつもりはない、と彼女の邸に来て、言ったことがあった。

「…そう、言われる日がいつかは来ると思ってはいたけれど。わたくしのこと、もう、飽きてしまわれたのね。物語の中に、『有明の月のように冷たい』といわれた女君がいるのをご存知?あなたと一緒にいると、その女君のことを思い出してしまうのよ」

 そう、切り返してきた。

「…有明の月のように、ね。また、あなたも異なことをおっしゃる。私はそんなに、ひどい男に見えますか?」

 答えると、女は一気にこらえきれないように、高笑いをしてみせた。

「…ご自身でも気づいていらっしゃらないのに、それを出会ってまだ、日の浅い女に問われるなんて。もっと、色恋事に慣れてこられたら、自然とわかることもありましょう」

 嘲るような口調でいわれて、私はそのまま、邸を後にしたのだった。

 あの人は他の女人以上に誇り高く、自尊心の強い性格をしていた。

 一度、思いこむと、絶対にそこから、自身の目をそらすことができないのだ。

「自分一人だけを好きでいてほしい」と、内心秘めながら、それを表には出すまいとする。

 もし、あの時に、女人の心の底の思いに気づくことができていたとしたら。

 何かが今以上な、変わっていたかもしれない。

 また、月を見上げながら、そう実感した。



 翌日の朝方、やけにその日は肌寒く、濃い霧が出ていた。

 そんな時に、一条の宮から、遣わされた家人の何人かが袖や衣などを露で濡らしながら、草刈りを始めだしている。

 黒い影のようにも見えたりするが、男たちはあまり、気にせず、仕事を続ける。 昔はあった池や遣り水もすっかり、枯れ果ててしまっているはずだから、水草の手入れはしなくていいだろう。

 一時、部屋の内に入って、寝んでいたから、今は小袖に指貫、圭(うちぎ)を二、三枚羽織っている。 このくらいの時節になると、朝方であったとしても、春や秋口に着るような衣を二、三枚重ねると、もう暑くて、耐えられないのだ。

 昼間よりかは、涼しいくらいであるのに、今朝は珍しく、簀子に立っているだけで、冷気が肌に染み込んでくる。

「宰相の君様。そのような所におられたのですね。早く中に入られませんと、お召しになっていられる衣が濡れそぼってしまいます。霧にすぐに晴れることはないようですから」

「別に、気にすることもないだろう。後で、気が向いたら、入るよ」

 心配して、話しかけてきた女房にのんびりとした口調で返した。

 目の前に、山がそびえ立っていたら、さぞかし、荘厳だった ろうに。

 女というものは、こういう時にもっと、他のことを考えられないのだろうか。

「…はあ。では、すぐにでも、そうなさってくださいませ」

 女房はそう言い残して、退がって行った。

 うるさく言われて、少し頭にきたが、袖の辺りを試しに探ってみた。

 確かに、霧のせいでしっとりと濡れてきている。

 仕方なく、部屋の内へと入った。部屋に入った後、どうしても、葛姫のことが気になって、様子を見に行ってみた。

 女房たちが四人ほど、姫の御前に参上しており、何かの準備をさせているようだった。

「…ご病気でまだ、寝んでおられたのではなかったのですか?このように、起きあがったりなさって、大丈夫なのですか」

 御帳台な歩み寄りつつ、問いかけた。

「…ああ、もう、気分も良くなりましたし。宗明様には、幾度もご心配をおかけしてしまったようで。申し訳なく、思っております」

 葛姫は、半身を起こした状態で、浅く、頭を下げてきた。

「けれど。何度も申すように、あまり、無理はしないでくださいよ。まだ、お顔色もよくないように、見受けられます」

「…あの、それはそうと。この間、いただいた白絹の反物なのですけれど。とても、上等な品ですので。女房たちにいって、単衣や小袖などに仕立てさせています。染め物もしたいのは山々ですが、道具がなくて…」

「邸のどこかにないのですか?」

 つい、尋ねてしまったが、姫は口をつぐんだ。

「…ここのどこを探してもないのです。おそらく、邸を出て行った者たちの中に、持ち去ってしまった輩がいたのかもしれません。だからといって、新しい物をそろえるわけにもいかなかったので」

