第14話 ここは眼鏡の楽園かな?

「なんてことなの……どうしてわたし、セドリックの家に……?」


 王都郊外に建つカーライル大公邸の豪華な客室で、ふかふかな寝台ベッドに仰向けになりながら、イェリナは茫然と呟いていた。

 いまだ混乱がおさまらない頭を無理矢理動かして思い出す。

 セドリックに手を引かれて馬車に乗った。その後、広い車内であるのにイェリナの隣に座るセドリックの横顔に、さまざまな幻覚眼鏡を顕現させて着せ替え眼鏡を楽しんで、気づいたときには大公邸だった。

 あれよあれよという間に専属メイドなるものがつき、身だしなみを整えられてドレスを着せられた。


(専属メイドって、なに? わたし、ただのお客ゲストでは?)


 だなんて混乱している間に、晩餐ディナーに招かれたのである。そこにはセドリックの家族が勢揃いしていた。


『父上、母上、それから兄上。彼女がイェリナ・バーゼル嬢です』

『はじめまして、イェリナ・バーゼルです。西方領区の男爵家の娘で学院アカデミーに在学中です。今夜は素敵な晩餐ディナーに招待していただき、誠にありがとうございます』

『まあ! まあまあまあまあ! なんて芯の強い目をした可愛らしい子なの!? ああ、嬉しいわぁ……貴女が私の娘になるのね』


 若草色のドレスを着たカーライル夫人は、目を輝かせて興奮していた。

 イェリナは顔に笑顔を貼り付けて、自分が習得しているマナーと礼儀のすべてを尽くしてお辞儀カーテシーを披露してみせたけれど、背中をびっしょり汗で濡らしていた。


『母さん、待って落ち着いて! まだ彼女にはなにも……あ、ごめんね騒々しくて。僕はジョシュ。セオの兄です。学院アカデミー在学時は魔法理論と方式について研究をしていました。わからないことがあればいつでもどうぞ』

『あ、ありがとうございます。……錬金術と付与魔法について研究しているので、いずれお話を聞かせていただければと思います』

『きっと君の役に立てると思う。末長くよろしくね、イェリナ嬢』


 そう言って、ジョシュが意味深に片目を瞑ってみせた。末長くとは、いつまでなのか。普段なら冷静に返せていたはずのイェリナには、冷静さを維持できるだけの余裕はない。なぜならば。


(待って。待って待ってまさか……!)


 イェリナはジョシュの顔面に、セドリックと同じ幻覚眼鏡を視てしまったからだ。

 だからイェリナは覚悟を決めて、次にセドリックの父親と向き合った。お腹に力を入れて背筋を伸ばし、奥歯をぎゅっと噛み締める。


『……ゆっくりしていきなさい、イェリナさん』


(嘘でしょ、眼鏡……イケオジ眼鏡……ッ! あっ、大公様になんて失礼なことを!)


 イェリナは魂の底から叫びそうになった喉に力を入れて、ぎこちない微笑みを返すことしかできない。そんなイェリナの無礼な態度など気にせず、カーライル大公が低く響く声で話しはじめた。


『私はカーライル家当主ブレンダン。妻のメイリーヌがすまない。だが、君がよければ息子との馴れ初めをきか』

『父上ッ! ……すまない、イェリナ。僕が家族に君の話をしたから、皆、イェリナに興味津々なんだ』

『は、はぁ……そうですか……』


 イェリナが気を抜けた返事になってしまったのも無理もない。


(ど、同時多発眼鏡……ッ! 信じられない……ここは眼鏡の楽園かな?)


 セドリックの母メイリーヌを除く、父ブレンダンと兄ジョシュが、揃いも揃って幻覚眼鏡をかけていたのだから。

 そういうわけでイェリナは混乱と眼福の狭間で浮かれながら豪華な晩餐ディナーをいただき、さらには湯浴みまでさせてもらって現在に至る。

 いったいセドリックは家族にイェリナのことをどう説明したのだろう。家族だけじゃない。大公家の使用人たちのイェリナに対する異様なまでな歓迎ぶりも異常だった。


(どうすればいいの、わたし……こんな眼鏡の楽園で!)


