溺れる程のしあわせに
黎明の光を受けて、銀色の髪が妙なる色合いに輝く。
上り初める日の光に目を細め、石碑の傍に佇む美貌の青年の口元には皮肉な笑みが刻まれていた。
蒼を帯びた銀がさらさら風に吹かれるに任せ、死神は呟く。
「一年の猶予は与えると言ったけどね……」
わらう男の周りを銀の燐光帯びた蝶がひらりひらりと舞う。それは目にしたものの魂を惹きつけて已まぬ程に美しい。
男が浮かべる笑みは、春の長閑さを感じさせる雰囲気である。
けれども、瞳に宿す光は魂を凍えさせるほどに、冷たい。
花園に潜む毒蛇を思わせる男は、殊更わざとらしく嘆息すると呟いた。
「賢い子だから弁えるだろうと思っていたけれど、甘かったかな……?」
温かで頼もしい腕の感触を感じながら、かさねは眠りから目覚めようとしていた。
けれど感じる温もりがあまりに幸せで、もう少し、もう少し……と思ってしまう。
でも、それでは駄目……とかさねは緩やかに瞳を開いていくと。
「……起きたか」
「おはようございます、旦那様……」
腕に抱くかさねを覗き込むようにしていた鷹臣が、瞳があうと同時に呟いた。
どうやらとうに目覚めていたのに、かさねが起きるまで待っていてくれたようだ。
寝顔をずっと見られていたと思うと恥ずかしいけれど、いけない、とかさねは裡に呟く。
何時までもこうしていては、旦那様がお仕事に遅れてしまう。妾に入れあげて職務を蔑ろにしたなどと人に後ろ指を指させるにはいかない。
誘拐の一件以来、鷹臣はかさねの部屋で共に休むようになっていた。
時折軽い戯れを仕掛けられる事もあったが、大抵は包むように腕に抱いて眠るだけだ。
戸惑いはあったけれど、鷹臣が平素の怜悧な様子ではなく、安心しきった穏やかな様子を見せる。
その様子を見る事が出来るだけで、胸が苦しい程に幸せを感じてしまう。
本来ある人をさしおいて、この優しい場所を独占出来る事に不遜にも喜びを感じてしまっていた。
『かさね様は……お幸せでございます』
タキが目を細めるようにして言ったのを思い出す。
女中頭である老女は、目頭を押さえながら感極まった様子で言ったのだ。
『あのような旦那様のお顔を、今まで拝見した事がございません』
まるで息子や孫の事を語るような、慈しみの籠った声音だった。
タキは長らくこの紫園家に仕えているという。
話によると、タキの息子もかつて庭師として仕えていたらしいが、事故で亡くなったとのこと。
鷹臣の事も幼い頃から知っているであれば、思い入れも相応に深いに違いない。
今までの鷹臣は、自分にも他人にも厳しく、誰に対しても等しく冷淡で心を開く事はなかったという。
何処か他者と距離を置き執着しない。それは自分に対しても同じで、自分の事でありながら他人事のようにする時もある。
そんな鷹臣が初めて情と執着を見せたのが、かさねであるとタキは言った。
かさねが屋敷に迎えられるまでは、鷹臣はおおよそ笑みというものを見せた事がないのだという。
『かさね様は、今までの胡蝶様の中で一番愛されておいでです』
タキによると、鷹臣の妾はかさねが初めてだが、先代やその前は今まで色々な女が紫園家の妾として迎えられたのだという。
しかし、贅沢で幸せな暮らしに慣れた妾の中には、自分は特別なのだと、命が惜しくなって子を産む事を拒否するようになった者達も居た。
その女性達は揃って屋敷を追い出され、その後の行方は知れないらしい。
様々な女達が居た。けれども、かさね程愛されている女はいない。
かさね程慈しみを受け、笑みを向けられている女はいない。
老女はそう言うとかさねの手を縋るように握った。
『どうか、ずっと旦那様のお側にいて下さい。お願いでございます……!』
涙を流しながら懇願するタキを不思議に思う。何故ここまでと思わないでもない。
しかし、タキに願われた事は今のかさねの願いでもある。
命の続く限り、鷹臣の傍に居たい。
縋るようにかさねを抱き締める人の顔に、少しでも長く笑みを見たい。
少しでも、鷹臣の心が安らぐのを感じていたい……。
いずれくる終わりから逃れようとは思わない。それが、かさねがこの屋敷に来た理由であり、存在意義だからだ。
しかし、それまでの時間が少しでも温かで幸せを感じるものであれば良いと思っている。
かさねの日々にあるのは、鷹臣だけではない。
二人が共に休むようになったのを知った燁子は当然の事ながら面白くなさそうにした。
鷹臣に対して嫉妬交じりの物申したげな様子を見せていたが、実際に何か言ってくることはなかった。
かさねは、鷹臣が帰宅するまでの日中の出来得る限りの時間を燁子と過ごしている。
燁子は前にも増してかさねを傍に置きたがった。
前はどこか人形を可愛がるようであり、妹や娘を慈しむようであった。
けれど最近では、どこかかさねに縋るようなところがある。
全幅の信頼、一途で見返りを求めない情を向けられているのを感じる。
燁子と過ごし、鷹臣に抱かれて眠る。
例え世間から見て奇妙で不道徳と言える形であったとしても、向けられる慈しみには真心を以て応えたい。
