第13話 互いに利用し合う関係
「……もしかして、騙しました?」
「騙してないよ。それを信じるかどうかは、イェリナが決めることだけど」
だけど、なんなのだ。と荒んだ心でイェリナがセドリックを睨む。
セドリックは乱れた前髪を掻き上げながら、長い指を一本立ててイェリナの唇にトンと優しく触れた。
「イェリナ、乙女のキスは普通、頬ではないんじゃない?」
セドリックはそう告げて、イェリナの唇を触った指で自分の唇をなぞってみせた。
普段のセドリックの柔らかで穏やかな印象とはかけ離れた妖艶な仕草に、イェリナの心臓が悲鳴を上げる。頼んでもいないのに、体温が上昇して背中から汗が噴き出した。
(待って、待って待って待って。わ、わたしは眼鏡を愛しているの! 眼鏡をかけていないセドリックに、幻覚眼鏡が消えてしまったセドリックに、ドキドキしていいの!? これって、浮気では!?)
これは眼鏡への背信行為だ、と思う一方で、イェリナを熱く見つめるセドリックの
そんな熱い目で見つめられたら。イェリナはもう、セドリックを直視することなんてできなかった。熱のこもった黄緑色の目から逃れるように顔を背ける。
「呪いの話は冗談なんですよね!? だったら、さっきのキスはなしです、なし!」
イェリナは激しく高鳴る心臓の音に負けないように大声で叫ぶ。
そうして講義開始五分前のベルが鳴る音を聞きながら、チラリと盗み見たセドリックの顔には、繊細な形をした
§‡§‡§
「やあ、セオ。順調かい?」
「兄上……
「やらしいな、魔法の窓でなにを見ていたんだい?」
「……ビフロス令嬢に頼まれたので、透視魔法でイェリナの安全を見守っているんですよ。僕はこの時間、空き時間なので」
「イェリナ嬢、か。彼女は我らの呪いをどうやって解くんだろうね。やっぱり、真実の愛を得ることが祝福に繋がると思うかい?」
「そうであればいい、と思います。イェリナとの出会いは、僕にとって確かに祝福でした」
「彼女との出会いが、メガネなるものを深く愛する者に
ジョシュの意地悪な問いに、セドリックの顔が途端に歪んだ。
言われなくても、わかっている。けれどセドリックは、ジョシュに反論するように言い切った。
「呪いだからこそ、僕はイェリナと出会えたのです」
口にした途端、もや、と。胸の内に湧く黒い感情を自覚して、セドリックが、ぎゅっと拳を握りしめた。
イェリナの薄茶色の目が、愛しいものを見る目で見つめているのは、セドリックではない。イェリナが好いているのは幻覚眼鏡で、セドリック自身ではない。
「イェリナと僕は、互いに利用し合っている関係です。真実の愛にはほど遠い」
「なに言ってるんだい。人目につかないとはいえ、廊下の隅でキスしてもらったくせに」
「……覗き見ですか、趣味が悪いですよ兄上」
「試すような言動をしたセオも悪いでしょ。彼女、セオのことを本気で助けようとしていたね。呪われた人間に関わったことが貴族社会に知られたら、磔刑ののちに一族鏖殺も珍しくはないのに」
だからセドリックはアドレー以外の友を持たず、大公子爵である立場をうまく使って他人と距離を取り、都合のいい者としか関わってこなかった。
それなのにイェリナは必死になってくれた。もし、呪われているのがアドレーだと嘘を教えても、イェリナは必死になるに違いない。
そう思うと、心が痛い。誰にも渡したくはない。けれど、あの素直で純粋で一生懸命なイェリナの心に手が届かない。
「イェリナに、呪いを解くために優しくしているのだと思われたくはない」
セドリックは険しい顔で言い切った。
はじめは、
あんなに情熱的な視線を向けるだなんて、そんなにメガネなるものはいいものなのか。イェリナにあの熱い眼差しで見つめられるのならば、わざわざ呪いを解かなくてもよいのではないか。
いや、そんなことよりも、呪いは真実で、解呪するにはイェリナの協力が必要なのだ、と懇願して彼女を囲ってしまうのはどうだろう。毎朝毎夜、乙女のキスをねだって——。
そんなことさえ頭をよぎる。
完全に拗らせてしまったセドリックが途方に暮れてジョシュを見ると、ジョシュは深刻な表情を浮かべていた。
「……セオは誰かに相談したほうがいいと思うな」
「アドレーに呪いの話ができれば早いのでしょうが、自分が立てた
アドレーはセドリックを裏切らないだろうけど、今、アドレーが支援している令嬢が問題だった。
「別にアドレー君は、マルタン家の令嬢に誓約魔法で縛られているわけじゃないんだろう?」
「ええ、そうです。自分の意志でマルタン令嬢についているから、厄介なんです。秘密はどこから漏れるかわかりません。漏れた秘密を上手く利用するのが、マルタン侯爵家ですから」
「確かに今は彼女の方が
ジョシュは「どうする、やる?」と告げて、片目をパチリとつむって見せた。途端にセドリックの顔が青褪める。待て、待て、そんな。まさか兄上が?