 イェリナは大きな枕を抱きしめて、ばふりと顔をうずめて唸る。

 目を閉じると、セドリックの真剣な眼差しが目蓋の裏にチラついた。枕に触れた唇が、セドリックの頬の柔らかさを思い出して顔が火照る。

 美しくきらめく黄緑色イエローグリーンライトの目。あんな熱い目で見つめられたのは、前世を含めて一度だってない。


「ちゃんと、セドリックとちゃんと話さないと。わたし、セドリックとどうこうなりたいなんて、思って……思って……」


 ないのだから、と言葉にして続けることができなかった。口に出して否定したら、ショックを受けそうで怖かったから。


「だめ、でしょ……セドリックは所詮、ただのひと。本当の眼鏡じゃないし、わたしとは身分が違う。信じることは、できない」


 口にした言葉が虚しく溶ける。まるで真実味のない言葉。意味のない言葉で誤魔化すくらいなら、いっそ、前世の業も記憶もなにもかも消えてしまえばいいのに。

 イェリナはツキツキと痛む胸を抑えながら、静かに目を閉じた。

 けれど、忘れたい記憶は思い出したくないときに限って、思い出してしまうもの。イェリナは、閉じた瞼の裏に前世での忘れたい記憶が浮かび上がるのを震えて堪えることしかできない。


 §‡§‡§


 イェリナが眼鏡を愛するようになったのは、眼鏡のフォルムや素材、機能美もさることながら、大学での不幸な出来事が大半を占めている。


『おはよう、昨日、隣に座って少し話したよね。今日はどの講義受けるの?』

『……えっと、……あの、誰ですか? それだけで友達認定とか。そういうの、ありえないんで』


 大学は広い。中高生の頃とは違って様々な地域から進学しているひとがいる。勝手が違うのは当たり前。覚えられていなくても、仕方のないこと。

 ひと言話せば顔と名前を覚えて親しみを感じてしまうのは、どうやら普通のことではなかったらしい。

 一度挨拶を交わした程度でいい気になっている、なんて言って冷たい言葉と態度で嘲笑し、ヒソヒソと陰口まで叩く始末。あの子ちょっとおかしい、気持ち悪いと言われたことなんて、両手の指じゃ足りないほど。

 けれど、世の他人ひとがみんな同じわけじゃない。


『あの……お、おはよう、ございます。今日もよ、よろしくお願いします……』

『あ! 昨日も同じ講義受けてましたよね。よかったぁ、知ってる人が一緒だと、心強いから』


 唯一なのか、偶然か。覚えていてくれたのは、皆、眼鏡をかけたひとばかり。親友だって、眼鏡をかけていた。よくしてくれた先輩もそうだし、恩師もそう。

 だから前世では、もう、覚えないことにした。

 眼鏡をかけていない他人の名前は記憶することを避け、眼鏡をかけているひとの顔と名前だけを頭の中へと蓄積する。そうしているうちに、眼鏡をかけていないひとの名前には興味が持てず、覚えてもすぐに忘れてしまうようになったのだ。


(どうせ覚えても、すぐに忘れられてしまう。それなのに、どうして覚える必要が?)


 眼鏡を愛したのが先か、他人に愛想が尽きたのが先か。

 どちらにせよ、歪んだ経験がイェリナの魂をいびつな形にしてしまったことだけは確かだった。


 §‡§‡§


 イェリナは忘れたい過去を振り切るように、ばふばふと触り心地のよい広い寝台ベッドの上で、ごろごろ転がり続けた。

 何度も転がり、どこまでも転がり続けられそうなベッドの広さを感じてイェリナの心も次第に伸びてゆく。


「セドリックの眼鏡はただの幻覚。でも、わたしには眼鏡が視えるんだから……セドリックを信じてもいいんじゃないの? ああ、ここに眼鏡があれば迷わないのに」


 と、実在する眼鏡について考えたイェリナの思考が、急に現実感を取り戻した。


「……待って。待って、そうよここには眼鏡がない!」


 ガバリと勢いよく起き上がり、顔から色がサッと失われてゆく。

 寝台ベッドから転がり落ちるように降りたイェリナは、ふわりと柔らかな生地の寝間着ネグリジェのまま、衝動的に客室の外へと飛び出した。


「駄目……駄目……そんなの、耐えられないっ! わたしの大事な大事な眼鏡さま……っ」


 長い長い廊下を裸足で駆ける。自然と涙が溢れて頬を伝う。毛足の長い絨毯に足音は吸い込まれ、イェリナの嘆きだけが夜の大公邸に響いている。

 この世界で唯一実在する眼鏡。イェリナが魔法と錬金術を駆使して作り上げた一本。

 魂の拠り所。

 イェリナはそんな眼鏡を、毎夜、寝る前に金庫の中から取り出して気が済むまでで眺め、たっぷりと眼鏡成分を摂取してから眠りに落ちていた。

 その大事な大事な眼鏡は、カーライル大公邸ここには、ない。イェリナの心を安定させる眼鏡がない。


(駄目、無理! 一晩だって我慢できない……っ!)


