第六話、蜩の鳴く夕べ一

 一時、自邸の一条宮に帰ってみた。


 部屋でひとまず、落ち着いた後、父宮と弟がどうしてるのかと女房に訊いてみた。

「兵部卿宮様は、ただ今、内裏に行かれました。友成様でしたら、いらっしゃいますよ。いかがなさいますか?」

 逆に尋ねられた。

「…そうだね。こちらへ呼んできなさい。少し、話したいことがあるとも、伝えておいてくれ」

「承りました。そのようにお伝えいたしますので、一旦、失礼させていただきます」

 そう言うと、音もなく、退がって行った。

 邸から、帰ってきたのはいいが、葛姫のことが気にかかって、仕方がない。

 あのまま、いた方がよかったのではないか。

 どちらともつかぬ心地でいたが、どうしたらいいのだろう。 情けない話だが、そわそわと落ち着かなくて、簀子の方まで下りてみた。

 先ほど、見た羽虫の不気味さが頭から、離れない。

 やはり、あの人のことが気がかりだ。

(もの思へば沢の蛍も我が身よりあくがれ出ずる魂かとぞ見る)過去にそう言った和歌があったけれども。

 意味は違えども、本当に、今、そのような心境になっていた。

 ちなみに、(もの思へば)は、「物思いをしながら、庭を眺めていた。沢に飛んでいた蛍を見て、つい、自分の体から、さまよい出た魂かと思ってしまった」という意味合いの歌である。自らの魂が体、身実(むざね)を離れ、相手の袖の辺りにまとわりついているとでもいえばいいのだろうか。

 本当にあの人を失ってしまったら、私も後を追って、はかなくなってしまうのではないか。

 何を不吉なことばかりを言っているのだろう。

 悲しいことばかりを考えていてはためにもならない。

 自身でも、驚くほど、思考の辻褄が合っていない。

「…兄上。どうされましたか、そのように憂い顔をなさるなど。何か、いやなことでもおありですか?」

 すぐ側で、弟の友成の声がした。

 気が付くと、いつのまに来ていたのか、私の顔をじっと、のぞき込んでいる。

「…友成。そなた、どうして…」

 絞り出すようにして、言った。

 後で、ぱたぱたと走ってくる音がした。 「…友成様!困りますわ、取り次ぐ女房も連れずに、勝手にお入りになるなんて。兄君様に失礼ではありませぬか」

 女房がものすごい勢いで駆け込んできたのであった。

「…あまり、騒々しくするな。弟は私の事が気がかりであったから、このようにそなたらを振り切ってきたのではないか。父宮やもっと、高貴な方の御前であれば、無礼にもなろうが。実の兄弟なのだから、そのようにとやかく、言うことでもないだろう」

「兄上。このように、唐突な事をしてしまったのは、私の責任です。かばってくださると、いうと妙な心地もいたしますが。そんなにおっしゃらずとも。礼儀を欠いたのは紛れもなく、私です。今後は気をつけるように、心がけますので。お前も聞いていただろう、兄上がそんなに気分を害していらっしゃらないのだから。そのように気にせずともよい。ゆっくりと語らいたいこともあるから、退がっていなさい」

 私たち二人から、非難されたものだから、女房は半泣き顔になって、出て行ってしまった。

 それを見届けてから、たしなめるように言った。

「お前も酷な事をするね。私が言ったことであれば、仕方ないとしても。いつもは穏やかな友成までがそんな風にきつくすれば、あの女房もいたたまれなかっただろうに」

 弟は少し、驚いたような顔をして、こう答えた。

「…兄上とて、かなり、きつい調子で叱りつけられていたではないですか。あまり、他人のことはいえぬのでは?」

「まあ、冗談はここまでにしよう。実は話があって、そなたを呼んだのだ。五条の邸に柑子の実を送ってくれていただろう。そのことで、礼を言いたかったんだ。ありがとう、友成」

