千里香

入江 涼子

第一話、薄氷を踏む音一

 いつの世も、色を好む男は多い。私自身もその中の一人には入るだろう。


 特によく人の噂にのぼる方ではあるが。

「兄上、そちらでどうされているのですか。いつまでも、寝てばかりいないで、お起きになってください。文の使いが来ていますよ」

 いつものように、まるで、小姑のようにうるさい弟の友成が呼びかけてきた。

 一応、弟ではあるが、そもそも、私とは生まれというか血筋が違う。

 私の母はもとは、公卿の姫であった。だが、友成の母は先々帝の皇女であったやんごとない身分の方だ。

 女二宮と呼ばれた方がこの弟の母君である。

 時折、皇女の子として、生まれた彼が憎らしくなる。

「…わかっている。今、そちらに行くから。友成、おまえもなすべきことがあろう。早く、自分の居所に戻りなさい」

 そっけなく言うと、弟は何か言いたげに、一時黙る。

 そして、そのまま、去っていった。



 足音が遠のいた後、女房が遠慮がちに入ってきた。

「宗明さま。ほんによろしかったのですか、弟君をお帰しになって。ずいぶんと、心配そうになさっていましたのに…」

「よいのだよ。放っておきなさい。あれもまた、何か用があれば、自分から来るだろうから」

「ですけれど。あまりにお気の毒ですわ、弟君が。あのように、冷たくされる必要がどこにあるというのですか。幼い頃はそれは仲良くていらしたというのに」

 不平を言い始めた女房を私は、きっと、睨みつけた。

「そのようにうるさくせず、早く文をこちらへ持ってきなさい。先ほど、届いていたというのがきこえなかったのか」

「は、はい。ただ今…」

 そのまま、びくっと体を震わせたかと思うと、一目散に外へと出ていった。

 すぐに文を持ってきた。

 今の季節にはちょうどいい姫百合の花に薄様の紙が結びつけられている。

 その紙にたおやかさを感じさせる筆跡で、

〈時雨降るその晴れ間にも空を見てはるかに想ひ眺めわたさむ

 いつかは私のもとにもおいでくださいな。女の方からこのように言うのは、差し出がましいてお思いでしょうが。この頃はおいでにならないので、所在ない日ヶを送っています。〉 ごく短く記してあるのを見て、かの堀河中納言の姫君であることがわかった。

 あまり、恨みがましくはしないで、ごく簡単な文面ではある。歌の意味は、(時雨がひとしきり、降っていても、いつしか晴れていきます。そのわずかな晴れ間でも雲のない空を見て、遙かに遠くなっているあの方を思い出しながら、眺め渡していることです)というものだ。

 そのせいか、放っておく気にもなれず、すぐに返事を送ることにした。

〈五月雨の明けにし時に立ちのぼる小百合の上に霧らふ朝霞

 あなたは空を眺めながら、何を考えてお過ごしなのでしょう。それを教えてくださってこそ、理無い(わりな)仲というものですよ〉

 嫌みなものになってしまったが、一通りの手順はすませて、送った。

 意味としては、(五月の今降っているうっとおしい雨が止んだ時に、小百合の上に一面に立ちこめる朝霞。私はその霞に惑ってしまい、とても、あなたの所へ行けそうにもない、と思っています)というものだ。



