第五話、忘れ草二

 寝殿へ戻ってみると、女房の一人が駆けつけてきた。


「…宗明様!早く、こちらへいらしてください。姫君の息が途絶えてしまわれて。もはや、このままでは、儚くなられるやも…」

「何。それはまことか。薬師はどう、言っていた!?」

「それが、大分、お体が弱ってしまっているとのことです。どういたしましょう」

 そう言って、女房は気絶していないのが不思議なくらい、青白い顔色なのが釣灯籠の明かりでわかった。

「とにかく、案内を。姫君のそばにいて、気をしっかりと持ちなさい」

 これくらいしか、今はいえない。

 だが、姫が儚くなるようなことになるわけには…。

 女房の言っていることが間違いであってほしいものだ。

 急いで、姫の寝かされている部屋へ戻ってみた。

 相模が泣きながら、涙ながらに訴えてきた。

「…中将様。姫君のご容態が。どうすれば…」

 それを見て、私は御帳台にまで近づいた。

 女房達が着替えさせたのか、白の衣を身に纏っている。

「…少し、姫君のご様子を確かめたい。いいか?」

「わかりました。では、わたくしはこれで…」

 私が言ったら、相模はすぐ側にいたのだが。

 少し、躊躇いながらも御帳台から、離れた。

 姫の側まで来ると、あの時と同じように、今にも消え入りそうな様子で横たわっているのが灯火でわかる。

 僧都も準備を整えられたのか、こちらへ来られたようだった。

 すぐ隣の部屋で、魔除けの香を焚くために、いろいろと道具を出したりしているのか、かたかたと音が聞こえてくる。

「…今から、修法が行われるのですね。姫様をどうか、お助けくださいまし、御仏よ…」

 ひそやかな声で、相模は祈り始めた。

 私は同じように小声で、歌を詠んだ。

〈蓮葉の上に置く露消えずのみいかなるほどに止めむことか〉

(蓮の花の上にある露が消えないように、どれくらいの間、その上に止めさせることができるのだろうか)という意味になる。

(あの人の命はどのくらい保つのだろう。生きながらえてほしい)という意味も込めて、詠んだ。

 御仏がこの願いを聞き届けてくださればよいのだが。

 その内、読経が行われた。

 姫は時折、苦しげに顔をゆがめる。

 低い腹の底に響くような僧侶の声はかえって、病人にはよくないようだ。

 ただ、助かってくれれば、と願うばかりである。



 翌朝、陽が大分、高くなってから、目が覚めた。

 姫の看病というか、付き添いに疲れて、眠ってしまっていたらしい。

 すぐに、眠い目をこすって、姫の方を見てみる。

 私の物音に気が付いたのだろうか。

 姫の目元のあたりが少し動き、ゆっくりと瞼が開いた。

「…ここは?」

「私の居間ですよ。あなたは昨日、倒れてしまわれたのです。いきなり、意識を失われたので、こちらも驚きましたが」

「…では、私は昨日の夜にこちらへと運ばれてきたのですね。うっすらとですが、覚えています。その時のことについては」

「…覚えていらしたとは。ああ、ご病気になられているのに、これ以上の無理は禁物ですね。どうぞ、お寝みになっていた方がいい」

「わかりました。お言葉に甘えさせていただきます…」

 細々とした声でいうと、葛姫はすうとまた、何かに吸い込まれるように、眠りについた。

 昨日から、これといって、何も口にしていない。

 それに、ぐったりとこの時には、疲れてしまっていた。

 だが、私まで倒れてしまっては困るから、気を強く持つしかない。

「…中将様。昨日から、姫君のお付き添いをなさって、お疲れでしょう。少し、休まれてはいかがでしょう。柑子(こうじ)を一条宮の家人から、贈られてきましたから、どうぞ、お召し上がりください」

 女房の呼びかける声が聞こえてきて、振り向いた。

 少し古びた高坏に、柑子の実が高く盛ってある。

 それを女房が持っていた。

「一条宮から?父宮からというわけでもないのだろう。一体、誰が…」

「弟君の左京大夫様が荘園で取れた物の中で、特によく熟れているという実を選んで、それを家人がお預かりして、届けてきたのだそうです。何でも、こちらのお話を聞かれて、ひどくあわれに思われたそうでして。兄君の助けになれば、幸いだ、と口伝てで、おっしゃっていました」

 その話をきいて、しばし、驚きのために口を開くことができなかった。

 しかも、こんなに手際よく、できるはずがない。できすぎているとは、わかっている。

 だが、感極まって、少し、弟の機転に涙ぐんでしまった。

 普段から、無口だが、几帳面で真面目な性格のせいで、あの子のことを疎ましく思っていた。

 けれど、こういう時にわざわざ、兄の通い所に生活の必需品などを送りつけることは普段であれば、「非常識な」とでもいって、一蹴していようが。

 まあ、こういう緊急事態の時にしているのだから、大目に見るとしよう。

 友成には礼を言っておかねばなるまい。あの子も大人になったものである。

 試しに、一口、食べてみたのだった。



 姫が再び、起きあがられたのは、昼になってからであった。柑子や汁粥を口になさった後、薬湯を医師の指示通り、お飲みになる。

 私も側でしきりと、薬湯をすすめた。

「さ、どうぞ。ちゃんとお飲みになってください。あなたには、一日も早く、元気になっていただきたいのですから」

 説教がましく、いってさえいるのであった。

「そのようにおっしゃらずとも、お薬湯は飲みますとも。体が動かないと、なにやら、心地が悪くて、仕方ありませんし」

「…まあ、それもそうですね。わかりました。あなたも体の調子がひとまず、落ち着かれたことですし。私は一条に帰ります。妹姫のことも気になりますので。弟一人だけだと、いろいろと大変でしょうから」

 そういって、立ち上がる。

「そのようになさった方がよいと思います。私も明日にはいつも通りにしないといけないと思っていますから。けれど、お気をつけて」

「あなたの方こそ、くれぐれもお気をつけくださいよ。女人の身というのは、ただでさえ、危険の多いものなのですから」

 本当に心配して、そういうと、葛姫は少し、はにかんだように笑っただけだった。

 それにまたもや、不安を感じる。

 何故か、とても、弱々しく見えたからだ。

 不吉さ、と呼べそうなものを胸の内に抱え込みながらも、ただ、別れを告げて、姫の寝所を辞そうとした。

 その時、昼間だというのに、どこからともなく、羽虫が現れて、すうっと部屋の中へと入り込んで来たのであった。

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