第四話、忘れ草一

 一路、牛車に半ば、飛び乗るような形で乗り込み、嵐山のふもとまで行った。

 大抵、ここの辺りは遊山に来ている貴族の別荘が多い。


 この嵐山を上がった辺りには、寺もいくつかあり、そこであれば、小倉山の僧都にお会いできると踏んだのだ。

 前簾を上げて、隼人を呼んだ。

「隼人、少しこちらへ。頼みたいことがある」

 気づいたのか、おもむろにこちらへと寄ってきた。

「はい。何か、申しつけるご用でも…」

「ああ。堀河ではあのように言ったが、やはり、葛姫のことが気がかりでならぬ。取り急ぎ、戻りたいが。そのようなわけにもいかぬ。そこで、今から、おまえが馬で小倉山まで行ってきてほしいのだ。そこで、さる僧都殿がお暮らしだったと思う。僧都がおられたら、「主が急用につき、すぐにでも、修法をお願いしたい、との言伝を承っている。早急に願います」とだけ言え。いいな?」

「それを申し上げればよいのですね。それで、おられなかった場合は?」

「その時は戻ってくればいい。おまえが何も言葉なしに来たら、私も堀河に戻る」

「わかりました。では、今からでも、ついてきています者から、馬を借りますので」

 隼人はそう言うと、さっと、目配せをした。

 すると、牛車のすぐ側にいた騎乗の従者がこちらへとやってきた。

 従者は馬から無言で下りると、轡(くつわ)を取って、連れてくる。

 牛はとうに離されていて、童(わらわ)も同じ所にいるようだ。

 隼人が馬の手綱を渡されると、興奮しないように、なだめてから、鞍(くら)の前輪(まえわ)に手を、鐙(あぶみ)に足を乗せて、ひょいと背にまたがった。

 手綱をぐいっと引っ張り、馬がいなないて、後ろ足で二本立ちになったかと思いきや、両足で腹を蹴ったのだろう。

 そのまま、夜中だというのに、すごい土煙が牛車の辺りに立ち上り、足音だけが響いていたのだった。


「それにしても、本当に隼人は無事に戻ってくるのでしょうか。このような夜中に、いささか、危険すぎます。馬で行くのは特に、そうだと思うのですが」

 従者の一人がこらえきれないように、私を責め立ててきた。既に、隼人が小倉山を目指して、小半刻ほどが経とうという頃だった。

「…まあ、今はそういわずに待っていなさい。隼人はああ見えて、太刀の方面でもかなりの使い手だ。そんなに心配することないだろう」

「ですが、いくら、男といえども、最近の世相はなかなかに物騒になってきております。途中で、夜盗にでも襲われたりしたら、一人でとてもじゃありませんが、太刀打ちできません。多勢に無勢です」

「だから、あまり、そうおどおどせずに、見張りの一つでもしていなさい。心配して、慌てるくらい、細腕の女人でもできること。男であれば、もっと、違うことに頭を使え」

 大分きつめにいうと、従者はあきらめたように簾の前から、離れていった。

 だが、従者たちの言いたいことはわかる。

 もう、そろそろ、松明も切れてくるだろうから、これだけ動揺しているのだ。

 どこか、父宮の別邸に行って、新しい物を補わなければならない。

 近くに、確か、大分使ってはいないが、あったという記憶がある。

「こちらに、別邸があったはず。そちらでも松明を二つか三つ、分けてくれるように頼んでみろ。管理を常陸の守が任されていたあの邸だ」

 思い出したら、即行動と言わんばかりに、命じた。

 だが、返事は良いものではなかった。

「え。ですが、あちらの邸を管理していた常陸の守殿は任を全うするために、現在、新しく因幡の国守になられたので、そちらへと出立していて、都にはおられません。確か、去年の四月頃には旅立たれていたはずで…」