 一月か二月ほど前まで、通い所にしていた方からの催促の文などで随分と、悩まされていたのがうそのようだ。

 弟はそのこともよく気にして、悩んでいるようである。

 小憎らしいとしか、見ることができなくなってきつつあるけれど。

 それでも、私のことを心配してくれているだけありがたい、と思うべきなのだろうな。


 試しに、翌日に堀河の姫君の許を訪ねることにした。

 牛車に乗って、小半刻ほどすると、大分寂れたというか、築地の辺りなども所々崩れたような所があり、見るからに以前よりも荒れてきている。

 昼間に来たので、物見窓から伺うと、よくわかってしまうのがまた哀れさを誘う。

 門の方まで来ると、錠が錆び付いてきているのか、大分時間が掛かっているらしく、がたがたと長いこと音が鳴っていた。

 しばらくして、扉が開けられたが、邸の家人は申し訳なさそうにした。

「最近、お客人などもまばらになっておりますので。滅多に門を開けることもなかったものですから。大変、失礼をいたしました」

「いや、かまわないよ。今日はさほど、急いでいるというわけではないから。そんなに気にしなくてもいい」

 そう、慰めるように言うと、ほっとした顔になって、どうぞお入りください、といって、去っていった。

 門から邸内に入ると、庭はさらに荒れ放題になっていて、植えてあった木も大木と化しており、辺りを薄暗くしている。草花なども見あたらず、草が人の背丈以上も伸びてしまっている、というありさまだった。

 かの姫君も今年で十八になられたと聞く。

 そんなうら若い姫君がこのような寂れた邸に住まわれているのはやはり、おいたわしいことではある。

 それに昼間でさえ、こんな暗い中では心細い思いをしていられることだろう。

 階の所で、牛車から下りる。

 そのまま、一段ずつ上がっていくと、使われている木材がもう古いためだろうか。

 ギッギッと不気味な音を立てるのを聞いて、少し恐怖を覚えた。

 簀子にまで来ると、従者が声をかけてくる。

「やはり、ずっと、女所帯でこられましたから、仕えている家人の姿もまばらになっておりますね。私が女房を探してきますので、中将様はこちらでお待ちください。中へ通していただけるよう、頼んでまいります」

 そう言って、がさがさと草をかき分けていく。

 従者の姿が見えなくなった後、誰も話し相手がいないので、そのまま、座って待つことにした。

 ざわざわと木の葉が擦れ合う音がして、風が吹いていたことに気が付いた。

 同時につられて、草もさあと音を立てる。

 朝、雨が降っていたせいか、草も木も露を含んでいるようだ。

 身を乗り出すようにして見てみると、玉のようになった露が草の間から、透いてみえる。

 それをじっと、眺めていたら、床の鳴る音が聞こえてきた。衣ずれをさせて、じきに女房がやってきた。

 この間、ふと、思いついてこちらに、女房の装束用にと反物や衣一式を送っておいたのである。

 ちなみに、染め物用の道具などもであった。

 母方の祖父上、先内大臣の北の方であられたお祖母様にも、実は反物の三つか四つ程をいただいていたので、それは女房達にいって、単衣などに仕立てるようにいっていた。

 それで、気安く、仕立てを頼めたのだ。

 その女房が着ている衣も私付きの者達で、仕立てたものである。

 つい、二月かそれくらい前まで所々、色がはげ落ちてしまっているようなものを身につけていたので。

 割合、きれいに身支度をしているのを見ると、やはり、わざわざ送った甲斐があったと思える。

「…まあ、そのような端近な所にいらっしゃるなんて。これは大変、失礼をいたしました。先ほど、お仕えしている方がわたくしどものいる所にまで、来られたので、何事かと思いましたけれど。その方が「ただ今、宰相中将様がこちらへ来られましたので、至急おいで願えませんか。また、我が主がいらしたこと、姫君にもお伝えください」とおっしゃっていたので。取るものもとりあえず、こちらに参上いたしました。どうか、この不手際、お許しくださいますよう…」

