第二話、薄氷を踏む音二
普段は人に対して、不満などはあまり、いわない方なのだが。
こんな風にはっきり言ってくる所を見ると、相当、怒っていられる。
ううむ、これはかなり、まずい。
「…どうかなさいました?随分とお顔が青ざめていらっしゃいますよ。どこか、悪い所でも…」
一人で鬱々としていると、心配げにする姫君の声が聞こえてきた。
「…いえ、特にこれといって、悪い所はありませんよ。ですが、最初にあまりにも丁寧なご挨拶をなさったので。内心、私がしばらく、こちらへ通わなかったことを怒っていられるのか、と思ってしまいましたよ。少しは恨みに思っていられたようですが。でも、時折はこちらにも文は送っていたはずです。それだというのに、自身のことを忘れてしまったのではないか、と私をお疑いになるとは。私の評判も落ちたものですね」
長々と普段であれば、こちらに来られなかった言い訳を口にするところなのに、非難するようなことを言い募ってしまった。
いつになく、真剣な口調であったにも関わらず、葛姫は大して動揺はみせず、いたわるような声で言った。
「そんな、中将様の評判が落ちていることなど、そのようなことはありませんわ。あまり、こちらにいらしてくださいませんでしたから、少し冗談でいってみただけですのよ?最近は、他の女君のもとにはお通いでないと、そのような噂はわたくしも聞き及んでいますし」
「そうでしたか。ならば、よいのですが。これは不躾なことを申しました。お許しください」
「いいえ。かえって、そのように丁寧になさいますと、何やらこちらも落ち着かぬ心地になります。どうぞ、気楽になすってかまいませんのに」
「そういうわけにもいかないでしょう。私はあなたの後見人の立場にあります。そんな色めいた仲でもありませんし。あまり、葛姫、お気を使われずともよいのですよ。もともとは戯れで、通い始めたような私に対して、けじめをつけてほしい、とおっしゃったのはあなたなのですから」
きちんと真面目に返すと、姫はそれきり、黙り込んでしまったのだった。
こちらの葛姫はかつて、私の友人である新図書大夫である藤原実輔殿が通われていた方の腹違いの妹君にあたる。
今はその姉君も亡くなられ、図書大夫殿も仕事に追われるうちにこちらに寄りつかなくなってしまった。
かつては彼も自身のできる範囲でこのご姉妹二人がそろっておいでになった時には日々の生活の面倒を見ていた程だったのに、である。
それでも、私が妹君の援助をするようになってからは、時たま、妹君がどうしておられるか尋ねてくることはあっても、めっきり、気にかけないでいるようだ。とりあえず、夜中になって、その日はこちらの邸に泊まって行くことになった。 姫君と同室で寝むことはこれまでしてこず、体面上の関係でやってきているのだ。
別に私が冷淡に思っているわけではないことを向こうも分かってくれているから、ある意味、他の女人の所へ行く時よりも気が楽ではある。側にいた女房がひと通りの酒と肴(さかな)を持ってきた。
このさびれた邸でも下働きの女達は以前と同じように働いているらしい。
杯に白く濁った酒を入れて、
「どうぞ、お召し上がりください」と、そそくさと勧める。
くいっと、一気に飲み干した。また、さあさと勧めてきた。 「姫君のおられる寝殿で酒気をはらんだ男がいるのは不都合でしょう。他の者達にもふるまってきなさい」
そう言うと、急いで、退がって行った。月を眺めながら、一杯といきたいところだが、そうもいかぬらしい。
今日は新月なので、闇夜なのだ。外へ出たとしたって、夜空には星灯りしかないはずである。
なので、これも家司に分けるようにいっておいた油により、部屋には灯明がつけられている。
釣灯籠の方にも火がともされている。
とはいっても、ふんだんに使われているというわけではないから、自邸である一条宮にはやはり、劣る。
あまり、飲んでもいられぬため、三、四杯ほどでやめた。
姫君の寝所に行くことを今まで、避けてきたのはあくまで援助めいたことをするのが目的で、別に男女の関係は二の次、三の次だったからだ。
もともとは実輔殿から、姫君の話を聞かされて、興味を持って、試しに文を送りつけたりしたのがきっかけだった。
それがいつのまにか、世間の噂になり始めた、といった所である。
「中将様。お酒を楽しまれているところ、申し訳ないのですけれど。姫様がお話がある、とおっしゃっています。いかがなさいますか?」
「私に話が?一体、どういう風の吹き回しだろう。あの方から、呼びかけられるなど…」
女房が遠慮がちに言ってきた。それにとっさに、一体、何故?という驚きがまさって、呟いてしまっていた。
「いえ。こちらのお邸の今後のことについて、ご相談したい、とおっしゃっています。そのことで以前から、中将様に申し上げたい、と常々、私どもに話されていましたので」この堀河のお邸について、私に相談したいから、わざわざ、こんな夜更けになってから、呼び出すようなことをなさったのか。
女房の説明でおおよその見当はついたものの、けれど、どうしても疑念が拭いされない。
仕方がなく、腰をあげて、ついていくことにした。
「こちらでございます。足下、暗くなっておりますから、お気をつけくださいませ」
向こうからの呼びかけに、ああ、と答えながら。
細殿を通ることはなく、寝殿の襖障子のうち、姫君のおられる方にある戸を開けさせて、行くことにしたのだった。
長年、人が住まず、空き家同然になっているので、時々、床板がぎい、ぎいと歩を進めるたびに不気味に音を立てる。「…こちらに随分と来ないうちに、また以前よりも寂れてきているな。時々は掃除させるようにはしているのか?」
