第36話 青天の霹靂(へきれき)


 翌日の放課後も、瑠璃のマンションに寄って勉強をすることにした。

 テスト3日前ともなると、英語の基礎的な文法や応用問題まで把握し終わっていた。後は出題範囲に出てくる英単語を丸暗記すれば、それなりの点数が稼げそうだった。



「こちらの単語はよく似たつづりの別単語があるので注意してください」


「わかった。ありがとう」



 俺と瑠璃はリビングにあるローテーブルに座り、英語の勉強を進める。

 参考書を見ながら問題を指摘した方がわかりやすいからと、対面ではなく肩を並べて座っていた。すると、ふとした拍子に肩がぶつかってしまって。



「あ……」

「あ……」



 柔らかな瑠璃の肩が当たり、俺は反射的に彼女の方を振り向く。

 瑠璃も嫌がる素振りを見せず、じっと俺を見つめてきて。



「飲み物取ってくる。何がいい?」



 俺は甘い空気に耐えれず、そう言って席から立ち上がった。



「……イチゴオレでお願いします」


「はいよ」



 瑠璃は不服そうに頬を膨らませたあと、いつものイチゴオレを注文してくる。

 俺は素っ気ない素振りで頷き、冷静を装いながらキッチンへ向かった。



「ふぅ……。危ない危ない……」



 冷蔵庫からイチゴオレのパックを取り出しながら、俺は安堵のため息をつく。

 思いがけず良い雰囲気になってしまったが、今は勉強に集中しなくては。

 先日の猫耳事件から、瑠璃を意識しまくっている。



(意識してるのは前からだけどな……)



 瑠璃と恋人になる。そんな妄想は脳内で数えきれないほど行った。

 けれど、最後はブレーキがかかる。

 俺を縛る鎖の正体。それはきっと――



 ――ピンポーン。



 突然、インターフォンが鳴った。宅配だろうか?

 親機はリビングにある。今頃は瑠璃が出ているだろう。

 イチゴオレを注いだ二人分のコップを手にしてリビングに戻ると……。



「大変です。颯人くんっ。お父様がウチにいらっしゃいます!」



 ◇◇◇



 甘い空気から一転、リビングの空気が張り詰める。

 瑠璃のオヤジさんを中に案内したあと、俺は人数分の緑茶を淹れた。



「どうぞ」


「うむ……」



 瑠璃のオヤジさんは俺が差し出したお茶を口にして、渋い顔を浮かべる。



(安いお茶じゃないんだけど気に入らなかったのかな……)



 茶葉は瑠璃と一緒に買い物に出かけた際に、商店街で購入したものだ。

 急な来客用にと準備していたが、こんなにも早く出番が来るとは思わなかった。



「千鶴さんもどうぞ」


「本日は会長の付き添いですのでおかまいまく」



 千鶴さんは首を横に振ると、それきり発言を控えた。

 千鶴さんはいつものメイド服ではなく黒いスーツ姿に身を包んでいる。秘書モード、ということだろう。

 感情の読めない澄ました表情を浮かべながら、ソファーに腰掛けるオヤジさんの傍らに立っている。



「風馬くんも座りたまえ」


「し、失礼します」



 オヤジさんに着席を促されて、俺は緊張しながら対面の席に座った。

 瑠璃と肩を並べながら、失礼にならない範囲でオヤジさんの様子を窺う。


 瑠璃のオヤジさんは岩のように大きな体をしており、白髪まじりの黒髪をポマードで固めていた。渋い映画俳優みたいな顔立ちで、お茶をすする姿も様になっている。大企業の会長だけあって貫禄があり、立ち振る舞いからして大物感を漂わせていた。