 言葉の終わりの方で、深ヶと手をつき、頭を下げる。

 いくら、従者が気をきかして、邸の人間を呼びに行ってくれたとはいえ、一人、長いこと待たされるのも苦痛なことではある。

 なので、従者が戻ってくるよりもこの女房が早く、来てくれたのは正直、助かった。

「いや、そんなに待たされたわけではないよ。あなたがそのように気にされる必要はない。私もそんなに気にしていないから」

「いいえ。それでも、お客人が来られたというのに、この不手際。おもてなしもできないようでは女房は務まりませんわ」

「…まあ、それよりも。早速で悪いのだが、姫君の居所へ先導を頼んでもいいかな」女房がなおも食い下がろうとするので、それとなく、話を変えた。

 すぐに、相手も反応する。

「は、はい。では、今すぐにでも姫様の居所に…」

 女房は慌てたように顔を上げると、いそいそと立ち上がった。

 衣ずれの音をさせながら、先導をするのであった。


 姫君のおられる対屋へついたのは、小半刻ほどしてからであった。

 柱や置いてある几帳や御簾も所々、はげたりしていて、見るからに古びたものである。

 それを見て、今すぐにでもこちらの姫君を自分の邸に引き取った方がよいのではないのか、と思った。

 本当にこのまま、こちらにおられても、不如意な思いをされるだけなのは目に見えているからだ。

 先導をしていた女房が後から、やってきた仲間にいろいろと話している。

「お客人がおいでですから、早く仕度を。後、姫様にもお伝えくださいな。それと二、三人ほど、控えの人も頼みますよ」

「ええ。わかりましたよ、あなたは御座のご用意をしてくださいな。私は姫様にお伝えしておきますから」

 そう言って、二人ともばたばたとせわしなく動き始める。

「それでは、中将様。用意をいたしますので、少々お待ちください」

 先ほどの女房がかしこまって、そう言ってきた。

 それであるならばと、私は軽く会釈を返して、外へ出た。

 今は五月の下旬にあたるので、雨でぐずつきの日が多い。

 本来はそうなのだが、今日は珍しく、からっと晴れている。 青空が目に迫るようで、なかなかのものだ。

「…あの、中将様」

 外の方から、呼びかける声がする。

「戻ってきたのか。思ったより、時間がかかったようだな」

「はい。遅くなってしまい、大変申し訳ありませんでした。何せ、草が私の背丈以上に生えているものですから。一歩進むだけでも、普通にどこかの大路などを歩くよりも時間がかかりますので。おかげで、こちらへ戻ってくるのに、思わぬ手間をかけてしまいました」

「そうか。こちらへ戻ってくるだけでも、一苦労だったろう。一条宮の家人に言って、こちらの庭の手入れをするようにしておくか。そうしておけば、また、こちらへ来る時にはおまえが苦労をせず、行き来することもできるだろうし」

「…あ、ありがたき仰せです。そうしていただけますと、こちらの方々もどんなに喜ばれることか」

 従者は本当に、心底うれしそうにしながら、答えた。

 これでまた、一仕事できることになるが、姫の後見をすると決めた以上はこちらの都合どうこうという訳にはいかない。

「あの、御座の準備ができました。後、姫様がこちらへおいでになります。中将様にお越しいただきましたお礼をぜひ、申し上げたい、とのことでございます」

 ちょうど、打ち解けて、話に夢中になりかけていた時に、女房が呼びかけてきた。

「これは失礼を。もう、仕度が整ったようですね。どうぞ、あちらへおいでになられた方がよろしいかと」

「ああ、今行くとしようか。おまえも戻りなさい」

「はい、ではこれにて…」

 礼をしてから、また、がさがさと草をかき分けて、退がって行った。

 姫君こと葛(かずら)姫と御簾越しに対面したのは、それから、小半刻も経たないくらいの後だった。会った途端に、恨みごとを延々と聞かされるかと思いきや、以前に送った衣装の礼をまず、述べられた。

「…先日はいろいろと反物をいただきまして、こちらも本当に有り難く思っております。かさねがさね、御礼申し上げます。ありがとうございました」

「いえいえ。このように、一度にたくさん差し上げたりすると、かえって、失礼になりはしないかと内心思っていたので。喜んでいただけて、何よりです」

 いつもよりも丁寧になさっているので、こちらもつい、合わせてしまう。

 身動きがする気配がして、くすくすと忍び笑いの声が聞こえてきた。

「来られてすぐに、お迎えしたかったのですけど。身支度をするのに、時間がかかってしまって。けれど、あまり、長い間、お越しくださらなかったので。てっきり、わたくしのことなど忘れてしまわれたのではないか、と疑っていました」

 少し、皮肉をこめて、向こうから言ってきた。

 いよいよ、今まで通ってこず、放ったらかししておいた恨み辛みを言われる時がきた。

 あくまで、やんわりと穏やかにおっしゃるから、ただ聞いて限りではそんなに怒っていないように思える。

 だが、それが勘違いなのだ。

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