「いいえ、姫様はそこまで、気の回るようなお方ではございませんので。私どもでそれを指図したくとも、できませんし。ですから、そこかしこ、放ったらかしになっている有様ですの。一度ならず、何度もこちらのお邸を出て、他の所へお移りになった方がよいのでは、と姫様に申し上げたことがございましたけれど。一向にお耳を貸してはくださらなくて…」
あまりにも、室内の様子がすごいことになっているので、思わず、尋ねてしまったが。
女房は普段から、不満を持っていたのだろう。
一気にしゃべりだしたのであった。
「おかげで、どんどんお邸は荒れる一方ですし、仕える家人の数もめっきり減ってきております。けれど、姫様は『このお邸を出たって、どこにも私の行き場所などありはしない』と、言われる始末で。幸いなことに、中将様のように日々の暮らし向きの面倒をみてくださる方がいらっしゃるのですし。そちらに頼られたって、世間はそこまで、取りざたしませんのに」
まだまだ、言いたい様子だったが、ここらあたりで遮らせることにした。
「…そうか。確かにそれは大変だな。そなたがいくら言っても、主である姫君が動いてくれないことには何にもならないだものな。それはそうと、姫君の居所はいつになったら、着くんだ?」「あ、はい。ではこちらに…」
ぎくりとしたように、顔を上げると、慌ててまた、先導を始めだした。
どこの女房も噂話が好きなのだな、と呆れるやら、少し、おかしいやら。
複雑な心持ちで、姫君の部屋に気づかないうちにたどり着いていた。
「…では、私はこれにて失礼いたします」
女房は少し、気まずそうにしながら、退出していった。
「姫、私にお話がある、と伺いましたので、こちらに来ました。何か、ご相談したいことがおありとか」
女房が控えていないので、それを矢継ぎ早に尋ねた後、床にそのまま、座った。暗いのでよく見えないが、御簾がおろされていないのがぼんやりとながらもわかった。目の前には几帳が二つ、三つ置かれていて、それの後ろで人の身じろぎする気配がした。
「あの。そちらにいられるのは宗明様ですか。何故、こちらに…」
ためらいがちに問いかけてくる声は葛姫のものだった。
「…何故といわれましても。お呼びになったのはあなたでしょうに」
「え。あの。そのお話は夜が明けてから、伝えなさい、といっておいたのですけど。もしかして、女房が早合点をして、あなたに申したのでしょうか。そうでなければ、こちらへ来られるはずがありませんわね」
「たぶん、そうでしょう。先ほども何やらいろいろと言っていましたよ。『姫君が一向に耳を貸してくださらない』とか何とか。あまり、聞いていても耳障りななるような事ばかりでしたから、途中で遮らせましたが」
「まあ、そのような事を言っていましたのね。あの相模(さがみ)にも困らされているのです。いつも、機会を伺って、『早く、こちらのお邸や調度品を売ってしまって、他の所へ移ってしまいましょう』などと持ちかけてくるのです。わたくしにそのような気はない、といっても、しつこく迫ってきて。ですから、最近ではあまり、側に控えていても、何かしら、用を言いつけないようにしております」
普段から、本当に困らされているのだろう。
姫の口調から、迷惑がっているのが手に取るようにわかる。 だが、あの相模とかいう女房、何故、あんなにしてまで、促そうとするのだろう。
誰か、私以外の男が姫に言い寄ろうとして、側仕えの女を金品か何かで釣って、手懐けたのかもしれない。
それがあの相模という女房の可能性はある。と、冷静に考えてはみるが。
この場の雰囲気はそういうことを考えるのには不向きではあるような。
かつては、都でも名うての…と、いわれていたのに、こうも緊張してくるのは、一体、何なのだ。
「あの、中将様。何か、おっしゃってくださいませ。そのように黙られたきりでは、わたくしも答えようがありませんわ」
「あ、姫。これは失礼を。相模のことについて、話していたのですね。それにしても、随分と困らされているようで。その女房、どこか得体の知れないものを感じますね。もしかしから、誰かに金品を握らされて、それに目がくらみ、あなたをおとしめようとしているかもしれません。これからはなるべく、毎日というわけにはいかないかもしれないが、できるだけ、訪れるようにしましょう。邸の者にも怪しい人影などがないかどうか、気をつけるようにしておきます。どうぞ、ご安心ください」
「けれど、あの相模がそのようなことを考えているだなんて。信じられないわ、何故。わたくしを裏切るような真似を…」
「それはわかりません。これはただの憶測です。そのような可能性があるというだけで」肩をすくめて、そっけなく言うと、また絶え入るように黙り込んでしまわれた。
どうしたものか、と思ったが、だからといって、姫君の前にある几帳を取りのけてしまうわけにもいくまい。
だが、それでは。何々を食わぬは男の恥、というし。
結局、あまり、音を立てぬようにしながら、そっと、立ち上がった。
こうなったら、即行動だ。それしかない。
そんな風に思いながら、几帳の向こう側に回ろうとして、入れそうな隙間を手探りで探した。
それにしても、我ながら、情けなくはないか。
もともとは、口説いた女は必ずといって良い程、落ちてきたというのに。
これが今では、正反対といっていいくらいのありさまだ。
そう、あの大納言家の香子姫!
あの姫にさえ、関わらなければ、こんな風な目にはあってはいなかったのだ。
と、つい、過去の事を思い出して、頭に血がのぼってしまった。
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