 内心でビビりまくる俺を余所に、身内の瑠璃はオヤジさんに容赦ない視線を送る。



「どうして突然いらっしゃったのですか?」


「親が娘の顔を見に来て何が悪い」


「せめて事前に連絡を入れてください」


「おまえが悪いのだぞ。たまには帰ってこいと伝えたはずだ」


「それは……」



 オヤジさんの厳つい眼光で睨みつけられて、娘の瑠璃は押し黙ってしまった。

 けれど、怯えているわけではない。不満そうに唇を尖らせている。

 その表情だけで、オヤジさんに対する瑠璃の接し方がよくわかった。



「おまえが一向に顔を出す気配がないから、こうして仕事の合間を縫ってきたのだ。ウチのも心配しているぞ」


「それなら写真を撮りましょう。そしてお義母様にお伝えください。瑠璃は元気にやっておりますと」



 おふくろさんの話題を出したのが不味かったのだろう。瑠璃がツンと顔を背ける。

 娘の反抗的な態度を目の当たりにして、オヤジさんは眉間に浮かんだ皺を指で押さえた。



「瑠璃……。いい加減、折り合いをつけろ。おまえはいつまで経っても子供だな」


「そのようなことはありません。瑠璃はもう大人です」


「一人暮らしもまともにできない小娘が何を言う」


「それは……」


「事情は把握している。風馬くんの助けを借りて暮らしているそうだな」



 オヤジさんは俺に視線を向けると、岩のような仏頂面を緩めて礼を述べた。



「瑠璃が世話になっている。キミの働きぶりは千駄木せんだぎくんからも聞いているよ。いつもありがとう」


「いえそんな。俺……じゃなくて、ボクも仕事でやっていることですので」



 急に話を振られたうえに褒められてしまった。

 しかも相手は大企業のトップ。緊張して上手い返しができなかった。



「仕事……か」



 俺のしどろもどろな返答に、オヤジさんは口に含んだ酒の味を確かめるように顎をそっと撫でる。



「人を雇い部屋の片付けをさせているのは大目に見よう。すべて一人でやらせたいところだが、瑠璃は不器用だからな。怪我でもされたら敵わん」


「お嬢さんに一人暮らしをさせているのは、社会経験を積ませるためなんですよね」


「その通りだ。お恥ずかしながら娘を甘やかしすぎてな。常識を知らぬまま社会に出たら火傷や怪我だけでは済まない」



 俺の問いかけにオヤジさんは頷き、お茶をすすった。それからまた渋い顔を浮かべて茶碗を置く。



「天城グループの名を隠して、ただの学生として生きる。誰の手も借りず、一人で暮らす……。そうすることで見えてくるものもある。そう考えたのだ」


「なるほど……」



 瑠璃が前に語ってくれた事情と内容は同じだ。家庭の問題で家出した可能性も捨てきれなかったが、オヤジさんとのやり取りを見た感じではそこまで深刻な話でもなさそうだ。

 俺が内心で安堵のため息をついていると、オヤジさんはギロリと俺を睨みつけてきた。



「その目……。親の金でマンションを借りておきながら何を言っている。そう思っているな」


「そんなことは」


「よいのだ。キミが考えているように、これは”ごっこ遊び”なのだろう。私も瑠璃もお遊びだと思ってる。だからキミを傍に置いているのだ」



 含みのある言葉に、俺ではなくて瑠璃が顔を上げてオヤジさんを見つめた。



「お遊びとはどういう意味ですか?」


「そのままの意味だよ。風馬くんを雇っているのは一時の気の迷いにすぎない。掃除も料理もプロの代行業者を雇えば済む話だ。なのになぜ彼を雇い続ける?」



 オヤジさんの言うことはもっともだ。

 俺より上手に家事をこなす、その道のプロはたくさんいる。それなのにどうして俺を指名したのか。俺も疑問に思って訊ねたことがある。

 瑠璃の答えは――。



「颯人くんをお側においているのは、彼が誠実で真面目な青年だからです」



 瑠璃は顔を上げて、オヤジさんの目をしっかりと見ながら言い切った。



「お父様は仰いましたよね。天城の名を使わず、ただの瑠璃として生きるようにと。そのためにはわたしの素性を隠す必要があります」


「その通りだ。天城の名を出せば相手から頭を下げてくる。それでは実家にいた頃と変わらない」


「でしたらご安心を。颯人くんはわたしの素性を知っても、普通のお友達として仲良くしてくださいました。彼の隣にいる間、わたしはただの瑠璃として生活できるのです」


「仲良く……か」



 瑠璃の言葉に、お茶を飲もうとしたオヤジさんの手が止まる。

 それからテーブルに置いてあった角砂糖を茶碗に入れ始めた。



(何してるんだあの人……)



 オヤジさんの奇行に俺は心の中で驚きの声をあげる。

 コーヒーならわかるが緑茶に砂糖って。味覚がおかしいのだろうか。

 そんな俺の心の声が届くはずもなく、オヤジさんはティースプーンを回して砂糖を溶かす。



「彼をはべらせておけば友達ごっこができる。風馬くんを選んだのはそれが理由か?」


「先ほどから、ごっこだ遊びだと颯人くんに失礼じゃないですか。彼は真摯しんしに仕事へ向き合っています。謝ってください」


「彼の仕事ぶりは疑っていない。この部屋の様子を見れば一目瞭然だ。掃除の腕前はウチで雇っている家政婦と比べても遜色ないだろう。だが……」



 オヤジさんは理解力のある王侯貴族のような、優しく気品のある笑顔を浮かべると。



「それ以上の関係を望むなら、キミのクビを切らねばならない」



 急に声色を変えて、冷たい岩肌のような険しい表情で俺を突き放した。


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