 かなり、とんでもないことを話してみせた。

 それは事実らしく、先ほどまで、せっせと縫い物に専念していた女たちも気まずそうに、ちらと互いに目を見合わせている。

 主人の持ち物まで、掠め取ってしまう者が出るとは…。

 実際に、ここまで、姫の零落ぶりがひどいとは思わなかった。

 やはり、私が一肌脱がなければならないようだ。

 そう決心して、再び、姫の方へ顔を向けた。

「…ならば、私が近いうちに、あなたのことをこちらの五条から、離れることになるが、お引き取りしましょう。出て行ってしまった者たちも呼び戻します」

「あの。私を引き取ってくださるのは、有り難いのですけれど。すぐに、というわけにはいかないのでしょう?」

 もっともな問いに、私は頷いてみせた。 「そういうことには、なりますが。とりあえず、数日の間、待っていただけますか?」

「え。中将様、何をおっしゃって…」

 姫がわけがわからないという顔をしているのをよそに、私は立ち上がって、すたすたと歩き出していた。



 ようやく、葛姫の病気が治ってから、半月余りが経っていた。

 この間、唐突にあんなことを言い出したまではよかったものの、一体、どちらにお引き取りしたものかと悩んだ。

 特に、最初は自邸に帰ってからも、ずっと、考えていた。

 まず、思いついたのが母方のお祖母様や母上が住まわれていた邸である。

 お祖父様とて、もともとは御母君、曾お祖母様のもとにて、育たれた。

 そちらは、伯母上が受け継がれていたが、今は出家なさり、よそへとお移りになった。

 西三条院と呼ばれ、若芽が普通のものよりも白く、枝に下がっている葉もまるで、卯(う)の花のような柳が植えられている。

 そこから、白柳殿(しらやなぎどの)と呼ぶ人がいる。

 もしくは、卯の柳殿とも。

 そちらにするか、母上の暮らされていた中殿の方か。

 思いあまって、父宮にご相談申し上げたのだった。

「…ということなのです。わざわざ、このようにお話申し上げるのも恐縮なのですが。けれども、私自身、まだ何と申しましても、若輩者でございます。それで、もしよろしければ、父上のご意見を伺いました上で決めようかと」

 もう、今年で四十八になられるのだが、相変わらず、若々しくていられる。

 大層、上品で風流を理解する方だけあって、物腰も穏やかである。

「そうだったのか。そもそも、姫君のお邸は五条にある、ということだったね。お前が通いやすいと思う方を選んだら、よかろう」

 大らかに、仰せになられた。

「…あの、中殿は一条からは近いですが、邸自体が既に古いですし。あまり、お若い女君には不向きかと思われます。白柳殿、西三条院でしたら、ここからは少し、遠くなりますが。五条からはまだ、こちらの方が姫も移りやすいかと」

「だが、それでは、通いにくくなるのではないか。中殿はこちらからは近い。女人をお引き取りして、面倒をみるのであれば、やはり、近い所の方が何事につけても、安心だと思うが」父宮は、あくまで、譲ろうとはしてくださらない。

 どうするべきかと、頭を働かせる。

「ですが、ご当人の気持ちを考えてみますと、中殿のように、自邸から離れた、しかもなじみのない場所に行かれるのは寂しい思いをなさいましょう。心づもりもないままで、移られるのは、おいたわしいことですし」

「…宗明、姫君を大切に思う、その心情は私にもわかる。今の話を聞いただけでも、昔とは随分、変わったものだと、歓心させられたよ。だが、そこまで、彼の女君を並々でなく、正式に迎えたいなら、こちらもそう、おろそかな扱いはせぬ方がいいのだよ。一条に近ければ、尚更だ」

 父宮はいつにない厳しい調子で諭される。

 かつて、北の方を迎えていたものの、突如、当時は院となられていた先々帝が皇女のうち、二の姫宮のことをご心配なさり、先帝に願い出て、親王位にあった父宮の正妻として、新たにお加えさせになったこと。

 過去にそのような事柄があったために、母上は思い悩み、その末に若くして、世を去られた。

 このように仰せになるのは、昔のことが父宮にとってはお辛い記憶だからなのか。

「…だから、三条ではなく、中殿にしなさい。それに、五条の女君の他にも、然るべき家柄の姫を正妻として、迎えれば、そなたの行く末も安泰というもの。もうそろそろ、このような話も切り出さなければ、と常々、考えていた。その上で、姫君は妻の一人として扱えばよい」

「は、ですが。私は姫、あの方をお迎えしたら、後は妻を新しく娶るつもりは毛頭ございません。あの方お一人がいれば、それでもう、十分です」

 私は、きっぱりとそう申し上げたのであった。

「宗明、そなた、正気か。何故、そこまで、一途になる必要がある。かつての私のようにはさせたくないと思っているというのに。なのに、どうして、一人の女にのめりこまなければならぬ。世間で、何を言われるか…」

 父宮はそこまでおっしゃった後、涙ぐまれ、目元を袖で拭われた。



 朝の光のもとで、葛姫を見た時、とても気品があって、美しい人だと思った。

 どういったわけか、友成の母宮に顔立ちが似ていたのだ。

 ちょうど、生きておられた時のお姿に。二宮様は私のことを実際に引き取って、養育してくださった方だった。

 美しいのは尚更だが、姫御子らしい気品に満ちた方で、優しく、嗜みも深い方だった。

 また、子供が好きなご性分でいらして、赤子であった私のことも大層、可愛がってくださったらしい。

 あの人の姿をはっきりと見た時、二宮に似ているのであれば、このまま、側に置いて、始終眺めて、暮らせればと悔やんだ。

 ただならぬ心情がわき上がってきたのは、いうまでもない。 香子姫も幼い頃、共に遊んでいて、笑った顔を見て、どきりとしたものだ。

 二宮様と香子姫は従姉妹どうし。後で、その話を乳母から聞かされて、納得したが。

 つまり、それくらい、香子姫はさほど美人というわけでもなかったのに、宮とは笑った顔が似ていたのだ。

 そっくりといってもいいほどに。とは言ってみたものの、邸をどちらにするかで迷った。

 父宮からは、「中殿に迎えなさい」といわれたが。

 あの方のお考えを察するに、西三条院には正妻となるべき方を住まわせ、中殿に葛姫を住まわせて、愛人か数ある妻のうちの一人として、扱えということか。

 それが、世間の考え方であることくらいは私も知っている。だが、姫のことをそこまでして、軽々しく扱うようなことはしたくない。

 結局、あの人のことを正式に妻として、遇するのであれば、西三条院にするか、ただの愛人のうちの一人として、中殿にするか。

 選ぶ道は二つしかないということか。

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