「では、せめて、名代などで留守を任されている者はおろう。その者の他にも侍が警護をしていたりするだろうから、頼んで分けてもらってこい。良いな?」

 すごんで言ったら、従者の一人がずいと前に出てきた。

「ならば、私めが行って参りましょう。そのまま、牛車を近くにお停めになって、中将様はしばしお休みください」と、申し出てきたのであった。

 その後、牛車はまた、ゆっくりと確実に動いていった。

 別邸に着いた後、隼人にわかりやすいように、先ほどいた位置に取り次ぎ役の者を一人、二人ほどいさせた。

 残った従者達で、松明をもらいに入って行ったのだった。


 しばらくして、別邸を出た。

 従者達も長いこと、歩き詰めだった者もいたので、休息を少しは取れたようだった。

 松明を分けてもらっている間、私は門の内に入ることはせずに、牛車を近くに停めさせた。

 その中で仮眠を取ったり、邸の者が気を利かせて持ってきた白湯を飲んだりしていた。

 一刻もいることはせずに、早めにもとの場所へ戻ることにしたのである。

 戻ってみると、何と、隼人が待機していた者たちと共に私が来るのを待っていた。

 牛車が停まるのを待たずに、こちらへと駆け寄ってきた。

「中将様!つい、先ほど、戻ってまいりましたが。僧都様のお返事を口伝で承ってきました」

 すぐに、膝をついて、言ってきたのである。

 簾を上げて、降りた。

「…そうか。それで、返事はどのようなものだった?」

「はい。今、僧都様はあちりの五条堀河に向かわれるため、出立なさいました。中将殿がお体でも、悪くされたのであれば、すぐ行こう、とのお言葉です。私が『主の親しくなさっている方が突然、発病なさり、その修法をお願いしたい、とのことです』と弟子の方に頼んで、お伝えいたしました。そしたら、慌てて仕度をなさり、牛車ではなく、徒歩で行かれたのですが…」

「か、徒歩(かち)でだと。何で、お止めしなかったんだ!」

 それを聞いた途端、大声で怒鳴りつけていた。

 隼人はひるんだらしく、一瞬、黙り込んだ。

「…申し訳ございません。ですが、あまりに慌ただしくなさっていたため、お止めするどころではなかったのです」

 必死に、弁明するように言う。

 呆れて、うなだれるしかなかったが、すぐにでも、僧都の後を追うしかない。

 このような夜中に、供を連れずに徒歩で行かれるなんて、嵐の中、一人で飛び出して行くほどに危険極まりないことなのだ。

 野犬や下手をすれば、盗賊に襲われる可能性だってあるのだ。

「早く、車を出せ。僧都の後を追うぞ、隼人、ご苦労だった。お前は一足先に行って、お供しろ。良いな?」

「またですか。でも、姫君の御事を考えれば、すぐに参ります!」

「ああ、頼む。本当に今すぐに行け。このまま、ぐずぐずしていたら、よけいに危険だからな」

「はい。では、行って参ります!」

 一気に、きびきびした声で言うと。

 また、馬に乗って、素早く去っていった。従者や牛飼童も必死になっているのだろう。

 車はものすごい音を立てながら、僧都の後を追っていった。私も車の外へ振り落とされたりしないように、袖(牛車の側面の部分)ね内側にしがみつきながら、何とか持ちこたえていた。

 小倉山の辺りも通り過ぎたのだろうか。今はそれすら、わからない。

 ただ、追いついてくれるのを願うばかりだ。

 そんなことが小半刻ばかりも続いただろうか。

 牛車が先ほどまでかなりの速さで走っていたのが、いきなり、ゆっくりになった。

 物見を開けると、従者が側に寄ってきた。

「中将様、都の右京の七条に入りました。隼人の姿がうっすらと明かりの向こうに見えましたので、あともう少しです」

 私にそう、知らせてきた。

「そうか。とりあえず、僧都に追いついたんだな…」

 一気に、力が抜けていった。

 まったく、あの方も人騒がせなことをなさる。

 僧都のすぐ後に追いつけたのは、それからまもなくだった。 隼人は私たちの一行に気が付いて、僧都と供二人に待つように言って、こちらに近づいてきた。

「中将様!後を追ってくださったのですね。間に合われましたようで」

「ああ。このまま、僧都殿には牛車にお乗りいただく。供の者たちにも、付き添うように伝えろ」

 はい、と勢いよく答えて、相手側に私の意向を伝えにいく。陶真上人こと小倉の僧都が隼人について、こちらへ少し経ってから、来られた。私も自ら、上人をお乗せするために手助けをする。