「兄上、まさかイェリナを気に入ったのですか?」
手足の先が冷たく震え、視界だって暗くなる。血の気が引くとは、このことか。
(だってイェリナは、僕のものだ。イェリナが僕を、僕の
セドリックは、爆発する独占欲に気付かぬ振りをして、代わりに信じられないものを見るような目でジョシュを睨んだ。そんなセドリックの不審な様子に、ジョシュから、くつりと苦笑が漏れる。
「将来の義妹として、だよ。そんな顔をするな、セオ。僕には可愛い妻と子供がいるんだぞ。……ともかく、一度イェリナ嬢を家に連れてくるといい。きっと彼女に会えば、父上も気にいるだろうから」
イェリナが家に来る。ひとつ屋根の下で、ともに過ごせる。その甘くて酸っぱい想像は、セドリックの胸を自然と高鳴らせた。
けれどこのときセドリックは、少しも思い至らなかったのである。
カーライル家の呪いは、カーライル家の血を引く者に等しくかかっているということを。
§‡§‡§
(あっ、眼鏡の気配がする!)
イェリナがそれを疑問に思うことはない。むしろ大歓迎だ、心の準備ができていい。
そうしてイェリナが察知した通り、最終講義が終わって講義室から退室したところにセドリックがあらわれた。
「イェリナ、この後少し、いいかな?」
「あっ、えっと……」
いくら心の準備ができていたとしても、実際にセドリックと対面するとイェリナはしどろもどろになってしまった。
呪いを解くためだとセドリックの頬にキスをしてしまったイェリナは、自分がしてしまったことが、いかに恥ずかしいことなのか今更ながらに自覚していた。
呪いは結局、嘘か真かわからない。もし本当だとしても、あの中途半端なキスで解けたとは思えないし、嘘だとしても、焦って許可も取らずに頬へキスしてしまったイェリナが悪い。
イェリナの理性は本当に役に立たない。しっかり仕事をして欲しい。あと一歩、どうして踏み止まれなかったの。
決まりが悪くて視線が泳ぐイェリナに、それでもセドリックはいつものように微笑んでくれた。その気遣いが嬉しくて、なおさら言葉が喉の奥で詰まってしまった。
「いいよね、行こう」
イェリナは無言で頷いて、セドリックに連れられるがまま学舎の中を歩く。どこへ向かっているのかは不明だけれど、この
イェリナはセドリックへの、気が急くような、のぼせるような、恥ずかしいような気持ちをすべて幻覚眼鏡へぶつけることで相殺しようと試みた。
(いよいよこのフレームを試すときが来たわ。お願い、わたしを救って眼鏡さま。……いでよ!
イェリナが心の中で召喚魔法らしき呪文を唱えると、セドリックの幻覚眼鏡は形を変えた。
強く思うだけで自由自在に形を変える幻覚眼鏡は、なんとイェリナの同時召喚にも応じてくれたのだ。
(ああっ! ハーフ系は……ッ、選べない! 選べないよ……だって、そんな……選べないじゃない……!)
知的な印象が強く出る
まるで恋する乙女のように頬を赤らめて、セドリックの幻覚眼鏡をチラチラと視る。イェリナにしては珍しく、幻覚眼鏡をどちらか一方のフレームに固定しきれなかった。
そんなイェリナの優柔不断は、当然、幻覚眼鏡にも影響を及ぼし、セドリックが話すたびに幻覚眼鏡が入れ替わる。
「そうだ、イェリナ。星祭りで着るドレスは、もう決まっているの?」
そう言ったセドリックの顔には、
「ど、ドレスですか? ええと……制服ではダメでしょうか?」
「いけないね。イェリナがよくても、僕や周りの人間が許さないよ。アドレーは特に」
今度は
「……あ、あのですね、我がバーゼル男爵家はですね、その……田舎貴族にありがちな財政状況でして……今は少し持ち直したとはいえ、その……」
「知ってる。だから、僕が用意する。イェリナは僕が贈るドレスとアクセサリーを身につけて、星祭りに参加して欲しい」
セドリックの申出に驚いて、イェリナがハッとセドリックを見た。幻覚眼鏡ではなく、セドリック自身の顔を、だ。
神秘的な黄緑色のその奥の切実な炎。言葉の裏に見え隠れするセドリックの真剣な心。そういうものを真正面から浴びてしまったイェリナは、ほんの一瞬だけ眼鏡を忘れた。
ぱちりぱちりと目を瞬かせ、イェリナはセドリックの顔を窺い見やる。目を見ればわかる。セドリックは真剣だ。
真っ直ぐ自分を見て欲しい、と切に訴える目が、イェリナをさらに困惑させた。
(ドレスだなんて、分不相応よ。わたしはセドリックを利用しているだけなのに)
セドリックはいいひとだ。イェリナの眼鏡語りを真剣に聞いてくれた、はじめてのひと。
呪いの話を聞いて慌てたイェリナが失礼なことをしても、咎めることなくいつも通りに接してくれる優しいひと。
だからイェリナは、途端に青褪めた。そんなつもりはなかったのだ、と言い訳しようとしている利己的な自分が情けない。眼鏡と単位のために近づいておいて、なんて言い様か。
イェリナは今すぐにでも、すべて投げ出して許しを乞いたかった。
「セドリック、あの……わたし……」
「イェリナ、受けてくれるね? 星祭りのためだ、できるでしょ?」
「……あ、…………わ、わかりました。……よろしくお願いします」
柔らかく微笑むセドリックへの返事とは裏腹に、イェリナは
悔しくて不甲斐なくて、イェリナは自分のくちびるをギリリと噛んだ。けれどそれも、セドリックのまあるい声がイェリナを優しく包んで止めてしまった。
「それじゃあ、行こうか。きっとイェリナも気に入ると思う」
行き先も告げずにふわりと笑ってイェリナの手を優しく引いたセドリックの顔には、
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