第三話、薄氷を踏む音三
そうだ、あの香子姫は最初、私に自分から、それとなく、気のある素振りを見せておきながら、こちらが本気になった途端にするりと身をかわすようにして、逃げて行ってしまったのである。
しかも、よりにもよって、実の弟である友成にも近づき、女である自分の方から、言い寄ったのだ。その後、二人は婚約をしてみせたのだから、小気味いいとしかいいようがない。 全く、思い出しただけで、腹立たしい。よくも、弟の少将、義隆殿と一緒になって、ものの見事にフってくれたものである。
これが、憂さ晴らしをせずにいられるか。もう、怒りのせいでぶるぶると体中が震えだした。
今でも、香子姫にフられたことは、忘れたことがない。
そこを落ち着けて、深呼吸をする。
そうだ、今はそんなことを考えている場合じゃない。
几帳の隙間を探すことに専念した。
ごそごそと少しの間、やっていると。几帳の帳子(かたびら)に手が当たった。
それを試しにひょい、と上げてみる。半身を向こう側へ潜り込ませてみた。
「あ…!」
と、姫が小さな悲鳴をあげたのはそれとほぼ同時だった。
私は逃げようとされる前に袖をつかんだ。
そのまま、髪をつかみ、相手の動きを半ば、封じ込めた。
「何をなさるのです。お放しください。このような無体なこと、どうして…」
葛姫は後は言葉にはならないようで、また、あまりの突然のことで理性を失い、混乱しているようだった。
さすがに、それを聞いて、私は我に返った。
「これは、失礼をいたしました、ですが、今は女房達はおりません。ただ、あなたに近づくのだけはお許しください」
久方ぶりに調子の良いことを言いながら、そろそろと近づく。
姫は身を固くして、顔を向こう側にこれが限界といわんばかりに捻っているようだった。
袖で隠してもいるようで、
「いくら、明かりがないからといって、このようなことあんまりです。わたくしのことをそんなにまでして、軽んじていられたのですね」
と、言う声がはっきりと聞こえない。
やはり、そこは見かけによらず、芯がしっかりとしているというか、思慮深い方だと思った。
仕方がなく、ここで引き下がるわけにもいかず、姫君の体をこちらへと引き寄せた。
膝の上にお乗せした。
「これ以上は無体なことはいたしません。どうぞ、顔をお上げください。辺りは暗くなっていますから」けれど、よほど、腹が立っているようで、うつむいたままで黙り込んでしまった。
朝方であれば、お顔をはっきりと見ることができるが。
夜の真っ暗闇となれば、そうもいくまい。
「何か、お話になっとください。意地を張らずに、少しは打ち解けていただきたいものです」
またも、促したが。うんとも、すんとも答えてはくださらない。
大分、肩の辺りなどに触れていると、すらりとした感じであるのが伝わってくる。
背が高くていらっしゃるか。あの香子姫はもっと、小柄で華奢な感じの人だったな。
そんなにやせているというわけではなく、豊満なわけでもない。
だが、着ていられる衣がやけにごわごわしたもので、以前、姫君用の衣装もお送りしたはずである。もしかして、お召しにならなかったのか。
「…先日、こちらに染めに出していない白地の布や衣装の類をお送りしたはずです。何故、もっと、やわらかなのを召されないのですか?」
つい、気になったので、尋ねてしまった。
姫を怒らせてしまうか、と内心、ひやりとしたが。
それでも、この質問にはどう思ったのか、ふいに顔を上げられたようだった。
「…新しく、華美なものは見ているだけで。どうも、落ち着けませんから。だから、古いのを着ているのです。ですけど、そのように言われたのであれば、これからは身につけるようにいたしましょう」
ひそやかな声でおっしゃったのである。 「別に無理強いをするつもりはありませんよ。今回は私も、性急すぎましたね。ご無礼をいたしました」「いいえ。姉上も亡くなられた今となっては、お頼りできるのはあなたお一人だけですもの。いかなることになっても、構わないと覚悟はいたしております」
先ほどとは打って変わって、どこか、凛としたものさえ、感じさせる調子でおっしゃる。
「そんな、覚悟だなんて、なさらなくとも。確かに辛抱せざるをえないことも世の中にはあるでしょう。あまりに思い詰めすぎても、お体に毒ですよ」
やんわりとたしなめるように、言うと、姫君は私にいきなり、身を預けるようにして、そのまま、黙り込んでしまった。どうしたのか、とこちらも一瞬、慌てた。
「…ひ、姫!どうなさいました。お体の調子でも、悪くされたのですか?!」