 もう、六十近い歳でいられるため、何かと行動を起こされたりするのも億劫なはずだ。

「さあ、僧都殿。こちらへお乗りください。ずいぶん、お疲れになられたことでしょう。もう、お年なのですから、あまり、無理はなさらないように…」

 前簾をあげながら、自身の不満を丁寧な口調で言った。

 僧都殿は私の腕をつかんで、内に入りながら、こう返事をした。

「…相変わらずというべきですかな。声はまるで、女を思わせる物柔らかさを感じるのに、言葉はきつくていられる。一体、何人、その甘やかな物腰で射落としてこられたのやら…」

 しわがれた声でおっしゃる。

 妙にあきれがちなのを滲ませながら、ため息をつかれた。

 私の横に座られるのを見計らって、返事をした。

「僧都殿もお変わりないようで。そのように、軽い冗談を言えるのでしたら、お体の具合は大丈夫のようですね」

「…そのように、かわされる所を見ると、色好みの噂はいささか、嘘ではないようですな。宗明殿、私の方にも届いておりますぞ。幾多もの女人たちに通われている、という都人の評判が。白状なさった方が身のためだと思いますよ」

「上人、世俗をお捨てになった方がおっしゃるようなことではありませんよ。少し、静かになさって、休まれた方がいい」

 押し切るように言うのが精一杯だった。なかなか、鋭い所をうがってくる方だ。少し、まんじりとしないまま、黙り込んでいたら。

 牛車が動き出した。 「…まったく、ここ、最近は女がどうの、色恋がどうの、といっていられないというのに。何故、あなたはそんなことを根ほり葉ほり聞きたがるのやら…」

 つい、ぶつぶつとぼやいてしまっていた。

 上人は聞き咎めるように、言ってきた。 「ほう。今はめっきり、女君方のもとへはふっつりと通われなくなっているのですか。なるほど。今夜、いきなり、使いをよこされたのもその件に関して、ということですかな?」

 随分、こちらが聞きにくいことを尋ねてきた。

 渋々、認める。

「まあ、そのような所です。けれど、本当に清い仲ですから、誤解のなきよう、お願いしますよ」

「そうですか。あなたとしたことがそれはまた、お珍しいことで。そちらの方面では慣らされたお人でも、口説き落とせぬ女人がおられましたか。よほど、情のこわい方なのでしょうな」

「…僧都殿。声が大きいですよ、本当に静かになさった方が…」さすがに、こちらも腹が立ってきたので、慌てつつも注意をした。

 いくつも年上でいらっしゃるが、どうも、馴れ馴れしい口をきいてしまう。

「…わかりましたよ。宗明殿の仰せですからな、しばし、黙っているとしますかの」つまらなそうに、口を尖らせながら、言う。

 この方も黙っていれば、それなりに修行の積んだ僧侶に見えなくもないのに。

 少しでも、口を開けば、人の弱点を突こうとする。

 昔から、そのような所がおありだったのか。

 それでも、私の色好みのことで、こんなに興味津々にされるのも、いい気持ちがしないものである。それでも、牛車は五条へと向かっていたのであった。



 五条に着いたのは、丑の刻頃だった。

 上人を先に降ろして差し上げた後、私は後で下車した。

 つい、話し込んでしまって、長くかかってしまった。

 今は姫の容態がまず、気になるというのに、どうかしてしまったのだろうか。

 私は葛姫のことはどうでもいいと思っているのだろうか。

「…中将様。どうなさいましたか、そのように立ち止まられて」「ああ、いや。何でもない。今、行く」

 はあ、とまだ、わけのわからないような表情を隼人が浮かべる。

 夜闇が全てを飲み込むように迫ってくる。

 早く、姫のもとへ行って、確かめなければ。

 その思いがなくなってしまっているのが自分でも、信じられなかった。

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