贄と呼ばれた少女の、幸せ

紬夏乃

第1章 贄と呼ばれた少女

プロローグ


 ――逃げなきゃ、逃げなきゃ、ここから早く




 暗い夜の森の中を、ひとりの少女が走っている。


 道とよべるほどの道もなく、草や木の根に足を取られながらも一歩でも早く前へ進もうと必死に走る様は、まさしく逃走者であり、憐れだった。


 ――逃げなくちゃ、私がここにいちゃいけない


 少女は教育を受けたことがない。読み書きもできず、それどころか生きていくために必要な知識さえも欠けていた。嘲笑されながら見様見真似で必死に取り繕って生きてきたが、十年以上過ごしたあの屋敷がどこにあるのかも、どちらに向かって逃げればいいのかもわからなかった。


 それでも少女は逃げなければならなかったし、誰か『えらいひと』にこの窮状を伝えなければいけないと考えていた。あのおぞましい『門』の存在を訴え、誰かに『りょうしゅさま』を止めてもらわなければ恐ろしいことが起こるということは、少女にもわかることだった。


『りょうしゅさま』より偉い人は『おうさま』で、『おうさま』はおおきな街のおおきなお城に住んでいる。少女にわかることはそれだけだった。


 王都がどの方向にあるのかも、謁見を賜ることがどんなに不可能に近いかということも、それどころか夜の森を走ることがどんなに危険かということさえも知らずに少女はただひたすらに前へ前へと走っていく。


 ――逃げなくちゃ、私が、誰かがあの門を開けてしまう前に


 木の根につまづき、生い茂る葉や枝には肌を浅く裂かれた。もうすぐ『特別な材料』が届くと、『りょうしゅさま』はそう言っていた。届いてしまってからでは遅いのだ、取り返しがつかない。あるいは、この逃走が失敗に終わって少女が捕まってしまっても。それがわかっているから少女はただ一途に走る。


 不意に、横手の茂みががさりと音をたてた。少女の視線もそちらへ導かれる。




 視界の端に、赤い赤い、なにかが映った。

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