大声で、叫んでしまっていた。
だが、返事がない。とにかく、無我夢中で、両手で葛姫を支える。
あまり、乱暴にしないように注意した。 「…どうなさったのですか、しっかりなさい!」
揺さぶってみても、体がぐったりとして、がくがくとするばかりだった。
その手応えのなさに、急に不安が押し寄せてきた。
もう一度、先ほどのように膝に乗せて、姫の首筋にそっと、手を持っていってみた。
何故、そうしたかというと、医師がよくそうしていたのを思い出したからだ。
おそるおそるやってみると、弱くはあるが、ひとつ、ふたつ脈と思われるものが打っている。
それをまず、確かめてすぐに手を離し、今度は首を支えながら、口元に耳を持って行く。
時折、苦しげにしているが、息もある。それで、ひとまず、安心してから、開いている蔀戸の方に向かって、大声で叫んだ。
「誰か、誰かおらぬか。姫君がお倒れになった。薬師を呼んでこい!」
けれど、誰かが来るはずはなく、声が外に響くだけである。そうしている間にも、葛姫は弱々しくなっていくのであった。
急いで、私のいた部屋まで戻り、女房に呼びかけた。
簀子にたまたま、控えていた少納言に、 「早く、残りの女房なり、従者達をたたき起こしてこい。事は急を要する!」
と、怒鳴りつけた。びくっと、一瞬ひるんだものの、すぐに裾にけつまづきそうになりながらも、走って行ったのだった。
その後、小半刻もしない間に従者の一人、昼間、女房達を探すのに一役買った隼人(はやと)が慌てて、やってきた。
「…中将様。ひ、姫君がお倒れになったとか!」
「すぐにでも、薬師を呼んでこい。とにかく、すぐにだ。わかったな?!」
こっちもいい加減苛ついていたから、半ば叫んで、命じていた。
「は、はい。では…」隼人は走って、厩に行った。
それを見送りながら、姫君が寝かされている寝所へと入った。
側まで近づくと、まだ、苦しげになさっているようで、灯明を近づけると、顔色が青白く、ひどくやつれてしまっているのがわかる。
先ほど、一人でこちらへ戻ってきた時、まだ明かりがついていたのを頼って、葛姫を御帳台の中へと寝かせておいた。
あまり、経験のないことではあるので、普通であれば、慌てるだろうが。
けれど、以前に一度か二度、女と逢っていた時に気絶されたことがある。
その時の事を思い出して、行動を起こせたので、今回は助かった。
もう一度、昏々と眠り続けている姫君を見た。なるべく、丁寧に扱うように気をつけておいたが、それでも、髪がそのまま、放り出されて、引き散らかされたような糸の束のようになってしまっている。
けれど、今までの日々の困難な生活のせいで量が減ってしまって、細くなってはいるものの、むしろ、健康でふさふさとしているのよりもさっぱりと軽さを覚えさせる。
「…今まで、本当によくあなたのことを放り出しておいたものです。申し訳なくて、言葉も出ませんよ…」
つい、呟いてしまっていた。
髪に触れてみると、夏の荷葉の懐かしさを覚えさせる香がほのかに薫ってきた。私の焚きしめている香も同じものだが、あくまで優しい柔らかな香りが鼻をかすめる。
少し、撫でていたら、女房の足音が乱れがちに聞こえてきた。
慌てて、離れる。
「…ち、中将様。たった今、薬師殿が到着いたしました。こちらに参るということですので、別の所へお移りくださいますよう…」
息を切らせて、苦しそうに言う。
「あ、ああ。それより、そなた、走ってきたのか。ひどく、息苦しそうにしているが」
「それはそうでございます。中将様、これより、有験(うげん)の僧も参りますので、あの、そのことについてもお願いしたいのです。頼れるのはあなたさまだけですし」
隼人は素早く、祈祷僧のことも手配しておいたらしい。
話しているのを聞いていると、そのことはわかった。
「わかった。これより、寺へ参る。僧都もお呼びする故、こちらでも仕度をするように!」
理解した途端、私はすぐに行動を起こすため、立ち上がった。
「ですけれど。何も、中将様直々に行かれずともよろしいのでは…」
「こういう時こそ、私自身で行くのだ。使者を出すのも、その暇さえ、今は惜しい。だからだ」
きっぱりと言い切ると、少納言は困ったような表情になった。
「ですけど。いくら何でも、これは…」
なおも、食い下がってきそうだったので、それを振り切るように、車宿の方へと向かった。
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