与えられた一年を好きに過ごして良いというなら、出来る限り笑顔に笑顔の返る日々を送りたい。
それに。
かさねの心にはある一つの願いであり決意が生まれつつあった。
かさねは、キャラメルを入れた小さな缶を手に庭園へと足を踏み入れた。
慌てる台所の人々に頭を下げて、女学校の先生に教わった作り方を思い出しキャラメルを作った。
そして、死神が佇んでいるであろう池のほとりの石碑へと向かう。
忍の一件の後、部屋から出る事は許されるようになったが、何故か斎の元へ行こうとすると苦い顔をされていた。
しかし、今日斎の元を訪れたい旨を申し出てみると、鷹臣は渋い顔で暫く沈黙し、結局は許可をしてくれたのだ。
かさねの予想通り、斎はそこに居た。
かさねの訪れを喜び、更にかさねが手製のキャラメルを持参したと知って全身全霊にて喜びを露わにする。
この様子を見ているだけでは、本当にこの青年が死神と呼ばれる存在なのかを疑ってしまうものがある。
大岩に並んで腰を下ろし、斎は満面の笑みでキャラメルを口にする。美味しいと相好を崩す様子を見れば悪い気はしない。
自分を見つめるかさねに、斎はふと問いかけてくる。
「屋敷では随分大変な事があったのだね。あなたは大丈夫かい?」
「私は大丈夫……。でも、旦那様が……」
大丈夫、と呼ぶには傷の深い出来事ではあった。
未だに思い出したら震えが止まらず、悪夢に悩まされる時がある。
しかし、目覚めるその度に自分を抱き締める力強い腕を感じて安堵する。
かさねとしては、鷹臣が心配だった。
確かに傷は跡形もなく消えていたけれど、血は流された。臓腑とて傷ついた筈である。
あれだけ渾身の力で刺されたにも関わらず、鷹臣が受けた苦痛を引きずっている様子はなかったが……。
裡にて振り返るかさねに眼差しむけつつ、キャラメルをまた一つ口にした斎が特に気にする風でもなく呟く。
「ああ、鷹臣なら本当に大丈夫だよ。命を一つ喰らったなら傷が深くとももう回復している筈だしね」
さらりと、何事でもない風に言う斎を思わず凝視してしまうかさね。見ていたのかとでも言いたげな視線を向けてしまう。
屋敷の外の事は知りようがないと言っていた筈だが、と思って怪訝そうにしているのを感じたのか、斎は苦笑する。
「帰ってきたあれを見て、ああ喰ったなと分かっただけだよ」
斎は鷹臣が負傷した時に本人の意に反して他者の命を喰らう事を知っている。それを驚く事もなく、当然の事だと受け入れている。
鷹臣が『死神』と呼ばれる所以はその力にあるという。それを死神であるという青年は特段気にする事でもないと笑っている。
紫園の主と約束を交わしたという斎。未だそれが果たされないから、この場に留まっていると彼は言った。
鷹臣の持つあの力は、斎に由来するものなのだろうか。紫園に齎された『加護』故の。
かさねがある疑念と、ある可能性に関する思索に耽りかけた時、斎がのんびりと唐突な話題を口にした。
「あなたが閉じ込められている間に、嘉臣が何度か来たね」
かさねは思わず目を瞬く。
部屋に籠められていた時、かさねの元に来られるのは鷹臣とタキだけだった。
その状況であれば、屋敷に誰の訪れがあってもかさねには分からない。
嘉臣はどうやら、自分の所為でかさねが罰を受けている事に心を痛めて、申し開きの為に訪れていたらしい。
しかし、当然ながらというべきか、一度として面会は叶わず帰っていったという。
「嘉臣も可哀そうにね。あれは兄を慕って居るのに、肝心の鷹臣が知っての通りだ」
斎が表情を曇らせながら溜息をつく。
嘉臣を哀れと思っているらしい死神は、肩を竦めながら鷹臣への非難を籠めた言葉を口にした。
かさねも、それは気になっていた。
先代当主には他に子はいない。鷹臣にとって、嘉臣は唯一人の弟である。
それを何故あそこまで突き離すのか。屋敷に近づく事も許さない程に、遠ざけるだろうか。
腹違いという事を気にする人ではない。憎んでいる様子も、厭っている様子も感じられない。
その証拠に、鷹臣は嘉臣の学業や身の回りについては細やかに気配りし、采配している。
それなのに、嘉臣が近づこうとすると拒絶し、距離を置くのだ。
また一つ大きく嘆息したと思えば、斎は更なる言葉を重ねる。
「一応とはいえ、兄弟なのだから仲良くすればいいのに」
「……一応……?」
思わず訝しげな声をあげてしまう。
母が違えども、二人とも紫園家当主を父に持つ兄弟である事には間違いないではないか。一応も何もない、あの二人は確かに兄弟であるのに。
それとも、あの兄弟には何かあるというのだろうか。
人が知り得ない事情があり、それが鷹臣のあの態度に繋がっている。そして、それをこの死神は知っている……?
かさねが渦巻く問いに慎重に言葉を選ぼうとしていた時、斎は微笑んだ。
思わず息が止まる程に、現を忘れる程に、美しい笑みだった。
「それよりも、あなたは知りたい事があるのではないかな?」
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