 長い髪が乱れるままに駆け抜けて、イェリナは混乱するままにカーライル大公邸を抜け出した。


 §‡§‡§


 一方その頃、王都の貴族街にあるローズル侯爵邸に帰宅したアドレーの口から、玄関先で待ち構えていた白髪の執事の報告を疑うような言葉が漏れた。


「サラが訪ねてきたというのは、本当なのか?」

「はい、アドレー様。只今、応接間にてアドレー様をお待ちです」


 老執事の答えを聞くや否や、「お待ちください!」と引き止めようとする老執事を振り切って、アドレーは学生服のまま応接間に駆け込んだ。


「サラ……サラティア! どうしたんだ、なにか問題でも?」

「問題があるからこそお訪ねしたのです、ローズル侯爵子息様」


 凛とした冷たい声が、応接間とアドレーの心臓に響いた。棘のある声が痛い。

 他人行儀に呼ばれる名前に顔を顰めながら、アドレーは応接間の長椅子ソファに腰掛け待ち構えるサラティアにふらふらと近寄った。そうしてサラティアの手を取り、彼女の足元にひざまずく。


「サラ……いつになったら名前で呼んでくれる? 婚約して、もう十年以上経つ。学院アカデミーを卒業したら結婚だ。いつまでも他人行儀な態度はどうかと思うが?」

「今日は、わたくしとあなたの話をしに来たのではありませんわ」


 凛と響くサラティアの声に、アドレーの喉がヒュッと締まる。怒気を孕んでいても美しく気高いなんて、まるで女神のようだ。胸の内で盛大に賞賛を贈るアドレーは、至極真面目な顔で口を閉じたままサラティアの言葉を待つ。

 そんな忠実なアドレーの様子に、サラティアがわかりやすくため息をひとつ吐いた。


「単刀直入に申し上げます。わたくし、もう、あなたに協力はしないわ。ロベリア様のお友達をやめて、イェリナ様のお友達になりましたから」

「サラ! なんてことを……。いいか、俺は君の将来を思っ」

「余計なお世話です。あなたはいつも、わたくしのいないところで、なにもかも決めてしまう。わたくしはいつも、蚊帳の外」

「それは君のためだ」

「いいえ、すべてあなた自身のため。あなたのエゴよ。わたくしの将来は、わたくしが決めます。わたくしは、わたくしを助けてくれた、わたくしのお友達を助けるわ。それに……ロベリア様が心からお慕いしている方は、カーライル様ではないもの……これ以上の協力はできません」


 先ほどまで氷のようだった青緑色の目が、イキイキと輝いている。アドレーは、こんなにも輝いているサラティアをはじめて見た。

 イェリナ・バーゼル男爵令嬢。すべてあの令嬢のせいか。

 厳しく忠告したにも関わらず、あの令嬢はサラティアの心と信頼を同時に得たらしい。いまだアドレーが手にすることができないそれを、いとも簡単に。


「あなたがわたくしの命の恩人であることに変わりはないけれど、恩は恩として割り切ることにいたしました」

「サラ……待って、サラ。俺との婚約解消を考えているなんてこと……ないよな?」

「あなたがこれ以上、イェリナ様とカーライル様を困らせて、ロベリア様とお遊びになられるつもりなら、婚約解消も視野に入れ」

「それは駄目だサラ! どうしてわかってくれないんだ、俺たちが将来赴任するセーリング領は呪われた不毛の地! セドリックの嫁が誰になるかで領地の行末が変わるんだ!」


 自制心など、もはやない。アドレーは感情の赴くままに叫んで立ち上がった。無意識にサラティアの手を強く握りしめる。

 すると——。


「いい加減、目を覚ましなさい! アドレー・ローズル侯爵子息!」


 美しい憤怒の女神が鋭く言葉を発して、アドレーの頬を思い切り引っ叩いた。ジン……と痺れる頬を抑えたアドレーは、ただ呆然とするばかり。

 わかるのは、サラティアが肩まで真っ赤に怒りで染めて、婚約して以来、はじめてお願いを口にしたことだけ。

 

「いいからさっさと、ロベリア様との関係を精算して来なさい!」


 もしもこれがイェリナ・バーゼルの仕業なら、イェリナには大きな借りができたことになる。それも悪くはないな、と。叩かれた頬をさすりながら、アドレーは不敵に笑って頷いた。

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