ニエ(1)
「それがそうか」
馬車から降りてきた神経質そうな男が少女をじろりと一瞥してそう言った。
「そうです!今、見せるんで!」
アンタは媚びるような笑顔を見せながら、少女の腕をぐっと掴み頬を思い切り張り飛ばした。
ばあんと大きな音がなり、少女の体はひどく反り返った。
「オイ早く治せ!」
腕を強く掴まれていた分衝撃を逃がせず、鼻や口の端から血をぽたぽたと落としながら少女はくらくらとする頭で大人しくそれに従った。痛いのだ。痛いのは、治してもいいなら、そうしたかった。
「ふん、本物だな。代金を」
神経質そうな男がそう言うと、後ろに控えていた年嵩の男がじゃらりと音を立てる小ぶりな袋を取り出し、それをアンタに渡した。アンタは袋を受け取るやいなや袋の口を開き、中を確かめて弾んだ声を上げた。
「すげえ!大金だ!」
「ちょっとあんた、あたしにも見せてよ!」
小ぶりな袋と引き換えに、少女は突き出されるように年嵩の男へと受け渡された。アンタとオマエは袋の中身に夢中で、もう少女を見ることはなかった。そのまま馬車に連れ込まれ、少女はぼんやりと、もうあそこに居られないのだな、と理解した。
不思議と、年嵩の男は馬車に乗ってこなかった。
頭の上で、「始末は」「恙無く」と男たちが会話を交わすのが聞こえたが、少女にはそれがどういうことかわからなかった。馬車は、年嵩の男を残して走り始めた。
「汚いな」
開口一番に男がそう言葉を放った。汚い、はアンタやオマエがいつも少女に向ける言葉で、それは殴られたり水をかけられたりする、よくないことだと少女は認識している。できるだけ体を小さく縮こめて次に来るどれかに備えようとしたが、少女にとって意外なことに男はただ言葉を続けた。
「君は『贄』だ」
『ニエ』は初めて聞く言葉だった。ただ、なんとなく自分のことについて話しているのだろうと思い少女は男をじっと見つめて言葉を待った。
「私は君を金で買った。私が贄を必要とするときまで、何もせず大人しく生きていろ」
幸い『カネ』と『買う』は知っていることだった。アンタがたまに『カネ』で甘いお菓子を買ってきたからだ。そして優しいだろうと言って笑った。
あんな素敵なものを買うことができる『カネ』は、とてもすごいものなのだろう。そして自分はそんなすごいものと交換されたのだ、と少女はおぼろげに理解した。
だからあの家から出されたし、もう『オイ』ではないのだ。たぶん、新しい名前は『ニエ』なのだろう。少女は現状をそう受け止めた。
男はもうそれ以上口を開かなかった。少女は男になにかを問いかけるための言葉を知らなかったし、無駄に口を開くと殴られるものだ、と今までの経験上そう覚えている。だから、できるだけ小さくなって、物音をたてないようにじっと座っていることにした。
馬車は沈黙を乗せて、いずこかへと走り続けた。
§
馬車は街から少し離れた、森の中にある大きな屋敷に到着した。
「ついてこい」
男はそう言って振り返ることもせずにすたすたと歩いていった。
少女が必死に足を動かしついていくと、数人の女たちに身柄を預けられた。
「それを洗って身綺麗にしろ。用意した部屋にいれ、最低限の世話をするように。関わることと、身体を損ねることは許さない」
男はそう言い残し立ち去った。
「かしこまりました」
女たちは揃って頭を下げ、男を見送ったあと少女を連れて歩き始めた。少女が次に連れてこられたのは、井戸のある裏庭だった。
そこで少女はすべての衣服をはぎ取られ、水を張ったたらいに放り込まれた。少女は、やっぱり汚いと水をかけられるのだと思い、大人しくそれを受け入れた。
「やだ!本当に汚い!」
「ねえ、この髪どうする?鳥の巣よりひどい」
「解すのは無理ね、切るしかないわ」
「嫌だ!!ねえ頭に虫が湧いてるんじゃない?何か動いた!」
「一度ぜんぶ剃り落としましょう。駆除薬を持ってくるわ」
女たちはきゃあきゃあと騒ぎながら、少女の髪を剃り粗い布で全身に泡を擦りつけた。少女の柔い肌は粗い布に強く擦られ赤くヒリヒリと傷んだが、少女にとって痛いことは当たり前に起こることだった。あとで治せるといいなと思いながら、ただじっと現れては消えていく泡を見つめていた。
洗い終わると、頭からすっぽりと被る穴の空いた袋のようなものが着せ付けられ、少女には一室が与えられた。
その部屋には寝台と机と椅子、おまるが置かれており、あとはわずかにスペースがあるだけの些細なものだったが、少女にとっては信じられないほど贅沢なものであり、とうてい自分に与えられたものだとは思えなかった。
(ニエは買われたから、きっとここにあるものといっしょなんだ)
少女は自身を、家に置いておくための家具のようなものなのだと考えた。家具を買うように、少女も同じく買われたのだからきっとそういうことなのだろう、とそう思った。
(ニエはここに置かれたから、ここでじっとしていよう)
『ニエ』が何を意味するのかはわからなかったが、あの優しい暖かな光が必要だから買われてここに置かれたのだと少女はそう思っている。
だから、いつかあの光が必要になって、誰かの『痛い』を治すのだ。
それはとてもよいことだと、少女は少し嬉しくなった。
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