 自分でも、いっていて、かなり気恥ずかしかったが。

 友成もあまり、いわれつけてないのか、二重の目を大きく、見開いていた。

 いつも、見慣れているため、そんなに気にしていなかったのだが。

 この子の瞳はふつうの人よりも、色が少し薄い。

 髪は黒々としていて、烏の濡れ羽色とでもいっていいのに。目だけ、茶色なのだ。

 だが、都の人々は髪や瞳の色が違うと、奇異の目を投げかけてくる。

 この子が権力のない有名無実の職についてしまっているのでさえ、外見のせいともいえるかもしれない。

「…いえ、こちらこそ、不躾なとも思ったのですが。喜んでいただけて、何よりです」

 とても、控えめな様子で返事を言ってきた。

「それはそうと。五条の女君がお倒れになったと聞き及んでおりますが。どのようなご容態でいらっしゃるのでしょうか。無事でいられるとよいのですが」

「…ああ。昨日はかなりの重体で予断を許されぬ状態だったが。今は持ち直されたよ」

 それを言うと、少しばかり、安堵したようで、緊張していたのが嘘のように、顔が緩んだ。

 弟はある一人の女人と婚約をした。

 だが、現在はまだ、女人が太秦の別邸で、仮住まいをしているため、めでたく結ばれてはいない。

 今回のことで、自分たちも同じようになるのではないかと、思ったらしい。

「あまり、お邪魔をすると何ですから、これで私は失礼させていただきます。女君も早めに回復されること、お祈りしておりますので…」

 何ともいえぬ調子でそう告げて、友成は立ち上がった。

 静かに音を立てないようにして、歩いていく。

 本当に嗜み深いのは、弟の方ではないだろうか。つい、思ってしまった。

 友成は、そのまま、自分の居所へと帰っていこうとした。

 けれど、振り返って、心配そうな顔つきをして、こちらを見てくる。

「…少しは、ご自身の体もお厭いになってください。父宮も随分、心配なさっていましたよ」

 一言、付け加えていったのだった。

「わかったよ。これからは気をつけることにする。そなたもあまり、人のことは言えぬぞ」

 返事をすると、黙って、ここを後にしたのであった。



 夕暮れも近い。

 空の色も大分、薄く紅を帯びてきている。

 まだ、夏頃にしては早いのに、かなかなと蜩(ひぐらし)の鳴き声が聞こえてきた。

 それを聞いて、無性に物哀しくなってしまった。とり急いで、五条の邸へと戻った。

 先導の女房が階へと、近づいてくる。

 私はすぐに牛車から降りて、簀子へ上がった。

「どうかしたのか。姫に何か、異変でも?」

「…中将様。ご容態については、問題ありません。ただ、姫様はひどく、心細がられて。しきりと、中将様がお帰りになられないか、と気にされるのです。どうか、姫様を安心させてくださいませ」

「そうか。ならば、行くとしよう。不安な気持ちを抱いていては、病にも悪い影響が出よう。それが姫君のためだしな」

「…かたじけのうございます。さ、こちらに」

 部屋へと、行ってみた。

「…帰ってきてくださったのですね。なにやら、病になると、人心地がつかぬものですね。早く戻られたらいいのに、とそればかりを思っていました」

 姫は、私が様子を見に来た時、最初にそう声をかけてきた。 「大分、お待たせしてしまったようだ。昨日より、いくらか、お元気そうで安心しましたよ」

「ま、昨日とおっしゃいますけど。今日の朝方、私のすぐ側に、ずっと、おられたではないですか。もう、一日経ったと勘違いをなさってたの?」

「そのようなことはありませんよ。今朝方はこちらも正体のないありさまでしたから。あなたの顔色をうかがうほどには、余裕がなかったのです」

 そう言うと、少し、おかしそうに笑った。

「そうだったのですか。ならば、よけいに体を治してしまわなければなりませんね。あなたが病でお倒れになったら、私が看病して差し上げましょう。今回のお返しになるように」

 優しげに励ますように言った。

 姫は、妹の基子程ではないが、美しい方であることは確かである。

 すらりとした背の高い方であることは、半身を起こした状態からもわかる。

 目元は落ち着いた感じで、気品がある。それでいて、病身でありながらも、思慮深げな様子は大して、変わらないかのようだ。

 ゆかしい、といってもいい。

「…ですが、そのような目に遭うとしたら、一体、何年後になることやら。せめて、明日にならぬ事を祈ることにしましょうか」

 冗談のつもりだったが、葛姫は悲しげに、表情を曇らせてしまった。

「…何だか、中将様、変わられましたね。以前はそのような皮肉めいたこと、おっしゃらなかったのに。もっと、調子のいいことを言って、気を紛らわせようとしたりしていたのに。どうなさったのです?」

「別に、私はこうといって、変わった所などありませんよ。いつもと同じです」

 笑いながら、そういうと、葛姫はうつむいた。小声で、ぼそぼそと言い始めた。 「あの、今日は側にいてくださいませんか。もし、よろしければのことですけど…」

 姫は、恥ずかしそうに切り出してきた。私は内心、驚きはしたものの、黙って、彼女の手をそっと、取った。

 そして、ぎゅっと、力をこめて、握ったのだった。

 葛姫のことを他の女人方と同じように、色恋の対象と見たことはなかった。

 それに、体調が優れない彼女のことを気遣って、事には至らなかった。

 昨日の夜と同じように、髪を撫でたりする。

「…中将様。そのようになさっていますと、女房たちに怪しまれてしまいます。私たちは何にもない仲ですのに。見られると、厄介なことになります」

「見られたって、私は一向にかまいませんよ。あなたも細かいことを気になさりすぎる。周りからは、とっくに男女の仲と思われているのに。何を今更、悩む必要がありましょう」

「今、いわれたことは聞かなかったことにしておきましょう。では、もう寝みますので…」

 一向に取り合ってはくださらないので、困り果ててしまった。

 その間に、葛姫は眠ってしまった。

 仕方なく、手を離して、一人で考え込む。

 女房たちも疲れ果てて、皆、几帳の影などで、寝入ってしまっているらしい。

 静かな空気が漂っていて、明かりがある以外は、全てが眠りについているような。

 そんな感じがしないでもない。

 このまま、夜更かしをしてしまってもいいが。

 けれど、昨夜はあまり、寝ていない。

 少し、眠るくらいのことはしているが、それ以外で休む、ということをやっていなかった。

「眠い」ということを意識しだすと、一気に頭や体の重さがくる。

 けだるい、といってもいいだろう。

「…ここで、倒れてなるものか。私までが病になってしまっては、この方に迷惑をかけてしまう…」

 呟いてみるが、しんとしていて、音もしない。

 誰も返事をしてくれない。

 孤独というのは、こういうことをいうのだろうか。

 眠るわけにもいかず、笛を吹くわけにもいかない。

 仕方がないので、簀子の方に出て、空を眺めることにした。月が冷たさを感じさせる白い光を地に降らせていれ。

 満月ではなく、半月の、上弦の月が荒れきっている庭を浮かび上がらせていて、姫が見れば、さぞかし、怯えるだろうと思わせられた。

 それから、何故か、目を離せなかった。ずっと、眺めていると、昔、つき合っていた女人の一人、一人が思い出されてくる。

 たおやかでしっとりとした人、可愛らしいが気の強い人。

 見かけは嫋々としていながらも、意外に芯が強く、誇りの高い人。

 さる国守を務めていた男の娘のもとへ、通ったこともあった。

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