オイ

(これは、オイ)


 薄汚れた民家の庭の果樹の間で、痩せぎすの幼い少女がうずくまり朽ちかけた木桶に溜まった雨水を覗き込んでいた。


 雨水にうつるぼんやりとした自分の顔を眺めながら、覚えたことをほんの少しでも取りこぼさないようにと自分に言って聞かせている。


(これは、オイ)


 少女は自身を『オイ』だと認識している。住んでいる家には『アンタ』と『オマエ』がいた。


 少女がふたりにそう呼びかけると殴られたので、ふたりをどう呼べばいいか少女は知らなかった。だから、少女は自分に許された自分の名だけを忘れないようにと繰り返す。


(これは、オイ)


 今日はオマエに『お客』が来ている。そういうときは、家に入ることもお客に姿を見られることも許されなかった。だから庭の果樹の間に隠れて少女はただ木桶を覗き込んでいた。


 果樹は、とても素晴らしいものだった。見つかってはいけないときに少女の姿を隠してくれる上に、季節によって様々な実を実らせた。


 少女が知りようのないことだが、それはオマエが家を決める際に季節のジャムやお菓子を作るのだと夢を語って選び、早々に飽きて放棄したものだった。


 それでも果樹は枝をはり実をみのらせ、それが少女の命をつないでいた。


 お腹が空いたとき、少女は自分に与えられた瓶詰めの酸っぱい野菜や硬く干された肉を食べた。それらはオマエやアンタの気が向いたときに買い足されるもので、一度、満腹になるまで食べてなくなった後に新たに与えられず、しばらくの間空腹にあえぐ羽目になったことがある。だから少女はそれらができるだけ長く保つように少しずつ大切に食べ、日々果樹の実りで飢えをしのいでいる。


 少女がかろうじてここまで育ったからには、赤子のときには世話をされていたはずだった。それでも少女が物心がつくころにはこうして過ごすことが当たり前だったし、それ以外の暮らしを少女は知らなかった。


(今日は、アンタがやさしいといいな)


 アンタは機嫌が悪いと少女を殴るが、機嫌がいいときは優しかった。甘くて柔らかい、おいしいお菓子を買ってきてくれることさえあった。オマエには今日お客が来ているから、失敗して見つからないかぎりは殴られないだろう。


 殴られるのも蹴られるのも辛いが、少女は最近気付いたことがある。いたいなあ……と思いながら肌をさすると、自分の手のひらが暖かく光って痛みが消えるのだ。これがあればもう殴られても蹴られても大丈夫だと、少女はそう思っている。


「オイ!どこにいんのよ!」


 果樹の間で微睡んでいると、夕暮れの中にオマエが呼ぶ声が響いた。


「ここにいるよ」


 少女は慌てて果樹の間から這い出し、オマエに答えた。


「くそ!あの客払い渋りやがって!お前がもっと大きければ稼がせるのに!!」


 そう怒鳴ったオマエは激高していて、這い出てきた少女を蹴りとばした。頭はだめだ、目がちかちかと光って気持ちが悪くなるから。お腹もだめだ、せっかく食べたものを吐き出してしまうから。少女はそう思って亀のように丸まって頭とお腹を守った。背中とおしりなら、がまんすれば大丈夫だとそう考えて。


「いつ大きくなんのよ!こんなんじゃ一回売ったら壊れちまう!何にもできなくて、面倒くさい!!」


 オマエはただただ幼い少女に苛立ちをぶつけ、当たり散らした。そうしてありったけの憂さを晴らすと、はん、と鼻を鳴らして家に入っていった。周りは、すっかり暗くなっていた。


 少女はのろのろと体を起こし、痛む体を撫でさすった。


「いたいの、なくなれ。なくなれ」


 暗闇の中に光る自分の手のひらを体にあてる。そうすれば痛みが消えるから。それだけが、少女の頼れる暖かさだった。


「今何してた!!」


 手のひらの光にぼんやりと照らされながら傷を癒やしていると、いきなりその腕を取られ持ち上げられた。


「オイ!今何してたんだ!!」


 見上げた先にいたのは、アンタだった。


 腕を高く持ち上げられたたらを踏みながら、少女は一生懸命に答えた。


「いたいの、なおしてた」


「マジかよ……」


 そう呟いたアンタの顔は笑んでいたが、醜くゆがんでいた。アンタは腕を掴んだまま大股で家に向かう。少女はつま先立ちで引きずられながらそれについていった。


「なあ!こいつ高く売れるぞ!!」


 家の扉を殴るように開けながら、アンタはそう喜色に満ちた声をあげた。




 それからふたりは、少しだけ優しくなった。


 飢えないようにとパンやチーズを毎日与えられるようになり、顔や体を拭うための布も、包まって眠るための柔らかな毛布も与えられた。そしてふたりは毎日代るがわる少女の頬を張り、「治せ」と言うようになった。あの暖かな光が嘘ではないか、消えてはいないかと、確かめているようだった。




 迎えの馬車が来たのは、そんな生活をしばらく繰り返した後のことだった。

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